第十三話:最強の守護者と、恋するポンコツ
亡霊の戦いは終わり、島には真の静寂が戻りました。
再建された菜園、新調されたキッチン、そして隣にいるのは、自分の帰りを信じて待っていた教え子。
第十三話では、エリカから託された「愛」のバトンを受け取った佐伯が、美月との新しい日常に戸惑いつつも、彼女の「あまりにも極端なギャップ」に翻弄される様子を描きます。
野生動物を相手に見せる「死神の眼光」と、佐伯にトマトを褒められた時の「蕩けた笑顔」。
無人島という二人きりの聖域で、少しずつ変わり始める「亡霊」と「少女」の距離。
どうぞ、心ゆくまで
嵐の爪痕が消えた島には、驚くほど澄み渡った空と、心地よい海風が戻っていた。
佐伯が本国から戻って三日目。再建されたセーフハウスのテラスで、彼は老人が新調した最高級のコーヒーメーカーが淹れる雫を眺めていた。
「……平和だな」
ポツリと独り言が漏れる。かつては孤独を求めて辿り着いたこの島だったが、今は背後のキッチンで鼻歌を歌いながら――あるいは何かを落として派手な音を立てながら――朝食の準備をする美月の気配が、不思議と耳に心地よい。
「あわわ……っ! 先生! 卵が! 卵がフライパンの外に脱走しました!」
「……落ち着け。予備は冷蔵庫にある」
佐伯は苦笑しながら、テラスの向こうにある菜園に目を向けた。
そこには、彼女が自分の不在中に死守した、真っ赤に熟れたトマトの苗が誇らしげに並んでいる。
1. 「野生」に対する死神の顔
朝食の後、二人は菜園の最終メンテナンスに出た。
ふと、森の境界線付近でガサガサという不穏な音が響いた。島に生息する野生のイノシシだ。嵐の影響で餌が少なくなったのか、収穫間近の野菜を狙って、猛烈な勢いでこちらへ突進してくる。
「美月、下がれ」
佐伯が前に出ようとした、その瞬間だった。
「……私のトマトに、何する気?」
美月の声が、氷点下まで凍りついた。
つい数分前まで「目玉焼きを失敗した」と半べそをかいていた少女の姿は、そこにはなかった。
彼女は手に持っていた園芸用の小さなスコップを、まるで精密な暗殺武器のように構える。重心は一ミリの無駄もなく沈み込み、その瞳は獲物の急所を瞬時に見定める「亡霊」のそれへと変貌していた。
「シッ!」
美月が地を蹴った。
突進してくる百キロ近い巨体に対し、彼女は真正面から飛び込むと、空中で体を捻り、イノシシの眉間にスコップの柄を叩き込んだ。
ゴン、という鈍い音。脳震盪を起こした巨躯が、美月の足元で文字通り「沈黙」する。
「……今の動き、CQC(近接格闘術)の応用か?」
「あ。……先生、見てました?」
美月はイノシシを足蹴にしながら、即座に「最強の暗殺者」から「ただの乙女」へとスイッチを切り替えた。先ほどの鋭利な殺気は霧散し、彼女は頬を赤らめて指先をもじもじと動かす。
「えへへ。せっかく先生に食べてもらうトマト、一粒でも傷つけられたくなくて……やりすぎちゃいました?」
「……いや。見事な制圧だった」
「本当ですか!? 先生に褒められた! やったぁ!」
彼女は飛び上がって喜ぶが、その拍子に、足元に倒れていたイノシシの鼻先に躓いた。
「わあぁっ!?」
派手な音を立てて、美月は自分の足に絡まり、佐伯の胸へとダイブする形になった。
2. ポンコツの「運命」
佐伯は咄嗟に彼女を受け止めたが、そのまま二人して柔らかな土の上に倒れ込んだ。
「……美月。お前は、強すぎるのか弱すぎるのか、どちらなんだ」
「……すみません、先生。肝心なところで、いつもこうで……」
美月は佐伯の胸の中で、顔を真っ赤にして俯いている。
エリカのメッセージが、佐伯の脳裏に蘇る。『その人を、逃がさないで。……だって、きっとその人が、貴方の運命の人だから』。
至近距離にある彼女の体温、泥のついた鼻の頭、そして一生懸命に自分を想う真っ直ぐな瞳。
佐伯は、自分でも驚くほど自然に、彼女の頭をポンポンと叩いた。
「怪我はないか」
「……はい。心臓が、ちょっとうるさいくらいで」
彼女はしがみついたまま、離れようとしない。
佐伯もまた、それを無理に引き剥がすことはしなかった。
最強のスパイが、愛する男の前だけで見せる、無防備で不器用な「ポンコツ」の姿。それこそが、凍てついた亡霊の心を溶かす、もっとも強力な「兵器」であることを、彼女自身はまだ知らない。
3. 老人からの「結婚祝い」
昼下がり、再建された居住区の地下を探索していた二人は、老人が「秘密」の扉として追加した一室を見つけた。
「これは……」
扉を開けた先にあったのは、贅を尽くした「シアタールーム兼・音楽室」だった。
壁一面を占める大画面プロジェクターと、世界最高峰の音響設備。そしてその中央には、一台の漆黒のグランドピアノが鎮座していた。
ピアノの上には、老人の直筆でメッセージカードが添えられている。
『スローライフには音楽が必要だ。エリカの楽譜は、このピアノが記憶している。……あ、あと、冷蔵庫に最高級のシャンパンも入れておいたぞ。今夜あたり、どうだ?』
美月は、そのピアノを見て、どこか切なげに目を伏せた。
「先生……私、ピアノなんて弾けません。銃の分解なら、目をつぶってもできるのに……」
佐伯は、エリカの遺したUSBの後半部分を思い出していた。
彼女は、自分が弾けなくなった後の世界を、美月に託そうとしていた。
「……弾けなくていい。美月、お前はお前のままでいいんだ」
佐伯はピアノの蓋を閉めると、美月をシアターのソファへと促した。
「音楽は、この設備に任せればいい。俺たちは、俺たちのやり方で、この島を歩んでいく」
「先生……」
美月は、感激したように瞳を潤ませると、またしてもソファに座る際に足をもつれさせ、今度は佐伯の膝の上に「着席」してしまった。
「あ、あわわ! 確信犯じゃないんです! 重力の設定がおかしいんです!」
「……重力のせいにするな」
慌てふためく美月の腰を、佐伯はそっと片手で支えた。
かつて死体だけを積み上げてきたその手が、今は一人の少女の「不器用さ」を守るためにある。
窓の外には、穏やかな海が広がっている。
最強のポテンシャルを誇りながら、最愛の人を前にすると、一歩もまともに歩けなくなるスパイ。
そんな彼女を、「仕方ない」という溜息混じりの愛おしさで見つめる亡霊。
無人島の新しい日常は、かつてないほど「甘く、そしてポンコツ」な響きを奏で始めていた。
第十三話、最後までお読みいただきありがとうございます。
最強の戦闘能力を持ちながら、佐伯の前では一気にIQが下がってしまう美月の魅力を最大限に引き出してみました。
イノシシを瞬殺する姿と、自分の足に躓く姿。この極端な二面性こそが、美月というキャラクターの最大の魅力であり、佐伯が彼女を「放っておけない」理由でもあります。




