第十四話:亡霊のレシピ、愛のスパイス
島に流れる時間は、時計の針を忘れさせるほど穏やかです。
再建された最新鋭のキッチンで、ついに二人の「共同炊事」が始まります。
これまでの壊滅的な料理センスを返上すべく、エプロンを締め直して奮闘する美月。
火加減一つに命を懸ける彼女の真剣な横顔と、それを背後から見守る佐伯の、言葉にできない温かな眼差し。
最高の食材、最高のロケーション、そして、少しの「ハプニング」。
読者の皆様が思わず美月を抱きしめたくなるような、至福のクッキングタイムの始まりです。
朝の光がキッチンのステンレスを白く輝かせている。
美月は、老人がどこから持ってきたのか分からない、フリル付きの可愛らしいエプロン(本人はいたって真面目である)を身にまとい、目の前の「敵」を睨みつけていた。
今日の敵は、昨日二人で釣り上げたばかりの、三キロを超える真鯛だ。
「……よし。まずは、神経締めをしたこの部分から、包丁を……」
「待て、美月。それは包丁じゃなくて、俺の『サバイバルナイフ』だ。それで魚を捌くと、身がズタズタになる」
佐伯は背後から手を伸ばし、彼女が握っていた軍用ナイフをそっと取り上げた。
代わりに渡したのは、老人が用意した名工の出刃包丁。
「料理は破壊じゃない、構築だ。……やってみろ。俺が後ろで見ている」
1. 指先が触れる「至近距離」
美月は緊張で肩を震わせながら、真鯛の硬い鱗を落とし始めた。
しかし、力が入りすぎているのか、鱗が四方八方に飛び散り、彼女の頬や、挙句の果てには佐伯の鼻の頭にまで飛んでいく。
「ああっ! す、すみません先生! また私、ポンコツなことを……」
「いいから手を動かせ。……少し、力が入りすぎている」
佐伯は溜息をつき、一歩前に踏み出した。
美月の背後に重なるように立ち、彼女の両手に自分の手を添える。
美月の体が、びくんと跳ねた。
佐伯の胸の鼓動が背中に伝わり、彼の大きな手が、自分の震える手を包み込んでいる。
「……包丁は引くんだ。力で押すんじゃない。こうだ」
佐伯の低い声が耳元で響く。
美月は、もう魚どころではなかった。頭の中が真っ白になり、顔はトマト以上に赤く染まっていく。
最強のスパイが、ただ「手を握られた」だけで、完全にオーバーヒート寸前だ。
「……美月。聞いているか」
「は、はいっ! ぜんぶ、心臓にメモしてます!」
「……心臓じゃなくて頭に叩き込め」
佐伯は苦笑しながらも、その手を離さなかった。
彼女の指先の震えが、自分への信頼と愛情から来るものであることを、今の彼はもう否定できない。
2. 味見という名の誘惑
二人の共同作業によって、真鯛は美しいアクアパッツァへと姿を変えていった。
再建された家庭菜園から採りたてのミニトマトと、老人が残した最高級のオリーブオイル、そして潮風で乾燥させたハーブの香りが、キッチン中に満ちていく。
「先生、味見……してもらえますか?」
美月はスプーンですくったスープを、フーフーと丁寧に冷ましてから、佐伯の口元へと運んだ。
その仕草は、あまりにも無防備で、あまりにも献身的だった。
佐伯は一瞬躊躇したが、そのまま彼女の差し出すスプーンを口に含んだ。
「……どうですか?」
「……美味い。……美月、お前、上手くなったな」
佐伯の言葉に、美月の瞳がキラキラと輝く。
「本当ですか!? 嬉しい……私、世界中のどんな任務を成功させるより、先生に『美味しい』って言ってもらえる方が、百倍嬉しいです!」
美月は感極まって、そのままスプーンを持った手で佐伯に抱きつこうとしたが、案の定、キッチンマットの端に足を引っ掛けた。
「あわわっ!?」
倒れそうになる彼女を、佐伯は片手でしっかりと支える。
美月の手にはスープのついたスプーン。佐伯のシャツの胸元には、小さなシミができた。
「……まったく。お前は、隙がありすぎる」
「……すみません。でも、先生が助けてくれるって、信じてるから……」
美月は佐伯の胸に顔を埋め、小さく呟いた。
その言葉は、銃を構えるスパイの言葉ではなく、ただ一人の、愛する男を信じ切った少女の言葉だった。
3. テラスでの晩餐
夕暮れ時。
海を黄金色に染める夕陽を眺めながら、二人はテラスで、完成した料理を囲んだ。
美月は自分の手で作った料理を一口食べ、そのあまりの美味しさに、そして佐伯と一緒に笑いながら食卓を囲めている奇跡に、思わず涙をこぼした。
「……何故泣く」
「だって……夢みたいで。三年前、訓練場で先生の背中を見ていた時は、こんな日が来るなんて思わなかったんです。……先生の隣で、不器用な私が、笑っていられるなんて」
佐伯は、エリカが遺したUSBの内容を思い出していた。
彼女が願った「運命の人」。
今、目の前で鼻をすすりながら、鯛の身を頬張っているこのポンコツな少女こそが、自分の止まっていた時計を動かしているのだと。
「……夢じゃない。美月、明日も、明後日も、俺の飯を作ってもらうぞ」
「はい! 毎日作ります! 先生が『もう飽きた』って言うまで、一生かけて練習します!」
美月の満面の笑みが、夕陽よりも眩しくテラスを照らす。
老人が残したシャンパンの栓を抜く音が、穏やかな潮騒に溶けていった。
亡霊と少女。二人の新しい章は、料理の焦げた匂いではなく、至福の味と共に刻まれていく。
第十四話、最後までお読みいただきありがとうございます。
「共同作業」という名の甘い時間。
佐伯が背後から包丁を教えるシーンは、王道ながらも、二人の過去を知る読者様にとっては、たまらなく愛おしい瞬間になったのではないでしょうか。
美月の「先生に美味しいと言ってもらえるのが一番嬉しい」という台詞は、彼女の本質であり、読者が彼女を応援したくなる最大のポイントです。
また、佐伯も無意識のうちに「一生」という言葉を口にするなど、二人の関係はもはや「師弟」を超えた領域に踏み出しています。




