15
ヘルジュは口をつぐんだ。
エイノが立ち止まり、ヘルジュを振り返る。
「離婚の話は聞きたくない。また今度にしてもらえるか? 少し私にも心を整理する時間が必要だ」
微妙に目をそらしているエイノを見て、ヘルジュはいよいよ青くなった。
(やっぱり、がめついことを言ったせいで、お怒りを買ってしまったのですね……っ)
考えが足りなかった、とヘルジュは深く反省した。
それでなくてもエイノは大変な仕事をしてきて不調を抱えているというのに、さらに負担になるようなことを言ってどうするのか。
(せめてご回復なさるまで、ワガママなんて言うべきではありませんでした)
「あ、あの、エイノ様」
「すまない、本当に今は無理そうだ」
「いえ、あの、お忘れください、私、何もほしくありませんので。旦那様のお屋敷に置いていただけるだけで私にはもったいないくらいありがたいことですから」
エイノがわずかに目を見張り、ヘルジュを正面から見た。
「修道院に戻るのは嫌なんです……ですから、追い出さないでいただけたら、私、何もいりません」
とはいえ、ヘルジュはエイノが回復すれば用済みの人間だ。未来永劫居座りたいなど、図々しい願いだとは思うが、これだけはヘルジュとしても譲れないことだった。
「……それだけか?」
「はい……修道院でなければ、どこでもいいんです。お屋敷の離れにある物置だって……」
「修道院に行きたくない?」
「はい。決して楽しい場所ではないと思います」
エイノは何か言いたげにヘルジュを見ていたが、かなり長い間を置いてから、ようやく口を開いた。
「……そのつもりはないから、安心しろ」
ヘルジュはホッとしたというものではない。
捨てられたくない一心で、さらにダメ押しをする。
「私……私にできることであれば、何なりとおっしゃってください。旦那様のお力になれるように、がんばります」
まじりけのない純粋な思いだった。
エイノにはどこまで伝わったのだろう。彼は浮かない顔をしていた。
「それは私の台詞なんだが、そこまで言う割に、あんまり私と一緒にいて楽しいという感じでもなさそうだな」
「……っ、これは」
エイノがヘルジュの顔を間近でのぞき込むので、余計に喉がこわばった。
「すみません、私は、面白みのない女なんです」
「謝らなくてもいいが……」
エイノは唸りつつ、ヘルジュの顎に手で触れた。
「そもそも妻を決める段階で、できるだけ従順な娘を、と望んだのは私だ。面白みなど求めていないから、そんなに気負うな。そのままでかなり私の好みに近い」
「……はい」
従順にしていればいいのなら、ヘルジュにもそんなに難しくない。
昔から何でもはっきり言われた方が助かるのだ。
「分かっているのか? 好みだと言ってるんだが」
エイノがヘルジュの唇にも触れた。
さわりと羽根でくすぐる程度の軽い刺激だったけれど、それでなくてもエイノと間近で見つめ合っているので、落ち着かない気持ちになった。
(どうしてそんなに悲しそうな顔をなさるのでしょうか)
「私を恨んでいるんだろう? 勝手に連れてこられて、私の命令ばかり聞かされて」
「いいえ。いいえ……!」
ヘルジュはフルフルと力強く否定する。
これ以上、エイノの悲しそうな顔を見たくなかった。
「私はあのとき、無理やり修道女にさせられる寸前でした。エイノ様が連れ出してくださらなかったら、私は一生あの修道院に閉じ込められてしまうところだったんです」
修道女は自ら志願してなるものだが、親から疎まれて、修道院に追いやられてしまう娘もいる。ヘルジュもそのひとりだった。
しかもこの国では、修道女の還俗は大罪に当たる。つい最近も駆け落ちをしようとした修道女が死罪になったことで新聞を賑わせたばかりだ。
生涯を修道院に閉じ込められる恐怖に比べたら、今の暮らしなんて、天国にいるようなものだった。
「エイノ様は、私を助けてくださいました。だから、今度は、私がエイノ様のお力になれたらと……思います」
ずいぶん大胆なことを言ってしまった。しかも力になれたらだなんておこがましい。ヘルジュのような娘にいったい何ができるというのか。
「それは……非常にありがたいが。しかし、お前は真面目だな。まあ、そうだろうと思って連れてきたんだが」
エイノが何か決まり悪そうにつぶやいた。依然として表情は沈んでいる。
「お前は私のことをどう思っているんだ?」
今さっき力説したばかりだったので、ヘルジュはもう一度恩人だということを強調しようかと思ったが、エイノはそんなヘルジュの思考を読んだように、「いや、つまり」と機先を制した。
「私もヘルジュは恩人だと思っている。もう少しで死にかけていた私を救ってくれた。しかし、そういうことではなくて」
エイノは思い詰めたような目をしていた。
「ヘルジュ。お前が好きだ」
ヘルジュは金縛りにあったように動けない。今さっき、信じられないようなことを言われた気がする。足下がフワフワして、現実味が湧かない。
「ヘルジュは? 私をどう思う? 私はお前をずっとそばに置いておきたいと――」
ヘルジュはドッドッとうるさい心臓の音に阻まれて、ほとんどエイノの言うことが聞こえていなかった。
(好き? 好きって……何?)
ヘルジュの好きなものはそんなに多くない。たいていのものはただそこにあるだけで、好きでも嫌いでもない。
それでも、馬小屋の水目当てに集まってくる野良猫の群れや、鶏小屋で春先に生まれる大量のひよこは見かけると少しうれしい気持ちになった。
それに真っ白なふわふわのわんこ――
ほとんど現実逃避からの連想ゲームの終着点に、エイノがいた。
美しい銀髪に、冷めた目つきに見える灰の瞳。石膏像のように整った顔立ち。
全体的に白いエイノは、少し雪原から来たという真っ白な犬に似ている。
戦地で辛い思いをして帰ってきたらしいエイノをどう思うのかと聞かれれば、それはちょうど、小さい白い犬に向ける感情と似ていた。
「……白い、フワフワの」
「うん?」
「犬が好きなんですが」
「前にも言っていたな」
「エイノ様は……あの子にちょっと似ています」
口走った直後に、やらかしたことを直感した。
エイノがお喋りをピタリとやめてしまった。『だから何だ』と思われたに違いない。ヘルジュは恥ずかしくて真っ赤になった。
「いえその、あの、なんと言ったらいいのか、エイノ様をどう思うかと言われると、そんな感想になってしまって」
エイノは別に怒っている風ではなかった。ただし、嬉しそうにも見えない。
「失礼でしたらすみません……」
エイノが聞きたかったのはそういうことではない気がして、ヘルジュは自己嫌悪に陥った。
エイノは自分の髪に手をやった。銀髪の一房を弄ぶ。
「白が好きなのか?」
「え……と……そうなんでしょうか……?」
「いや、お前のことだろう? なぜ自信がなさそうなんだ?」
「うぅ……あんまり、好き嫌いを考えたことがなくて……」
エイノは一向に要領を得ないヘルジュの話に、何か悟ったらしい。
「そうか。それなら、これからたくさん考えてもらおう。……とりあえず、帰ろうか」
諦めて、会話を切り上げてくれた。
よかった、とヘルジュはこっそり息を吐く。エイノと一緒にいるといつも息を詰めている気がする。もう少しヘルジュが社交性のある性格だったらこんなにぎこちないやりとりばかりでエイノを困らせることもないのだろうかと思うと、申し訳なくなってくるのだった。