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右折する筋肉

作者: 南蛇井
掲載日:2025/11/04

ある日の午後、

光の粒がまどろむジムの窓を透かしていた。


彼――有馬透ありま・とおるは、ひ弱で、影のような少年だった。

鏡に映る自分の肩は、まるで“未完成の文法”のように頼りなく、

呼吸するたびにかすかな震えを孕んでいた。


その日、彼は偶然、インターネットの海をさまよっていた。

「筋肉板の右折」――

そんな奇妙なスレッドタイトルが、瞳にひっかかった。


開けば、そこには異様な熱気があった。

言葉たちは鉄の香りを帯び、

プロテインの粒子が文面の間から立ちのぼるようだった。

「右折せよ」「胸を張れ」「重力を裏切れ」

――まるで神託のように、匿名たちが書き込んでいた。


彼はクリックした。

その瞬間、胸の奥で何かが“右折”した。

左へ流れていた怠惰が、右へ、すなわち“意志”の方向へと曲がった。


翌朝、

透は近所の公民館に併設された小さなトレーニングルームに足を踏み入れた。

錆びたバーベルが、まだ名もなき勇者を待っていた。


最初の一回。

鉄が上がらない。

筋肉が泣いた。

だが、その涙の中に、かすかな歓喜があった。

痛みは詩であり、疲労は祈りだった。


日々が溶けた。

季節が彼を追い越していった。

街のネオンが夏を告げ、蝉が秋を押し返し、

冬の風が、彼の肩を試した。


鏡の中――

彼はもう、影ではなかった。

胸は高鳴りの形をして隆起し、

腕は言葉の代わりに説得する。

静かな自信が、皮膚の下で脈を打っていた。


やがて、地方大会の日が来た。

体育館の空気は、汗と希望で満ちていた。

観客のざわめきが、鼓動と同じリズムで響く。


バーベルが掲げられる。

光が鉄に跳ねる。

透は深く息を吸った。


――この瞬間、

彼の筋肉は世界と会話していた。


鉄を持ち上げるのではない。

鉄が、彼を引き上げていた。

天井の光の中に、右折した過去が浮かぶ。

スレッドの文字たちが、まるで天の声のように囁く。


「胸を張れ。」


彼は上げた。

鉄が、静かに、確かに、宙を切った。


拍手。

歓声。

彼の内なる小宇宙が、ようやく完成した。


優勝。


だが、透は笑わなかった。

ただ、静かに右手を見つめていた。

――あの日、“右折”した手。

そこに刻まれた軌道は、もう誰にも消せない。


夜、帰り道。

街灯が筋肉の輪郭を撫でていく。

風が、柔らかく肩を叩いた。


彼は思った。

筋肉とは、肉体の詩だ。

弱さが韻を踏み、努力が文脈を築き、

最後に「生」がひとつの文になる。


その文の題は――

『右折する筋肉』。

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