19
やがて舞曲が始まると、エイノのところに挨拶に来る貴族の波も落ち着いてきた。
ヘルジュはエイノと並んで壁際に立ちながら、ダンスホールで踊る人の群れを見物することにした。
曲が何度か変わり、人も入れ替わり立ち替わりホールに現れる。薔薇の赤や夜空の青を思わせるドレスの裳裾が翻り、クルクルと傘のように回転する様は壮観だった。
「ダンスも軽く教えておこうか?」
エイノからの提案に、ヘルジュはうろたえてしまった。ヘルジュはダンスなど習ったこともないし、運動神経だってあんまりよくない。数時間くらいのレッスンでは正直、時間の無駄だ。
「いえ、ダンスは本当にお断りしたいです。エイノ様に恥をかかせてしまうだけだと思いますので……っ」
「私は全然気にしない。お前が楽しく踊れればいい」
「……」
(ダンスって、楽しいものなのでしょうか……)
ホールに目を転じれば、みんなでいっせいに同じ動きでダンスを踊っている。
見ていて楽しいが、自分も加われと言われると、ヘルジュにはまったく自信がなく、楽しめる気もしない。
「いえ、私は……ああいうのはあまり……楽しめない無粋な人間なのです……」
「まあ、嫌いなら無理にとは言わん」
「無作法をお目にかけてしまうだけだと思いますので、お許しください……」
すげなく断りながら、ヘルジュは気鬱に陥った。
(私は本当に何もできませんね……)
気の利いたことも言えず、踊りもできなければ、お揃いの特別なドレスを着てもしっくり似合わない。
なにか一つくらい取り柄があればまだエイノの顔も立てられただろうに、今のところはただのお荷物だ。
暗い顔をしていたのがよくなかったのか、急にぐいっと顎をつかまれ、エイノの方を見上げさせられた。
「おい。聞いていたか?」
「……っ、すみません、ぼーっとしていて……」
「疲れてきたんだろう? もう帰ろうか?」
「い、いえ……まだ来たばかりですし……」
せめて真夜中ぐらいまではいないと、せっかく招いてくれた人も気を悪くするだろう。ヘルジュは作法に疎いが、さすがにそのくらいのことは分かる。
「もう一度聞くが。私が踊りたいから、裏庭でこっそり付き合え、と言ったらどうだ? 誰も見ていなければ、お前も恥ずかしくないだろう?」
ヘルジュにはうなだれることしかできない。
(……踊れないとは言っても、簡単なステップくらいは知っているものだと思われているのでしょうね)
貴族令嬢であれば、それは当然のことだ。
「本当に、少しも踊れないんです……」
うつむきがちなヘルジュを、エイノはまた強制的に上向かせた。
「いちいち謝るな、気に病むな。私はヘルジュを楽しませるつもりでいるから、嫌なら嫌でまったく問題はない」
冷酷そうな印象のエイノの瞳とは裏腹に、声はとても優しかった。
「なら、どうすればいいのだろうな。どうやってお前に楽しんでもらおうか?」
優しくそう言ってくれるエイノのそばにいられるだけでヘルジュは十分に楽しかったが、なぜか気恥ずかしくなって、うまく口に出すことができなかった。
「そうだな、せっかくだから、ダンスをするやつらでも鑑賞しながら、話をするというのでどうだ? 曲が変わるごとに、交代で話をする」
「私、お話も、そんなに上手では……」
「何も話すことがないときはキス一回でパスできる」
「えぇっ……!?」
「冗談だ。何でも構わないぞ。好きな食べ物の話でも、自分で考えた星座の話でも」
「星座……」
「作ったことがあるだろう?」
「いえ……」
「そうか? 普通やるだろう? 子どものときに」
「エイノ様もやったことが……?」
「あるが……いやまあ、でかい図体して気持ち悪いか。今のは忘れろ」
エイノが詮索してほしくなさそうだったので詳しくは聞かなかったが、微妙に気になる話題だった。
(エイノ様の子ども時代の話、きっと可愛いに違いありません)
背の高いエイノが小さく縮んだ姿を想像してみて、ヘルジュはちょっと楽しくなった。
「エイノ様の小さなころは、どんな子だったんですか?」
「私か? 特に思い出らしい思い出はない。ずっと習い事ばかりしていた。近隣諸国の言葉に、スポーツに、剣術に、馬術、それから射撃……午前と午後で違う授業を受けて、それを年中続けた」
「……」
聞くだに大変そうだが、ヘルジュは少しだけうらやましいと思った。
(私も何か、習い事をしてみたかったです)
エイノは自分の話をほどほどで打ち切って、ヘルジュに水を向けてきた。
「お前はどうだ? 子ども時代はさぞ愛らしかっただろう。肖像画なんかは残ってないのか? あれば今度見せてもらいにご実家まで行こうか」
「……っ、その……」
口ごもるヘルジュを意に介さず、エイノがマイペースに話題を変える。
「――まあ、しばらくそんな暇はないがな。パーティは半年先までいっぱいだ。行楽シーズンになったら旅行にも行かないとならん。ハネムーンもやり直しだからな」
ヘルジュは瞬間的に喜びを抑えられなくなって、手で口元を押さえた。
ハネムーン。
蜜月。新婚旅行。
ヘルジュも結婚前、子どもだったころに、多少憧れたことがある。
「い……いいのですか?」
実は結婚が決まったとき、少しだけ期待していた。
愛のない結婚であっても、新婚らしいイベントに連れ出してもらえたら、いい思い出になったかもしれないではないか。連れて行かれなかったからといって文句を言える筋合いではないと思って黙っていたが。
エイノはとろけるような甘い顔で微笑んだ。
「どこがいい? 希望がなければうんと暑い外国にしようか。自然に触れると健康にいいとドクターも勧めていた」
ヘルジュは気落ちした。
(療養……ですよね。具合を悪くなさっているのですから、ハネムーンにかこつけて休養を取ることも必要かもしれません)
エイノは凱旋して以来、しょっちゅう呼ばれて狩りだのスポーツだのに参加している。
パーティに出席するだけでも忙しいのに、ヘルジュが付き添わなくていい男性同士の付き合いも相当な数に上っているのだ。
こんなに社交三昧では気が休まらないだろう、と、あまり夜会が好きではないヘルジュは、彼女の基準で彼の身を案じた。
「どこへでも構いません」
「では決まりだ。南国で着る服も必要だな。本国ではとても着られないような薄着を着てもらおうか」
楽しみだと笑うエイノに、ヘルジュは、はたしてそんな服が自分に似合うのだろうかと思ってしまった。
ちょうどそのときダンスの曲が終わり、踊り終わった人たちがぞろぞろと入れ替わった。
人の波に紛れて、談笑している女性のグループがこちらにやってくる。
「ヘルジュ、お久しぶり」
声をかけてきた貴族のご令嬢に、ヘルジュは驚いた。
「……エリー」
「修道院で一緒して以来ね。懐かしいわ」
エリーはくすくす笑いながら、隣の女性と何かを小声で囁き合った。その仕草に、何か嫌なものを感じる。
(当時は、友達だったのですが)
もう三年も前のことだ。変わっていてもおかしくはない。
「ねえ、ヘルジュ、本当に『氷の騎士団長様』と結婚したのね! おめでとう! 戦争のどさくさに紛れてご挨拶し損なっていたのがずっと気がかりだったの。今日言えて嬉しいわ」
「あ、ありがとう……」
エリーはちらりとエイノを見上げる。なんとなくそこに媚びを感じたが、きっと気のせいなのだろう。
「エイノ様、本当にヘルジュが相手でよかったのですか? 修道院でエイノ様、ヘルジュに向かってこうおっしゃいましたよね――」
ヘルジュはどきりとした。その話題には触れてほしくない。でも、エリーは残酷なまでに笑顔だった。
「『この中で一番みすぼらしくて、従順そうだ』って」