第二十話:焼き窯と円盤、陽だまりの誘惑
島の再生は、食卓の多様性へと繋がります。
「先生、ピザが食べたいです!」という美月の無邪気なリクエスト。佐伯は眉をひそめながらも、廃材の煉瓦とサイロの耐熱タイルを組み合わせ、一日で最高性能の「石窯」を築き上げます。
そこで目撃したのは、銃を持たせれば最強、包丁を持たせれば最凶だった少女の、驚くべき変貌でした。
指先で踊る生地、完璧な円、そして絶妙な焼き上がり。
「特技:ピザ」というシュールで愛おしいギャップに、佐伯の心はまたしても揺さぶられます。
香ばしいチーズの匂いと、熱気の中での至近距離。
結ばれそうで結ばれない、亡霊たちの「もどかしい午後」をお楽しみください。
1. 亡霊の石工
朝の光がテラスを白く染める頃、佐伯は珍しく設計図を広げていた。
といっても、それは銃器の分解図でも、島の防衛マップでもない。美月が昨日、夕食のトマトソースを舐めながら呟いた「これでピザが焼けたら最高ですよね」という一言を具現化するための、ピザ窯の構造図だった。
「……先生、本当に作ってくれるんですか?」
美月がパジャマ代わりの大きなTシャツ姿で、目を擦りながらテラスに出てきた。
佐伯は、海岸から拾い集めた耐火煉瓦と、サイロの予備パーツであった断熱材を積み上げながら、短く答えた。
「……食いたいと言ったのはお前だ。……火力が足りなければ、ピザはただの生焼けの小麦粉の塊になる」
佐伯の作業は、相変わらず正確無比だった。
煙突の排気効率を計算し、ドーム内部の熱対流を最適化する。かつて爆発物の威力を最大化するために学んだ流体力学が、今は「最高のマルゲリータ」を焼くために惜しみなく投入されていた。
午後。テラスの隅に、まるで古城の一部のような重厚なピザ窯が完成した。
佐伯が薪を焚べると、窯の奥からは力強いパチパチという音が響き、白煙が南国の空へと吸い込まれていった。
「準備はいいか。……生地は、老人が送り込んできた最高級の強力粉がある」
「はい! ……先生、実は私、ちょっとだけ自信があるんです。……あ、お料理全般じゃなくて、この作業だけ」
美月が、袖を捲り上げてキッチンへと向かった。
2. 覚醒の指先
佐伯は、少し不安だった。
これまでの経験上、美月に刃物を持たせれば指を切り、火を持たせればボヤ騒ぎ、水を持たせれば水浸しになる。
だが、粉を練り始めた美月の背中には、今まで見たことのない「静かな風格」が漂っていた。
「……ほう」
佐伯は、思わず唸った。
美月の指先が、しなやかに生地を捉える。
強力粉と水、イースト、そして少量の塩。それらが彼女の掌の中で、まるで意志を持っているかのように一つにまとまっていく。
彼女の動きは、かつて格闘訓練で見せたあの流麗な体術そのものだった。力の逃がし方、粘り、弾力の引き出し方。
「……美月。お前、それはどこで覚えた?」
「分かりません。……でも、粘土細工とか、プラスチック爆弾の整形とか、指先で『形を作る』作業、昔から好きだったみたいで。……生地の呼吸が、指に伝わってくるんです」
美月は楽しそうに笑いながら、丸めた生地を空中に放り投げた。
生地は空中で綺麗な円を描いて回転し、遠心力によって薄く、均一に広がっていく。
――シュッ、バシッ。
彼女の手に戻ってきたのは、完璧な円形のピザ生地だった。
佐伯が手作りしたフレッシュトマトソースを塗り、自家製のモッツァレラチーズと、菜園のバジルを散らす。その配置にすら、工作員特有の「黄金比」のような美意識が宿っていた。
「……先生、焼きますよ」
美月は木製のパーラーを使い、生地を熱々の石窯へと滑り込ませた。
窯の中で、生地がぷっくりと膨らみ、チーズが泡立ち、コルニチョーネ(縁)に香ばしい焦げ目がついていく。その焼き時間を見極める美月の瞳は、狙撃の瞬間を待つスナイパーのように澄み渡っていた。
3. 焦熱の境界線
「……完成です! 先生、熱いうちに食べてください!」
テラスのテーブルに、黄金色のピザが置かれた。
佐伯が一枚手に取り、口に運ぶ。
パリッとした食感の後に続く、もちもちとした生地の甘み。そして、力強いトマトの酸味。
「……美味いな。……お前、スパイを辞めてイタリアに行けば、王族のお抱えシェフになれただろう」
「えへへ、先生にそんなに褒められるなんて……。……でも、私はこの島で、先生にだけ焼いていたいんです」
美月は、佐伯の隣に座り、自分の分のピザを頬張った。
熱気で赤くなった頬。額に光る汗。そして、幸せそうに目を細める表情。
佐伯は、ピザを食べる手を止め、彼女をじっと見つめた。
「……美月。お前は本当に、不思議な奴だ」
「どうしてですか?」
「戦場では死神のようで、厨房ではポンコツ。……なのに、こうして一つのことにだけは、誰にも真似できない輝きを見せる。……お前の『正体』が、いまだに掴めない」
佐伯は、そっと手を伸ばした。
美月の頬についた、白い粉。
彼の大きな指が、彼女の柔らかな肌に触れる。
美月の心臓が、ドクンと跳ねた。
彼女は食べるのを止め、佐伯の瞳を見つめ返す。
窯から立ち昇る熱気が二人の間を揺らし、潮騒の音が遠のいていく。
「……先生。私の正体、知りたいですか?」
美月が、微かに潤んだ瞳で囁いた。
彼女は佐伯の指に自分の手を重ね、ゆっくりと引き寄せる。
あと数センチ。
ピザの香ばしい匂いが、これほどまでに甘美で残酷な誘惑に感じられるとは、佐伯は思ってもみなかった。
「……美月」
「……はい」
二人の唇が、重なり合おうとしたその瞬間――。
――ボフッ!!
ピザ窯の奥で、薪が爆ぜた。
不運にも、その破片が煙突の内部に溜まっていた煤を直撃し、窯の口から真っ黒な煙が「おなら」のような音と共に吹き出した。
「ゲホッ、ゲホゲホッ! 先生、顔が! 顔が真っ黒です!」
「……お前もな。……煤だらけだ」
二人の顔は、一瞬にして炭坑夫のように黒く染まった。
ロマンチックな空気は、煤煙と共に虚空へと消え去った。
「……あはは! 先生、なんだか強面のパンダみたい!」
「……お前こそ、泥棒猫のようだぞ」
二人は顔を見合わせ、腹を抱えて笑った。
結ばれそうで結ばれない。だが、この煤まみれの笑い声こそが、今の二人が手にしている「最高のスローライフ」の証だった。
4. 煤煙の向こう側
夕暮れ。
煤を洗い流した二人は、再びテラスにいた。
ピザは冷めてしまったが、それでも美月が作ったそれは、世界で一番贅沢な味がした。
「……先生。次は、何を焼きましょうか」
「……そうだな。次は、デザートのピザでも作るか」
「いいですね! ……先生、私、もっともっと上手くなりますから。……いつか、先生が私のこと、放したくないって思うくらいに」
美月は、佐伯の手をそっと握った。
今度は、邪魔は入らなかった。
佐伯は、握り返す力を僅かに強めた。
彼は気づいていた。
ピザ窯の熱が冷めても、自分の胸の中に灯ったこの熱い感情は、もう消えることはないのだと。
だが、その背後の暗闇で。
ミサイルサイロの深部から、またしても低い、不規則な脈動が響いた。
それは、円盤のような幸せを切り裂こうとする、新たな嵐の前奏曲のように。
第二十話、最後までお読みいただきありがとうございます。
美月の「意外な特技」としてのピザ作り。スパイとしての指先の精密さが、思わぬ方向に発揮されるギャップを楽しんでいただけたでしょうか。
佐伯がピザ窯を手作りするという「凝り性」な一面も、彼の美月への深い(しかし不器用な)愛情の裏返しです。




