17
必死にうなずくヘルジュに対しても、エイノは気楽なものだった。はははと軽やかに笑い飛ばし、ぽんぽんと肩を叩いてリラックスするよう促す。
「一緒に乗せてやるから、心配はいらない」
馬がブシュルッ! とくしゃみのような大声を立て、ヘルジュはビクッとした。
(こ……怖いです)
腰が引けているヘルジュの胴を軽々と抱き上げ、馬の背によじ登らせると、エイノはひらりと馬に飛び乗った。
「馬小屋のこともよく書いていたから、てっきり好きなのかと思っていたが」
エイノがお喋りをしながら馬を前に進めるので、ヘルジュは恐怖に身がすくみ、エイノにしがみついた。乗馬用の上着はエイノによく似合っていたが、布地が硬く、握り締めるのには向かない。震えながらエイノの腰に手を回し、しっかりと両手で組みつくと、エイノが変な声でうめいた。
「なかなかいい体勢だが……震えるほど怖いなら、帰ろうか?」
「い……いえ……大丈夫です……」
目をつぶってエイノの胸にくっついていれば、高さや揺れは多少マシになる。
くすりと笑うエイノの吐息が耳のすぐそばにかかった。
「ならちょっとだけ付き合ってくれ、可愛い奥さん」
至近距離で優しくあやすように言われてしまい、ヘルジュはもはや自分が何に対して動悸を覚えているのか分からないほどドキドキしてしまった。
エイノの手綱さばきで馬はなだらかな上り坂をすいすい進む。
ときどき手綱から片手を離して、ヘルジュの背中を優しく撫でてくれるので、ヘルジュはそのたびに羞恥と戦わなければならなかった。
身体に触れられると、どうしても彼のことを異性として意識してしまい、自己嫌悪に陥るのだ。
(エイノ様は心配してくださっているだけ、馬が怖い私をなだめてくださっているだけ……)
自分自身に言い聞かせて平静を保とうとしたが、ことごとく失敗に終わった。
エイノは声を殺してくすくす笑っている。
「怖がってるお前には本当に申し訳ないんだが、震えている姿があんまり可愛くて、連れてきてよかったと思っている。ひどいやつですまんな」
「だ、大丈夫です、そんなに怖くは……っ」
「ははは、強がるところも愛らしいな」
可愛い可愛いと連発されながら背中を優しくさすられて、恥ずかしいやらドキドキするやらで、涙が出そうになった。
そう長い距離を走っていたわけでもないのに、丘のてっぺんに出るころには、ヘルジュはグッタリと疲れ切っていた。
丘の上は素晴らしい見晴らしで、街が一望できる。
心地よい風も吹いていたのに、ヘルジュはそれどころではなかった。
「真っ青だ。やっぱり無理に連れ出すんじゃなかったか」
「い、いえ、これは……」
ドキドキのしすぎで疲れましただなんて、とてもではないが言えない。
「どこか座って休めるところがあればいいが……足場が悪いな」
たどり着いた丘のてっぺんは砂利まじりの砂地で、腰掛けると小石が当たって痛そうだ。
かといって、手近に座れそうな石や切り株も見当たらない。
エイノはランチボックスを足下に置き、砂利を手早く乗馬用の鞭で払って避けると、そこに座り込んで、ヘルジュに向かって両手を広げた。
「さあ来い。抱きかかえてやろう」
なんと心臓に悪いことを考えるのか。ヘルジュは真っ赤になってもじもじしながら、両手で断固拒否の構えを取った。
「い、いえ、そんな、大丈夫ですから……!」
「遠慮するな。座っていた方が楽だろう」
エイノはしばらくにこにこしながら手を広げていたけれど、ヘルジュが遠慮をし続けているので、やがて悲しそうに打ちひしがれてしまった。
「そうか……ヘルジュは私が嫌か」
「い、いえ、その! そうではないです! けど、あの……!」
「気にするな。ヘルジュに嫌がられるなんて辛いが、それだけだから、放っておいてくれていい」
(抱っこなんてそんな……)
猫の子だって膝に載せたらそれなりに重いのに、人間なんて載せたらすぐに足が痺れるに違いない。
(でも、そんな目で見られると……!)
エイノのすがるような視線に負けて、ヘルジュはおそるおそる近づいた。
「さあ、来い。遠慮はいらん。私は騎士だから、多少のことではへこたれない」
(断れませんよね……)
ヘルジュは目をつぶって、思い切ってすとんとエイノの膝に腰を落ち着けた。
密着度は馬上の比ではない。べったりとくっついている。しかもすぐそばにエイノの顔があって、視線をあえて逸らしていないと、否が応にも見つめ合うことになるのだ。端麗で少し冷酷そうな灰色の瞳から逃げるように顔を背け、エイノの硬い乗馬服の襟を頬に食い込ませながら、ヘルジュは消え入りたい衝動に駆られていた。
(は……恥ずかしい……!)
「お前、瞳は髪よりも色がずっと濃いな」
じっと目を覗き込んで、エイノが感心したように言った。
ヘルジュはビクリとした。
目の色のことには、あまり触れてほしくない。いい思い出がないからだ。
ドブのような色。汚らしい色。
さまざまに罵られた記憶が蘇る。
それからすぐに、もっと違うことを恐れた。エイノもまた、同じように罵るつもりなのではないだろうか、と。
「わ……私の瞳が何か……?」
ヘルジュはおそるおそる尋ねてみた。もはや甘い気持ちなど吹き飛んでしまっている。
「……た、ただの、茶色の、どこにでもある目です……」
特別な意味なんてない、何の変哲もない、どこにでもある目。少なくとも、エイノにとってはそのはずだった。
怯えるヘルジュに、エイノは穏やかに微笑んでいる。
「シャンパンのような金色が入っていて、特別に見えるが。綺麗だよ」
頬をそっと撫でられ、ヘルジュは悶絶しそうになった。これは新手の嫌がらせなのかとさえ思う。もしもそうなのだとしたら効果的だ。ヘルジュは冷遇されたり無視されたりすることには慣れっこだが、大げさに構われることには慣れていなかった。
「……なぜそんなに顔を背ける?」
「も、申し訳ありません、失礼ですよね、でも、恥ずかしくて……」
「見事なまでに真っ赤だな」
エイノが二度、三度と頬を撫でる。指先を冷たいと感じるほど、火照っているのが自分でも分かった。
「ヘルジュは色が白いから、動揺すると全部顔に出る。可愛くてならん」
白さではエイノも負けていないだろうとヘルジュは思ったが、チラリと盗み見たエイノの顔は穏やかで、平熱を保っているようだった。
「そういえば、私の目の色は知っているか?」
エイノが目を閉じて聞くので、ヘルジュはおずおずと「灰色」と答えた。
「知っていたのか。いつごろ知った?」
「最初から知ってました。初めて会ったときに、灰色なんだって……」
「そうだったのか。初めの頃の私はお前に辛く当たっていたから言いにくいが、相手の目の色を覚えているのは興味を持っている証拠らしいぞ」
それはそうだろう、とヘルジュもその説には納得が行った。
(カッコいい人だと思っていました。でも、怖そうな人だとも)
声には出せずにそっと当時の感想を回想する。
「私に興味があったのか」
「はい」
「ありがとう。世辞でも悪い気はしない」
ヘルジュの顎を、エイノが捉えた。くいっと上向かされた先に、エイノのいたずらっぽい笑みを浮かべた目元があった。
「綺麗なシャンパンブラウンだ」
ヘルジュの顔を至近距離から覗き込む、その灰色の瞳に、ヘルジュもまた見とれてしまう。
「私ももっとヘルジュのことが知りたい」
もの柔らかな告白は魔法のようにヘルジュを痺れさせた。ぽうっと夢見心地にさせられたヘルジュの唇を、エイノの唇がかすめる。
ほんのかすかに触れられただけだったので、ヘルジュは終始ぼんやりしていた。
もう一度唇を重ねてこられても、ろくに反応できずにじっと見ているだけで終わった。
「……お前は大人しいから、ときどき心配になる。嫌なときは嫌と言わないと、私はどこまでも増長するぞ」
「……え」
嫌などであるものか。うっとりしすぎて半ば意識が飛んでいたくらいだというのに。