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冷え切った身体を何かが包み込んだ。
しっとりとして柔らかく、上等のベルベットの様な肌触りのソレ。
身体に温もりが戻ってくる、暖かく包まれる感覚があまりに心地よく、トロトロと優しい微睡みの中に意識が沈んでいった。
パチパチと、薪が燃える音に誘われ意識が覚醒してゆく。
僅かに身じろいだ途端、両足に痛みが走り生きている事を現実に感じられた。
億劫だとは思いながらも緩々と目を開けると、粗末な小屋ながら綺麗に片付けられた部屋に、自分が寝れば一杯一杯になってしまいそうな小さなベッドに寝かされた状態。
身を起してみれば産まれたままの格好で、雨に濡れた衣服は椅子の背にかけられ暖炉の火で乾かされていた。
「あっ、眼が覚めました?」
此方の気配にに気が付いたのだろう、暖炉の側にいた少女がパタパタとこちらに駆け寄ってくる。
「……君は?」
「マディって言います、この森に住んでいるんです」
「此処に?」
「はい」
思わず不躾な視線で、少女を見入る。
桜色の肩までの柔らかそうな髪、森を髣髴とさせる新緑の瞳、屈託なく微笑む無邪気な表情で、まさに森の妖精と言った感じだ。
この少女が、魔女?
「つっ!」
無意識に体を捻った瞬間に足に激痛が走り、思わず背を丸める。
「あぁ、無茶しちゃ駄目ですよ! 折れてないみたいですけど、まだ動くのは無理です」
体を支えてくれる手が暖かい、足を見ると薬草で治療が施されてあった。
「この治療を君が? ……有難う」
「私にはこの位しか出来ませんから、大した事ありませんよ。 あの、貴方のお名前を聞いていいですか?」
「あぁ、アールと言うんだが……」
名乗って、瞬間しまったと思う。
術者にとって、名前はもっとも短い呪文であると魔術師は言っていた。
本人から名を許されるというのは心身共に許すという事で、 心を掴まれたくなくば不用意に名乗ってはならないと。
「アールさん、どうしたんですか?」
急に沈黙した男をマディは訝しく思ったのか、首を傾げ心配そうに語りかける。
その様子はあまりにも無防備で、とても裏があるようには思えない。
だが王子として生きる者の本能が、咄嗟に嘘を吐いた。
「……すまないね、他には何も思い出せないんだ」
「まぁ、あっ、でも、こんな森の奥まで来られるんですもの、きっと何か深い事情があったんでしょうね。 今は混乱しているだけで、きっと記憶は思い出せますよ。 取り合えず今は、身体を治す事を優先しましょう」
マディはそっとアールの額に手を当て、熱の具合を確かめ再び綻んだ笑顔を見せた。
「良かった、熱も出てないようですし、体温も元に戻ったみたいですね。 ウチに運んだ時は身体が冷え切っていて、取り合えず私の身体で暖めたんですよ」
その問題発言に、アールの身体が固まった。
「はっ! 今、何て!?」
「私の体温で暖めたんですが、何か不都合がありました?」
先程の夢現の心地よさを思い出す。
あれは、この少女の人肌!?
驚きの目を込めてマディを見ると、彼女も不思議そうにアールを見詰返した。
この少女にとって、男の裸など気にする物ではないのだろうか?
……だとしたら多少なりと自信があっただけに、少々ショックかも……
それとも魔女にとって、そういうものなのだろうか?
しかし様子がどうもおかしい、行為そのものに何の疑問も抱いていない?
「……もしかして、君は此処で一人で住んでるの?」
「はい」
「いつからだい?」
「んー気が付いた時からですよ。 森から出た事もないですし、他の人を見たのって貴方が初めてで。 だから勝手が良く分らないんですけど、何かおかしかったですか?」
嗚呼と総ての事を理解する。
森でたった一人で育ち、他人を知らない彼女にとって男も女も関係ない。
清澄で、清楚で、清浄で、清廉で、潔白で、清純で、純粋無垢な乙女。
好意の裏を読み、咄嗟に嘘を吐く様な穢れた自分とは全く正反対の少女。
そう意識した瞬間、ゾクッと背筋が震える。
それが男としての欲なのか、邪な人間の穢したいだけの欲なのか、征服欲なのか、支配欲なのか、庇護欲なのか、色欲なのか……もしかしたら、名を紡がれた所為かもしれないが……そんな事は些細な心情で、産まれて初めて本気で『総てが欲しい!』そう思った。
「……いや全然おかしくないよ、寧ろ嬉しいね」
獲物を狙うようにその目がスッと細められ、しなやかな肢体を喰らう為に口角が緩められる。
彼女が魔女か、妖精か、普通の少女かは最早、アールにはさしたる問題ではなくなっていた。
瞳に欲の色を滲ませて微笑み、出来るだけ身体を寄せて艶の雰囲気を醸し出す。
無駄なく引き締まった裸体その上半身を惜し気もなく曝し、もの欲しそうに微笑まれれば世の女性ならば頬を染めるか、陥落するか、嫌なら拒絶するか……しかし少女の反応は。
「あ~良かった。 『おかしい』って言われたら、どうしようかと思ってました」
子供の様に、無邪気な微笑みを返してきたのだ。
……手強いねぇ……
「アールさんの服がまだ乾いてないんで、コレを着ておいてもらえますか?」
手渡された服は大きなワンピースの様で、コットンの生地を縫い合わせて作ってあった。
「私の服は小さいし、急だったからこんな物しか作れなくて」
「いや、とても上手だよ。 でも態々作ってくれなくても、このままで良かったのにねぇ」
「裸のままじゃ、風邪をひいちゃいますから」
「ふふ、そしたらまた躯で暖めてくれるのだろう」
「? 別に構いませんけど、傷の治りが遅くなりますよ」
「君が私の身も心も治療をしてくれるのなら、どんなに遅くなっても構わないがねぇ」
「⁇ ソレだけ元気なら大丈夫かな、お腹空いてませんか」
「そうだね、美味しそうな君が食べたいかな」
「??? ちょっと待ってて下さい、スープを作ってあるんで持ってきますね」
微妙に噛み合っていない会話。
マディもその妙な雰囲気を肌て感じているのだろう、ちょっと首を捻りながら暖炉の側に戻っていく。
アールといえば渾身の先制攻撃を悉くかわされてしまい、渡された服に袖を通しながら苦笑していた。
『通じなかった』と言うより、自身がこんなにもマディを渇望している事に。
無理矢理にでも抱いて想いをとげてしまいたい程に昂っているのに、そうする事で嫌われてしまうのを何よりも恐怖に感じていて、こんなにくすぐったいやりとりを心地良いと思い始めていて。
まるで青臭い少年の様だよ、この私が……。
用意された根野菜のスープで食欲を満たしながら、アールは他愛無い会話を楽しむ。
しかしその実、マディの普段の生活を探るもので。
本来なら赤の他人に生活様式を知られるのは、はっきり言ってプライバシーの侵害。
だがマディにその概念はないらしく、一を訊ねれば十の返答が返って来た。
野菜を育てたり野草を採集したり、その過程で自然と造詣が深くなり、薬草の知識が増えていった。
糸を紡いだり、布を織ったり、服を作ったり、森の植物や動物達とゆったりとした時間を過ごしていると。
どうやら、魔女や妖精の類ではないらしい。
そしてその会話の中から、アールは奇妙な事実を発見する。
彼女には必要なだけの、知識やモラルやマナーと言った物が身に付いていたのだ。
どうやら、読み書き計算も十分に出来る様子。
それらは教わらないと身に付かない、森の中で一人で育ったとは思えなかった。
そんな疑問も交え、最大の関心事である事を訊ねる。
「何故、此処でたった一人で住んでいるの? 森を出てみようと思わないのかい?」
マディは小首を傾げて考えてみたが、その質問には答えられなかった。
隠している訳ではなく、今まで考えもしなかったと言うのが正しくて、一言いえたのは
「分りません、でも此処に居なくちゃいけない気がするんです。 誰かと約束をしたような」
外の雨は一向に止む気配もなく激しさを増すばかりで、夜も更けてくると一層、肌寒さが身に凍みてくる。
マディは暖炉に大きめの薪をくべると、アールの布団を整えた。
「暖かくして、休んで下さいね」
「マディ、君は?」
思わずそう聞いたのも無理はない。
今、自分が占領しているベッドはマディの物で、小脇に毛布を抱えているものの小屋に別の部屋があるとは思えなかった。
「暖炉の側で休みますから」
予感的中の返答に、溜息を零す。
「そんな事をしたら、君の方が風邪をひいてしまう。 おいで、一緒に休もう」
「えっ、でも」
その言葉にマディは躊躇する。
恥じらいとかではなく、物理的にどう考えてもそのベッドに二人は狭すぎるのだ。
「ふふ、何なら私をベッド代わりにして、上に乗って休んでも構わないけれど」
「そんなの、駄目に決まってるじゃないですか!」
「おや、そうなのかい」
ほんの少しだけ頬を紅潮させて睨むマディに、僅かな期待が胸に宿る。
が、見事にその淡い期待は裏切られた。
「当たり前です、足の傷に響くでしょう!?」
「やれやれ、ソッチの方なのだねぇ」
「?」
横向きに寝なおすと、出来るだけスペースを取った。
「ホラ、これなら一緒に寝れるだろう。 寒いからね暖めで欲しいのだよ、暖めてくれるのだろう」
「もう一つ、薪をくべましょうか?」
天然と言うか、ここまでナチュラルだと、いっそ清々しい。
頭では理解していたものの、返ってくる反応にこちらが遊ばれている様な錯覚に陥ってしまう。
彼女には駆引きや比喩等と言った言葉は存在さえなく、どうやら少々強引な手段が必要な様だった。
アールは軽く手招きすると、近寄ってきたマディの腕を捕まえベッドに引き擦り込んだ。
腕を枕にする様に、胸元に密着させて懐中に抱締め、上から布団を掛ける。
「コレで二人とも風邪をひかずに済むだろう」
暫く腕の中でゴソゴソしていたマディだが、身体の位置を落ち着けたのか懐中から窺う様に顔を上げた。
「アールさん、窮屈じゃありませんか?」
「全然、とっても気持ちいいよ。 マディは?」
「少し狭いけど、何か不思議な気分です」
「どんな気分だい」
「えーっと暖かくて、心地よくて、落ち着けて、凄く安心できます」
屈託なく微笑むその様子に、アールは複雑な心境だった。
嫌がられていないのは嬉しいが、その例え方は子供が親と添い寝する時の形容のもの、男を知らない……その存在さえも概念にないのだから仕方が無いが……
ヤレヤレと思いながら、布団の上からポンポンとリズムを取って叩いてやる。
森の中で一人静かに暮らしていた彼女にとって今日の出来事は、まさに『大事件』だったのだろう。
暫く会話を交わしていたのだが、やがてソレは規則的な寝息に変換されていた。
何の疑いもなく無防備な寝顔を曝すその様子に、心から『愛しい』という気持ちが溢れ出てくる。
不吉な名の森に守られていた、無垢な乙女。
今はその名に、感謝の気持ちを贈りたかった。
その何人も近寄らせない雰囲気が、彼女を守ってくれていたのだから。
……そうでなかったら、とっくに他の男に喰べられてただろうねぇ……
それにもしマディがこの森に住んでいるのではなくて、城下に住んでいたら?
恐らく性格も、考え方も、違っていただろう。
出逢う事は出来なかっただろうか?
……それでも、きっと見付けただろうね、何があろうと君は私のものだ……
柔らかな桜色の髪の毛を手に取り、梳く様に指に絡める。
小さくて華奢で純粋無垢な、彼女。
でも若木の様に強く瑞々しく嫋やかな、乙女
これからは自分の腕の中で守りたいと強く願う、少女……マディ……
足の傷は腫れと痛みさえ退けば、歩くに支障はないだろう。
城に帰ってしまえば、白魔導師に回復魔法を掛けさせればいい。
しかし城に『妃』を連れ添って帰ったら、さぞかし皆驚くだろう。
特にあの真面目な宰相なんかは『年齢を考えて下さいっ!』と言いそうだと、マディを城に迎えた時の様子をニヤニヤと思い描いていたら、フト彼女の言葉が脳裏をよぎった。
『此処に居なくちゃいけない気がするんです。 ……誰かと約束をしたような……』
約束、一体誰と?
瞬間、今までの暖かな雰囲気が一気に凍りつく。
そう彼女は『誰か』と約束を交している、人間ではない『誰か』かもしれないが。
このままでは、いくら自分が彼女を望んだとしても、森を離れて城に来る事など了承してくれないだろう。
最早、マディを手放す事など考えられない。
『誰かとの約束』以上の絆を結ぶ必要がある。
彼女が自分から離れられなくなる様に、心情に及ぼす不確かな『約束』より、身上に強く刻み込む『密約』を。
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文明の進歩は素晴らしいなぁ。