右折する筋肉
ある日の午後、
光の粒がまどろむジムの窓を透かしていた。
彼――有馬透は、ひ弱で、影のような少年だった。
鏡に映る自分の肩は、まるで“未完成の文法”のように頼りなく、
呼吸するたびにかすかな震えを孕んでいた。
その日、彼は偶然、インターネットの海をさまよっていた。
「筋肉板の右折」――
そんな奇妙なスレッドタイトルが、瞳にひっかかった。
開けば、そこには異様な熱気があった。
言葉たちは鉄の香りを帯び、
プロテインの粒子が文面の間から立ちのぼるようだった。
「右折せよ」「胸を張れ」「重力を裏切れ」
――まるで神託のように、匿名たちが書き込んでいた。
彼はクリックした。
その瞬間、胸の奥で何かが“右折”した。
左へ流れていた怠惰が、右へ、すなわち“意志”の方向へと曲がった。
翌朝、
透は近所の公民館に併設された小さなトレーニングルームに足を踏み入れた。
錆びたバーベルが、まだ名もなき勇者を待っていた。
最初の一回。
鉄が上がらない。
筋肉が泣いた。
だが、その涙の中に、かすかな歓喜があった。
痛みは詩であり、疲労は祈りだった。
日々が溶けた。
季節が彼を追い越していった。
街のネオンが夏を告げ、蝉が秋を押し返し、
冬の風が、彼の肩を試した。
鏡の中――
彼はもう、影ではなかった。
胸は高鳴りの形をして隆起し、
腕は言葉の代わりに説得する。
静かな自信が、皮膚の下で脈を打っていた。
やがて、地方大会の日が来た。
体育館の空気は、汗と希望で満ちていた。
観客のざわめきが、鼓動と同じリズムで響く。
バーベルが掲げられる。
光が鉄に跳ねる。
透は深く息を吸った。
――この瞬間、
彼の筋肉は世界と会話していた。
鉄を持ち上げるのではない。
鉄が、彼を引き上げていた。
天井の光の中に、右折した過去が浮かぶ。
スレッドの文字たちが、まるで天の声のように囁く。
「胸を張れ。」
彼は上げた。
鉄が、静かに、確かに、宙を切った。
拍手。
歓声。
彼の内なる小宇宙が、ようやく完成した。
優勝。
だが、透は笑わなかった。
ただ、静かに右手を見つめていた。
――あの日、“右折”した手。
そこに刻まれた軌道は、もう誰にも消せない。
夜、帰り道。
街灯が筋肉の輪郭を撫でていく。
風が、柔らかく肩を叩いた。
彼は思った。
筋肉とは、肉体の詩だ。
弱さが韻を踏み、努力が文脈を築き、
最後に「生」がひとつの文になる。
その文の題は――
『右折する筋肉』。




