第十七話:琥珀色の時間、届かない指先
硝煙の海を越え、亡霊たちは再び約束の島へと辿り着きました。
カジノ船での告白めいた言葉。肩を寄せ合った夜明け。
二人の関係は、間違いなく「師弟」という殻を破り始めています。しかし、いざ平和な日常に戻ってみると、どう接していいか分からず、かえって意識しすぎてしまう――。
今回は、島の豊かな恵みを使った「果実酒作り」と、老人が新調した「薪炊きサウナ」が登場します。
火照った体、甘い果実の香り、そして重なりそうで重ならない視線。
もどかしさの極致にある二人の、琥珀色の時間をお楽しみください。
1. 楽園の沈黙
カジノ船での激闘から三日が過ぎた。
島には、何事もなかったかのように穏やかな日常が戻っている。再建された菜園ではトマトがさらに赤みを増し、波の音だけが一定のリズムで時を刻んでいた。
だが、家の中の空気は、以前とは決定的に違っていた。
「……あ、先生。おはようございます」
「……ああ。おはよう」
朝のキッチン。すれ違いざまに肩が触れそうになり、二人は弾かれたように距離を取る。
以前なら美月が「あわわっ」と抱きついたり、佐伯が冷静に窘めたりしていたはずの光景だ。しかし、カジノ船での「あの夜」を経てから、二人は互いを「異性」として強烈に意識しすぎていた。
美月は、佐伯が貸してくれたトレンチコートの感触を、自分の肌がまだ覚えていることに気づき、顔を真っ赤にして卵を割る。
佐伯は、コーヒーを淹れながら、美月のうなじに一筋流れた汗を不自然なほどじっと見つめてしまい、慌てて視線を逸らした。
(……まずいな。銃を構えるより、コーヒーを飲む手が震える)
伝説の亡霊は、人生で初めて「平和」という名の戦場で、完膚なきまでに追い詰められていた。
2. 新しいスローライフ:琥珀色の誘惑
このもどかしい空気を変えようと、佐伯は新しい作業を提案した。
島の奥地に自生している「野いちご」と、老人が物資と共に送り込んできた最高級のホワイトリカーを使った、自家製果実酒作りだ。
「果実酒、ですか? 素敵です! 私、お酒はあまり強くないですけど、先生と一緒に漬けるなら頑張ります!」
美月は嬉しそうに籠を抱え、森へと駆け出した。
午後の木漏れ日の中、二人は並んで座り、収穫した果実のヘタを丁寧に取っていく。
「果実酒っていうのは、時間を飲むものだ。今、この瞬間の果実を瓶に閉じ込めて、数ヶ月後に二人で開ける。……その時、俺たちがどうなっているかを想像しながらな」
佐伯が無意識に放ったその言葉に、美月の手が止まった。
数ヶ月後。この島で、二人で。
「……その時も、先生は私の隣にいてくれますか?」
美月の瞳が、真っ直ぐに佐伯を捉える。
佐伯は、大きな苺を瓶に入れる手を止め、彼女を見つめ返した。
「……他にどこへ行く必要がある」
沈黙。
数センチの距離にある二人の手。指先を伸ばせば触れ合える。重なり合える。
美月は、意を決して指を滑らせた。佐伯もまた、吸い寄せられるように手のひらを向けた。
カチッ。
その時、キッチンのタイマーが非情にも鳴り響いた。
「あ、オムレツの予熱がっ!」
「……火を止めてこい」
あと一ミリ。その距離が、再び永遠のように遠のいた。
読者なら「そこで鳴るのかよ!」と叫びたくなるような、完璧なタイミングでの妨害だった。
3. 熱気の中の境界線
夕暮れ時、佐伯はもう一つの「新要素」を披露した。
老人が再建時に追加した、海岸沿いに立つ小さなログハウス風の「薪炊きサウナ」だ。
「サウナ……。先生、混浴ですか!?」
「……馬鹿を言うな。時間をずらして入る。……だが、薪を焚べるのは一緒だ」
石に水をかけ、蒸気を立ち昇らせる「ロウリュ」。
サウナハットを深く被った美月が、熱気の中で顔を火照らせている。
「熱い……でも、気持ちいいですね。戦いの汚れが、全部溶けていくみたいです」
佐伯は、上半身裸で薪を調整していた。鍛え上げられた背中には、数々の戦歴を示す古傷が刻まれている。
美月はその背中を見つめながら、思わず呟いた。
「……先生の背中、好きです。……あ、いえ、筋肉が、じゃなくて! 安心するっていうか……」
佐伯は振り返り、火照った顔で俯く美月を見た。
狭い室内。充満する蒸気。微かに漂うアロマの香りと、二人の荒い吐息。
「美月……」
佐伯が、ゆっくりと手を伸ばした。彼女の濡れた髪を払い、その頬に触れようとした瞬間。
「……先生、あの、ロウリュ、もう一杯いいですか!?」
美月が、あまりの緊張に耐えきれず、柄杓で大量の水を石にぶちまけた。
シュゴオオオォッ! という凄まじい蒸気が二人を包み込み、視界は真っ白に。
「熱っ! 貴様、やりすぎだ!」
「すみません! 蒸気で先生の顔が見えなくて怖くなっちゃって!」
結局、二人は這々の体でサウナから飛び出し、そのまま海へと飛び込んだ。
夜の帳が下り始めた冷たい海。二人はぷかぷかと浮かびながら、顔を見合わせて笑った。
「……俺たちは、戦場では完璧なのに、この島ではどうしてこうも間抜けなんだ」
「ふふっ……いいじゃないですか。それが私たちの『スローライフ』なんですから」
4. 十八話への伏線:漂着した「贈り物」
夜。果実酒の瓶が並ぶ棚の前で、二人は並んで月を眺めていた。
サウナで火照った体は適度に冷え、心地よい疲れが二人を包む。
佐伯は、ふと思い出したように言った。
「そういえば美月、明日の朝は少し早く起きろ。……潮が引いた後の西の浜に、面白いものが流れ着いているはずだ」
「面白いもの? 敵の偵察機とかですか?」
「……お前は、少し平和に慣れろ。……もっと、この島を楽しむための道具だ」
佐伯の視線の先には、老人が「結婚祝いの第二弾」として事前に予告していた、大型の「燻製機」と「ハンモック」が波打ち際でドローンを待っているはずだった。
美月は、佐伯の肩に頭を預けようとして――あと数センチのところで躊躇し、結局、少しだけ距離を空けたまま眠りに落ちた。
届きそうで届かない。
結ばれそうで結ばれない。
そんな二人の「焦れったい夜」は、明日、また新しいスローライフの道具と共に、さらなる展開を迎える。
第十七話、最後までお読みいただきありがとうございます。
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