Part6 別れの日
世の中には、自分が想像出来ないような経験をしている人が沢山いる。
良い話ならワクワクして、ドキドキして笑って聴くことができる。
でも、悲しい話は、どうしたらいいかわからない。
下手な慰めは、傷を深めるだけだし、一緒に落ち込んだって意味はない。
私は本当に使えない女だ。
「未だに、事故なのか自殺なのかわかってない」
「そう…」
「ビルの屋上から落ちたらしいんだけど、自殺の予兆とか無かったしさ。でも、事故っていう説明もつけられないし」
悲しい出来事を、意外なほど冷静にアキちゃんは話している。
「俺が、自殺だって思いたくないだけなんだ」
「アキちゃん…」
「あんなに楽しそうにしてて、笑ってた彼女が自ら死ぬなんて考えられなかったんだ」
アキちゃんはボトルを再び手にとると、ごくりと水を一口飲んだ。
私は相変わらず何も答えられない。
「でも、そろそろ現実を受け入れなきゃと思って」
「この一週間、彼女と行った場所とか回って気持ちの整理をしていたわけですよ」
「そうだったんだ…」
「だけど」
アキちゃんがこちらを向いて、優しく微笑んだ。
「菜々が電話くれてよかった」
「え?」
「独りじゃない気がしたから」
アキちゃんの言葉にドキッとした。
私がアキちゃんに安心感を感じたように、彼も同じように思ってくれている。
不謹慎だけど、嬉しかった。
「私、アキちゃんの味方だよ」
「そう?」
「そうだよ!」
「心強いな、それは」
役に立ちたかった。
アキちゃんの気持ちを支えられたことが、私の心のモヤモヤを晴らしてくれた。
私は恋人の、今は恋人かどうかも微妙だけど、役に立てることはひとつもない。
どれだけ迷惑を掛けないか、ひっそり付き合えるか、将来を望まないでいられるか。
それだけだ。
「菜々は年上なのに、そんな感じしないな」
「こどもっぽくて悪かったわね。アキちゃんが大人すぎるんじゃない」
グーにした手で、ほっぺに軽くパンチする。
「可愛いってことだから、怒んなよ」
「ならいいけど」
「単純」
「まだ言うか」
「そんなんだから妻子持ちにいいように使われるんだよ」
ドクンと心臓が鳴って、ふざけて殴っていた手が止まった。
「わりぃ…」
気まずい表情を浮かべたアキちゃんを見て、我に返った。
「あっ。ううん…違うよ。怒ってるとかじゃないよ」
私はあの日、歓迎会のあった日に、急いで帰っていった彼を思い出した。
そして、最近のあまりにも冷たい態度。
「菜々、ごめんね」
「わからないふりをしてたの、私も」
「え?」
「アキちゃんと同じ。気が付かないふりをして、現実から逃げてた」
ちらっとアキちゃんの方を見ると、真剣に聞いてくれていた。
「美談にならないことを、努力して美談にしようとした」
「…」
「彼のことを本気で好きだったから、どんな状況でも堪えなきゃって思ってたけど、そんな悲劇のヒロインになって酔ってたんだよね」
髪の毛をくるくると指に巻き付けながら話す。
「まぁ、人の物に手を出した私はヒロインじゃなく、超悪役だけどさ」
「そんなことないよ」
優しいアキちゃんの言葉を、しっかり脳裏に残して私は決意した。
「彼とは、別れる」
「それで、いいの?」
「うん。いい」
アキちゃんを送り出したあと、私は意を決して電話をかけた。
出ないかもしれない。
出なくていい…
なんて、弱い私が顔を出す。
迷いと緊張の中、呼び出し音を聞いていた。
「出ないか…」
携帯の終話ボタンを押そうとしたとき。
画面が通話中の表示に変わった。
「もしもし!」
私はつい、勢いよくいつものように言ってしまった。
「相変わらず元気だね。体調不良で早退した人とは思えないなぁ」
竹元さんが茶化すように言う。
彼もまた、いつもと同じような優しい声だった。
「ごめんなさい」
「体調は大丈夫ですか」
「うん」
「やっぱり俺のせい?」
何をいまさら…
聞くまでもないでしょ。
遠くの方でカミナリが鳴っている。
風も強くなってきた。
こっちも降るのかな。
「もう、ダメなんだよね?」
「…いや、ダメというか」
「なに?」
竹元さんは、弱ったな…と小さく言ったあと、話し出した。
「お前のことは好きだけど、誰かに隠しながらとか正直しんどいんだ」
「そう…」
「だからと言って、家族を捨ててお前と一緒になれるかというと…」
沈黙。
どうせヤルなら、一思いに殺ってもらいたい。
「家族をとるんだよね」
どこまでお人よしなんだろう、私は。
自分で自分にトドメを刺した。
「ごめんなさい」
「…いいよ…そのつもりで、電話したんだし…」
こんなに最低な関係に終止符が打てるのに、どうして涙が出そうになるんだろう。
「俺、本当に最低なヤツだと思う…勝手だけど、幸せにしてやりたかった」
「ほんとに勝手だね…」
「ごめん」
この手を離し、私はどこへ行く?
「さよなら」
「ああ…ちょっと待って…大丈夫か?」
「もう、余計な心配だよ。せっかくかっこよく切ろうとしてるんだから」
優しいのか空気が読めないのか、そんな竹元さんが好きだったから。
いつかは、過去の話に出来るかな。
「そうだな。じゃあ」
「バイバイ」
携帯をパタリと閉じた。
ふぅっと吐き出した溜め息に色がついているなら、きっと真っ黒だ。
先なんか見えない。
自分で決めたことだけど、別れは辛かった。
――――――
あれからどのくらい経ったのだろう。
私はぼーっと思い出していた。
竹元さんの隣は暖かく、日だまりですやすやと眠るネコのように、私はいつも寄り添っていた。
体はもちろん、心も。
本気で好きになったから、このままじゃいられなくなった。
部屋を見回してみても、彼の痕跡はどこにもない。
写真も撮らなかった。
プレゼントも断ってた。
泊まることはもちろんなかった。
私たちの関係を知る人がいたとしても、証拠は何もないから、夢か現実かわからなくなるかもしれない。
竹元さんと私の実態のない付き合いに、涙が出た。
”泣きたくなんかないのに!”
―――――――
菜々のことが気になっていた。
泣いていないか、変なことを考えていないか。
恋人でもない俺が気にする必要はないのかもしれない。
公園のベンチで、爽やかな風を受けながら空を見上げる。
「傍にいてやりたいな」
ぽつりと呟いた時、誰かに背中を押された気がした。
今度は、俺が菜々を支える番かな。
そう思って、小走りで駅へ向かった。
ようやく涙が枯れて、心が落ち着いてきた。
私は、やけ食いでもしようと、近くのコンビニでお菓子とハウスワインを買った。
そして帰り道の、線路に架かる歩道橋の上で電車をひたすら眺めていた。
「この車両に乗っている人は、みんな幸せかなぁ…」
「おいっ!はやまるな!」
「え?」
泣き腫らした顔も構わず振り返ると、そこには男の人がいた。
背の高い、困ったような顔がますます困った顔になっている人。
「死んじゃダメだ!」
「いや、そんなことしないよ」
私は視線を電車に戻したところで我に返った。
「なんでいるの?!」
竹元さんがいる。
さっき、別れたばかりの。
また、涙が出てきた。
枯れてたはずなのに…
「お前が…泣いてるんじゃないかと思って」
「泣くよ!でも、泣いてるからってどうして来るの?私のことなんか、もうどうでもいいじゃない」
竹元さんは凄い勢いで私に近づくと、これまた凄い力で私を抱きしめた。
「気が付いたらここにいて…自分でもよくわからない」
「やめてよ…ずるいよ…私は、もう竹元さんとは」
”付き合えない”と言おうとしたとき。
唇を塞がれた。
舌を絡めとられ、頭の中は処理不能になってしまいそうだった。
やばい、離れなきゃ、ともがいても男の力には敵わない。
ようやく解放された私は、竹元さんの肩越しにもうひとりの男と目が合った。
”アキちゃん…”
悲しそうな表情をして立っていたアキちゃんは、口元だけを笑わせて手を振った。
そして後ろを振り返ると、あっという間にいなくなってしまった。
私は、歩道橋に竹元さんを残したまま、アキちゃんを追いかけた…