3
アールは寝ているマディの耳にそっと呪文を唱える。
彼が唯一使える『眠り』の魔法。
元々この魔法も、脱出や揶揄いの手段として覚えただけだった。
魔法の素質は無きに等しいので精々軽い眠気を呼ぶか、眠っているなら眠りを深くする程度。
それが、こんな事に役に立つとは……。
柔らかな頬を触って目を覚まさない事を確認し、そっとキスをした。
額、瞼、眦、頬、鼻、耳、首筋、口の端ギリギリに。
唇以外、自分が現状で動ける範囲に精一杯のキスの雨を降らせる。
本当は唇に貪るようなキスがしたい。
互いの舌を絡めて、口内を無遠慮にさすらって、呼吸も唾液すら奪うほどに……だが、それは相手の意識があってこその欣快。
「ん~っ」
顔に触れる唇の感触がくすぐったいのだろう、小さく唸って、軽く眉間を寄せた表情をする。
その表情に無意識の女の艶を感じ取り、顔を覗き込んだまま不埒な悪戯を仕掛けだした。
夜着の上からではあるが、柔々と全身を撫で回す。
「うん、あっ」
魔法を掛けられた状態で深く寝入っていたとしても、身体に加えられている甘美な刺激には正直な反応を示した。
可愛らしい声と扇情的な表情に、アールは気を良くし更に調子付く。
手前勝手な言い分ではあるが、最初に手を出したのは自分だが、その手が止まらないのはマディの所為だと。
じっくり、たっぷり、時間を掛けて無垢な少女の身体に淫欲を刻み込んでいく。
いざと言う時は、その欲にモノをいわせる為に……。
相変らず雨足は強く、窓から零れてくる日の光は薄暗い。
しかしそれでも確実に朝にはなっている訳で、マディはゆっくりと目を覚まし、いつもと違う違和感に一瞬戸惑う。
自分以外の温もり、身体に掛けられている僅かな重み、何かに包まれている様な感覚。
その正体を思い出し、確認し、自然と頬が緩んだ。
身動き取れない程しっかりと抱締められていた腕から四苦八苦して抜け出すと、大きく背伸びをする。
狭い隙間で一晩中抱締められていたのだ、体を動かす度にポキポキと骨が鳴った。
たっぷりと寝た筈なのに、何故か体は疲弊している様な気がする。
疲弊、というのは少々語弊があるかもしれない。
今まで経験した事のない体の芯が疼く様な倦怠感、しかしそれと対照的に精神的には充足感に満ちている。
「他の人と寝ると、こんな感じなんだ?」
未知の体験だけに、自分の心情の変化に多少の戸惑いはあったが、嫌な気分ではない。
鼻歌交じりで、暖炉の側にしゃがみ込む。
もうすぐ起きるであろう客人の朝食用に、消し炭から新たな火種をおこす為に。
そんな彼女の様子をアールは薄目を開けて見ていた。
正確に言えば、ほとんど寝ていない。
もっと正直に言えば、眠れなかったのだ。
本当に一晩中、マディに悪戯を施していた……精一杯、自身の腕が届く範囲で。
途中、何度も理性を飛ばしそうな瞬間もあった。
少しでも深く愛そうと身を捩れば、途端に足の痛みが理性を呼び戻す。
ぶっちゃけ言ってしまえば、極上の御馳走を目の前にして『お預け』を食らっている状態で。
いくら彼女が男の本能を知らないとは言っても、自らで処理する訳にもいかず……三十一歳、健康な成人男子が一晩、悶々と過した訳で。
深い溜息と共に呟いた。
「ヤレヤレ自業自得とはいえ、切ないねぇ」
雨が降っていて外に出られないが、たった一人で森に住んでいるのだ、それ相応にやらなければならない事は沢山ある。
二人して朝食を済ませた後、マディはそれはよくクルクルと働いた。
その働きぶりは無駄がなく見事で、しかもとても楽しそうだった。
惰弱な王子が自然と手伝っているのだから物凄い。
芋の皮を剥いたり、豆のへたを取ったり、紡いだ糸を丸めたり、その間の二人の会話が途切れる事はなくて。
マディはこの森の中の事を話し、アールは最初に記憶喪失を騙っていた所為で自分の事は話せなかったが、森の外や街の事など彼女が興味を持ち問い掛けてきた事に答えた。
就寝前にマディはアールの足の薬草を取り替え、その具合を確かめる。
比べる物は自分の経験しかないが、思っていた以上に経過は順調だ。
「腫れは随分ひきましたね、まだ痛みますか?」
「君の看護がいいから安静にしていれば痛まないよ。 けど、歩くにはまだ痛いかな」
「アールさん治るの早いみたいだから、多分すぐに歩けちゃいます……ね」
それまで、笑顔で話していたマディの表情が不意に静まった。
怪我が治るという事、歩ける様になるという事、彼が自分の世界に帰って行くという事。
それは喜ばしい事の筈だ、だがそれが寂しいと言う気持ちに摩り替っていた。
……寂しい? 何が? アールさんと別れるのが? どうして?……
マディを虎視眈々と狙っているアールが、そんな表情の変化を見逃す筈はない。
顎に手を添え上向かせ、真摯な視線を合わせる。
「何故、そんな哀しそうな顔をするんだい?」
「……哀しそう、ですか」
「あぁ、今にも泣き出しそうな瞳だよ」
『泣き出しそう』と言われて、ハッとした。
泣いてはいけない、こんな表情ではいけない、心配させてはいけない。
それは産まれて初めて、嘘を、自分の気持ちを誤魔化した瞬間で無理に笑顔を装った。
「何でもないです」
「……そう、じゃっ寝ようか」
アールは遠慮なくマディの腰に腕を回すと、昨夜と同じ様に強引にベッドに引きずり込んだ。
違うのは、その姿勢が向かい合わせではなく、背後から抱締める格好である事と、その状況から逃れようとマディが暴れている事。
明らかに、マディはアールを意識し始めていた。
それは他人を意識し始めた事で、本能的に異性としての認識が生まれたのだろう。
……本人は恐らく気が付いていないが……
「やっ! ちょっ!! 一人で寝ますから、アールさん離して下さいっ!!!」
「マディ、どうして今日は暴れるんだい?」
「えっ!? うっ、せっ、狭いからっ!」
「じゃぁ、もう少しつめてあげるよ。 そしてもっと私にくっつきなさい、そうすればゆとりが出来るだろう」
抱締める手に力を込めれば、身を硬くするのが分る。
表情は此方からは見えないが、髪から覗く耳が真っ赤に染まっていた。
マディとしては、初めて湧き上がる様々な感情にパニック寸前だ。
先程まで、アールに触れられ様が、見つめられ様が、話しかけられ様が、何ともなかったのに!?
何ともなかった? 嬉しくて楽しかった、気がする。
今は、抱締められている腕で、心拍数が跳ね上がり、背中に感じる体温と僅かな体重で、身体が熱くなり、耳元で囁かれるだけで頬は紅潮し、見られているであろうと考えるだけで、恥しさのあまり頭がクラクラする。
この気恥ずかしさから逃れたい! その一心で身を捩っていると……。
「傷に響くから、暴れないでもらえると助かるんだが」
その一言で、ソレさえも封じられてしまう。
もう身を硬くし、小さくなるしか対処法が思いつかなかった。
アールは、昨夜と同じ様に布団の上からポンポンとリズムを取って叩いてやる。
『昨日と何も変わらない』とでも言いたげに
やがて気疲れからだろうか、身体から力が抜け眠りに落ちた様だ。
そう今宵も『昨夜と変わらない』のだ。
アールのマディが欲しい気持ちも昨夜と……いや、それ以上に。
先程の彼女の様子なら、起きている内に悪戯を仕掛ける事も出来ただろうが、それでも念には念を入れておきたい。
ここまで下準備して逃げられては元も子もない。
自分だけが与えられる見えない枷を、もっともっと深くに刻み付けたい。
何て卑怯で臆病な男なのだろうと、自嘲気味な笑いが込み上がってくる。
しかし『マディ』を手に入れる為なら、見栄も、余裕も、プライドも、かなぐり捨てて一向に構わなかったのだ。
『眠り』の魔法を唱え、更に深淵の闇へと誘う。
そして今宵も、マディに欲を刻み込む。
白い首筋に唇を落とし、初めての所有印をつける。
アールにとっては、享楽でもあり、艱苦でもある所業に埋没していった。
小さな窓から眩しい朝日が差し込み、どこか欲鬱たる部屋の雰囲気を清々しく塗り替える。
夜具の住人となっていたマディは、のそのそと起き出すと座ったままボーっとしていた。
どうやら、まだ完全には眼が覚めていないらしい。
寝起きは良い筈だったのに、原因不明の疲労感が意識覚醒の邪魔をする。
昨日は、倦怠ながらも充足感が伴い『心地よい』と思えた。
だが今朝は『物足りない』と何故かそう思ってしまう。
何が物足りないのか分らず、ただ無意識に自分の腕で自身を強く抱締めた。
次第に落ち着き眼が覚めてくると、フトある事に気付く。
アールの姿が、ベッドにも周囲にもない。
貸していた寝間着のみがキチンとたたまれて、テーブルの上に置いてあった。
帰っちゃったの!?
まだ、足も治りきっていないのに?
さよならも言ってないのに?
こんな、別れ方……イヤッ!
弾ける様にベッドから降り、小屋の戸を開け外に飛び出した。
「!」
そこには、逢いたかった人物がいた。
何処から来たのか分らないが、栗毛色の馬の世話をする手を休めて此方に振り向く。
「お早う、マディ」
笑顔で挨拶してくれる彼、それだけで不安感が消えていく、充足感が満ちていく。
その代り、別の感情がジワジワと甘い毒の様に身体を苛む。
訳も分らず、ドキドキする。
逢いたかった筈なのに、恥しくてまともに顔が見れなかった。
アールは軽く足を引き摺る様にして、マディに近付くと目線を合わせしゃがみ込んだ。
「お早う、マディ」
揶揄いの色を含んだ挨拶なのだが、今の少女にはその事を考える余裕もない。
「おっ……お早うございます」
「ふふ、よく出来ました」
指が軽く頬に触れただけで、背筋に電気が走った様にビクンッと震える。
どうしてこんな事になるのか分からなかった。
今迄、経験した事のない身体の変調……もしかして!?
マディの思考が、次第に悪い方向に転がって行く。
そんな考えを払拭するかの様に、話題を別の方向に向けてみた。
「アールさん、その馬どうしたんですか?」
「これ? 私の馬だよ」
「えっ!?」
「主人に怪我を負わせ、見捨てて行った薄情な馬さ。 でも、お陰でマディに出逢えたし、まぁ感謝すべきなのかな」
「……もしかして記憶が?」
「思い出したよ、全て」
マディは一瞬、アールから目を逸らすと抑えた様な笑顔を見せた。
「良かったですね、これて帰れるじゃないですか」
「マディは、ソレでいいのかい?」
「えっ、もっ、勿論ですよ! それがアールさんにとっても一番、いい事ですし」
本人は、気が付いていないのだろうか?
段々と泣きそうな笑顔に崩れていくというのに?
その様子が、もどかしくもあり、痛々しくもあり、愛おしくもある。
雨が上がり、何とか歩ける様になっていたアールは、小屋の周りを一通り調べていた。
その過程で、呑気に草を食む馬を見付けていたのだが、ある程度の場所まで行くと弾かれる感覚があり、それ以上は先に進めないのだ。
どうやら、何がしらの魔法が施されているらしい。
恐らく不進入の結界の様なモノ。
しかも効果は『人』に限定されている?
馬は、この場に入って来れたのだ、それはほぼ間違いないだろう。
「マディ、この場所は隠されているのだね」
「そうみたいです、どうしてか分りませんが」
「きっと君を守る為、なのかな」
「えっ?」
アールは小さな溜息を零すと馬に飛び乗り、手を差し伸べた。
「私を拾ってくれた場所まで、案内してもらえるかな?」
マディは無言で頷き、その手を取った。
彼女を前に乗せ、誘導するままに歩を進める。
弾かれていた場所に侵入すると、今度は弾かれず一瞬視界が揺れる。
治まって確認すると、そこは見慣れた小道……あの時、自分が背を預けた木の傍だった。
「こんな近くだったのかい?」
「……お別れですね。 足、ちゃんと治して下さいね」
そう言って馬から降り様としたのだが、腰に回された腕が緩む事はなかった。
「アールさん?」
「『お別れ』なんてするつもりはないね。 君は私の妃になるのだから、このまま城に連れて帰るよ」
「えっ! 妃って!? 城って!!??」
「おや、言ってなかったかな。 これでも、この王国の王子なのだよ」
「聞いてません! って、さっきまで記憶喪失だったでしょう!? それに、私は此処にいないと!!」
「それは、誰との約束だい?」
「誰って……」
「そんな不明瞭な約束を黙認するほど、私は物分りのいい人間ではないのでねぇ」
この二日間で見た事がない、アールの真摯な瞳が真直ぐに、マディを射抜く。
揺るぎ無い、しかしどこか自信に満ちた光。
本気の男の視線に堪えかねた少女は、顔を逸らすと小さく呟いた。
「でも、ダメです。 私は、きっと、変な病気になってしまったから」
「病気?」
思い掛けない、その言葉に軽く眉を寄せる。
ここ二日間、マディの様子を見ていたが、それはまさに健康な少女そのものだった。
触った感じも、変な箇所はなかったし。
しかし、本当に病気だと言うのなら、余計ここには置いておけない。
「城に戻れば、白魔導師もいるし、薬草に長けた魔術師も魔女殿いる。 どんな病気でも治してみせるよ。 で、一体どんな症状なんだい?」
「胸がドキドキします」
「うん」
「凄く恥しいですし」
「うん?」
「軽く触られただけで、身体が震えちゃって」
「……」
「朝起きると、何故か物足りない様な倦怠感があって」
「……ソレは、大変な病にかかってしまったようだねぇ」
「! やっぱり、何の病気なんですか!?」
『悪い予感が当ってしまった』と、半泣き状態で上目遣いに見上げるマディに、アールの口角が微かに上がる。
「大丈夫、その病気は私だけが治してあげられるものだから」
「本当ですか!」
「取り合えず、軽い薬を処方してあげようか。 マディ、目を閉じて」
「はい」
何の疑いもなく素直にその言葉に従う様子を、眺める瞳の奥には慾な色を宿していて、ゆっくりと後頭部に手を添えると、アールの唇がマディの唇に重なっていた。
「! んんーっ!!」
突然の事に驚いて目を見開き、思わずくぐもった声を発した。
その隙を突き、歯列の間を割って舌が挿し入れられる。
兎に角、離れようと腕を突っ張ったが、場所が馬上である上に、後頭部を押さえられているので逃げる事は敵わず。
体勢を崩そうとすると余計に抱締められ、かえって密着度合いが増してしまう結果に。
一方アールとしては、二日間も焦らされまくったマディとの口付け。
本当に『軽く』するだけのつもりだったのに、抵抗された瞬間、意とも簡単に理性が弾け飛んだ。
こうなってしまっては、もう抑えられない。
マディの抵抗が止むまで、その身体が弛緩してしまうまで、意識が飛んでしまう瞬間まで、散々、好き勝手に口内と舌と花唇を貪り続ける。
名残惜しげに唇を離すと、繋がっていた銀糸がプツンと切れた。
「どうかな? 薬の効き目は」
「……今の、が、薬?」
白く霞架かった頭で、懸命に今の自分の状況を判断する。
確かに『何かが物足りない』ような気分は解消された?様な気もする。
だが、心臓は今までに感じた事がないほど速く鼓動し、意識すると身体の芯の震えは止まらないし、これ以上ないほどの羞恥心が込上げ、顔が真っ赤に染まった。
朱に染まり潤んだ瞳で睨み付ける。
「アールさんの嘘吐き! 余計に酷くなっちゃったじゃないですか!!」
その言葉と表情は、唯々、彼を悦ばすだけの事。
『大変な病』、所謂『お医者様でも草津の湯でも』ってヤツである。
アールは嬉しそうに笑うと、意味深な言葉を滲ませる。
「この程度の『薬』では効き目がなかったかな? 城に帰ったら、じっくりと『治療』を施してあげよう」
瞬間、マディの背筋にゾクッ!とした感覚が走る。
何も知らない筈なのだが、性の本能が『貞操の危機』を感じ取ったのだろう。
『このままでは拙い!』とジタバタと藻掻きだした。
小動物が藻掻く様は、野生の狩猟本能を刺激する。
ソレは動物に限った事ではなく、人間の男女も同じ。
二日ほど前までは、何の反応も示さなかった少女の、今のこの嬉しい対応。
雄の貪欲な本能を煽る行為に他ならなかった。
抱く手に力を込め、ゆっくりと顔を近付けていく。
「コレコレ、そんなに暴れると落ちてしまうよ」
「お願いですから、降ろして下さい!」
「ふふ『酷くなった』と言っていただろう、ちゃんと責任を取ってあげるからね」
「あっ、もう、大丈夫ですから」
「嘘はいけないねぇ……そんな悪い子は『お仕置き』かな?」
「えぇっ!?」
「『お仕置き』も『治療』も『御褒美』も、城に帰ってから、ね」
赤くなり震えている可愛らしい耳を甘噛みしながら『眠り』の魔法を唱える。
魔法には習慣性の強いものがある『眠り』の魔法など最たるものだ。
たった二晩の間とは言え、十数回もその魔法に曝されていた身体は驚くほど素直に効力を受け入れる。
完全に深い眠りに陥り、力の抜け切った少女をしっかりと胸に抱締めた。
「今はゆっくりお休み……今晩は寝かせてあげられないかもしれないからねぇ」
不穏な台詞を吐きながら北叟笑むと、馬の腹を軽く蹴った。