Part1 同志
初夏。
夜明け前の、心地よい風が少しだけ開けた窓から吹き込む。
風は、窓辺に置いてあるグリーンと一緒に、茶色く、ふわふわとしたパーマのかかった彼の髪の毛を少しだけ揺らした。
私は思わず手をのばす。
スースーと眠っている彼の髪の毛を、しばらく撫でたり、くるくる指に巻き付けたりして遊んでいると、
「なぁに…」
と、大きくて節のしっかりした手が、私を捕まえた。
「なんか、触ったら気持ちよさそうだったから」
「…そ?」
二重の大きな瞳。
寝起きとは思えないほど、しっかり開いている。
「まだ、時間ある?」
うーんと伸びをする彼の真上にある、時計を見た。
「今、4時前…」
答える途中で唇が塞がれた。
シーツの擦れる音がする。
抱き寄せられくっついた肌と肌に、熱が生まれる。
しばらく口付けた後、彼が
「髪の毛触るより、気持ちいいこと…しよ」
と言った。
子犬のように、すがるような目で。
「あと数時間で仕事だよ?それに夜にもしたじゃん」
「やだ。自分だけ満足しててずるい」
唇がまた塞がれた。
舌で駄々をこねるように訴えてくる。
っていうか、ずるいって。
髪の毛を触ることと、セックスを同等にする思考が何だか可笑しくて、笑ってしまった。
「バカにしてる」
唇を離すと、彼は少し怒った顔をした。
「全然。可愛いなと思ってた」
「またそうやって。年上の余裕っすか」
私が上から目線でいるから、ますます拗ねる。
やっぱり可愛い。
「余裕なんてないよ。ドキドキして、ドキドキして、どうしたらいいかわかんない」
彼の手を胸にあてた。
「アキちゃん…どうにかして…辛いよ」
「菜々…」
こうして、私たちはどんどん溶けていく。
この時間だけは、お互いに寂しさを忘れられるから。
彼の気持ちが私の身体の中に受け止められないくらいに注がれる。
気持ちよさと苦しみが、一度に訪れる。
私たちはただひたすら、狂ったように抱き合った。
でも、心の中は、何度抱き合っても、どれだけ深く愛し合っても、満たされることはなかった。
こんなにドキドキするのに。
こんなに愛しいと思うのに。
満たされない理由。
私たちは、
違う誰かを想っていたからだった…―
私は、このアキちゃんと友達だ。
彼氏ではない。
セフレ、ともちょっと違う。
彼は同じ会社ではないけれど、私の働く部署によく出入りしていて挨拶するくらいの関係だった。
名前も知らなかった。
でも、彼が来ると引き寄せられるように目で追ってしまう。
彼もまた、私の方をよく見ていたような気がする。
だから、ぶつかった視線はなかなか離れなかった。
それだけの関係だった私たちに、距離を縮める出来事があった。
―――…
「手伝いますよ」
ファイルを両手に抱え、書庫のドアを開けようとしているところで、
優しい声がした。
「あっ。ありがとうございます」
見ると、いつも気になっていた彼だった。
彼はドアを開け、私からファイルを全て奪うと、笑顔を見せた。
「どこに置くんすか」
「あ、一番奥の窓際の棚に」
彼は手際よく片付けてくれた。
男の人に優しくされるなんて、
久しぶりのことだった。
だからどうしたらいいかわからず、キョロキョロしてしまう。
「こんな感じでいいっすよね」
「ありがとうございます」
「監査って大変だ、佐藤さん」
急に名前を呼ばれて驚いた。
「名前…」
「勝手に覚えました」
そう言って、出ていこうとした彼を私は引き留めた。
思わず掴んだ腕を、慌てて離した。
側にいる彼は、背が私より少し高いくらい。
すっきりした香水の匂い、茶色の髪の毛は結構傷んでいた。
「貴方の名前は」
「三浦明人。何故かアキちゃんと呼ばれてる」
そう言いながら笑った“アキちゃん”の口元から、八重歯が覗いている。
私は少しだけ、胸の奥がキュンとした。
「アキちゃん」
「はい」
「あの…」
自分でもなぜ引き留めたのかわからず、
何を話したらいいかもわからずうろたえていると、
アキちゃんが笑いながら言った。
「明日、時間ありますか」
翌日は土曜日で、仕事は休みだった。
私たちは井の頭公園のステージ前で待ち合わせをしていた。
待ち合わせ時間より少し早く着いた私は、大道芸や自作品を売る人、親子連れで賑わっている公園を、ぼーっと見つめていた。
「ごめんなさい。お待たせしました」
頭上から降ってきた聞き覚えのある声に顔をあげると、アキちゃんがいた。
「私服だと、感じ違うから声を掛けるのに躊躇しちゃいました」
そう言った彼も、雰囲気が全く違っている。
細めのデニムに薄いストライプのシャツ。
髪の毛もいつもと違うセットで、若さが溢れていた。
「アキちゃんっていくつ?」
「幼稚園児じゃないですよ。23です」
5つ下…。
「若いですね」
アキちゃんは隣に座ると、持っていたスタバの容器をくれた。
ストローを吸うと、バニラの甘い匂いと冷たい感触が喉を通過した。
「俺も飲みたい」
私はアキちゃんにバニラフラペチーノを渡そうとした。
その瞬間。
目の前には彼の顔があって、冷たくなっていた唇が温かい唇を感じた。
「こっちの方が美味しいや」
ゆっくりと離れながら彼は呟いた。
「アキちゃん」
「怒った?」
「いや、怒ってないよ」
「よかった」
「でもなんで?」
遠くに浮かぶボートを見つめながら、彼は切なそうに答えてくれた。
「同じだよね。俺たち」
「同じ?」
「好きな人がいるけど、うまくいかない、寂しい、慰めて欲しい…」
強い風が吹いて木々を揺らす。
「貴女と俺は同じだと思ったんだ」
遠くを見ていた2つの瞳がこちらを見た。
そっか。
だから私たちは求め合ったんだ。
恋というものではなく、同志。
互いの寂しさを一番理解できる。
「それ正解だね、アキちゃん」
私はアキちゃんの手を握り、一瞬口付けた。
すると、アキちゃんは私の耳元で囁いた。
「もっと…近くにいきたいんだけど」
彼の誘いに、私は頷いた。
私たちは強く手を繋ぎ歩き出す。
―…この関係は間違って
いる。
そんなわかりきった正論を、握り潰すように。
この日、私たちの寂しさを埋める特別な関係が生まれたんだ。