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「あとで探して届けさせましょうか?」
「いかん、いかん! あの彫り物は素晴らしいものだからな、メイドのポケットに入ったら二度と出てこなくなっちまうだろうよ」
「仕方がありませんね」
エイノは笑って立ち上がった。
部屋から出ていったのを、足音の遠ざかり具合で確認してから、ドクターがヘルジュに向き直る。
「ところで奥様、ちとおたずねしたいことがありますが。スレースヴィ公爵は普段どのように過ごしておられますか? 以前とは人が変わったようで、驚いてはおられませんかな?」
ヘルジュはドキリとした。
それはずっと不思議に思っていたことだったのだ。
「……はい。旦那様は、以前とは別人のようです」
「やはりそうか……あなたをひどく打擲するようなことはありますか?」
ヘルジュは目を丸くした。
「い、いえ、まったくそのようなことは……」
「隠すことはない。戦争で神経をやられると、優しかった人物が暴力的になるなどという事例は数え切れないくらいある」
「ほ、本当に、エイノ様は一切わたくしに手をあげたりなどなさいません……」
信じて欲しかったが、ヘルジュには証拠となるようなものなど出せない。
「強引に夫婦の生活を強要するようなことも?」
「ありません! 旦那様は……その……まだ一度も……」
ヘルジュは恥を忍んでそう言い、そして別にそこまで言わなくてよかったと途中で気づいて言い淀んだ。
「旦那様は確かにお変わりになりましたが、それは決して悪い意味ではなく……以前は、まったく感情の読めない方で、私にも関心がおありではなかったのに、お戻りになってからはとても……あ、愛情深くなったように見えて……」
自分で自分に向けられる感情を『愛』だなどと形容するのは羞恥もはなはだしいことだったが、そうとしか言いようがなかった。
「と、とにかく、以前とご様子が違うことに、私も戸惑っておりました」
「彼の変化は、戦争中から始まっていましてね。慎重に経過を観察している最中なんですよ」
ヘルジュはぼんやりと、『戦争で神経をやられた』と彼自身が言っていたことを思い出した。
「彼は自分の変化について、何か言っていませんでしたか?」
ヘルジュは記憶を辿り、覚えている限りのことを話した。
「なるほど、タガがねぇ」
「あの……結局旦那様は、どういったご病気なのでしょうか?」
病状は悪いものなのだろうか。ヘルジュには神経のことなど何も分からないので、不安が募る。
ところがドクターは気軽に笑い飛ばした。
「何、そんなに深刻なものではありませんよ。年寄りは涙もろくなるという話を聞いたことがありますかな? 人間は理性で感情を制御しているものなんですが、スレースヴィ公爵は、人一倍その傾向が強いお方だった。『タガが外れた』というのはあながち比喩ではなく、強いストレスに晒されながらも無理に抑えつけていた弊害で、脳の機能が傷んでしまったのでしょう。今の彼は、涙もろくなった年寄りや、多感な子どものようなものですよ」
(涙もろくなったお年寄りや、多感な子ども……確かにそうかもしれません)
突然泣き出したかと思えば、ヘルジュを手放しで猫かわいがりするエイノの様子には、その比喩がピタリとハマる。
「彼が心を癒やし、元の強靱な理性を取り戻すには、ケアを必要としているわけです。奥様、あなたにかかっているんですよ」
「わ……私に……?」
「彼は心に大きなけがを負っていますから、看護師が必要なんです。どうか奥様がスレースヴィ公爵を支えてやってください。そうすれば彼はきっとまた元のすばらしい自制心を取り戻すことでしょう」
「はい」
ヘルジュはうなずきつつ、少し寂しかった。
(時間が経てば、『氷の騎士団長様』に戻ってしまうのですね)
今の彼に可愛らしさや親しみを感じていたヘルジュには、あまりうれしくない事実だ。
しかし、それが彼本来の健康な姿だというのなら、このままでいてほしいなどというのはヘルジュのワガママなのだろう。
ヘルジュはしょせん儀式の間に合わせ要員。
彼の不調で、もう少しだけ必要としてもらえることをラッキーだと思おう。
(もしも以前のように冷静な判断力が戻ってきたら、私は年金などもらえずに、修道院にまた戻されてしまうかもしれませんが)
ヘルジュは元から何事にも期待しないように心がけていたので、それほどショックは感じない。修道院入りを先延ばしにしてもらえるだけでもありがたいと思うことにした。
お互いに利益のあることなのだから、割り切って妻としての務めを果たそう。ヘルジュはそう決意した。
「私でお役に立てるなら、精一杯、旦那様をお支えいたします」
ヘルジュの宣言に、ドクターはホッとしたように喜んでくれた。
「よかった。また経過を見にまいりますから、そのときにでもまたお話をお聞かせください」
「はい」
そのときちょうどエイノが戻ってきたので、ドクターとの秘密の打ち合わせはお開きとなったのだった。
ドクターが帰っていったあと、エイノは邪魔者がいなくなったと判断したのか、遠慮なくヘルジュを手招きして、ソファで横抱きにした。
「昨日は宮中舞踏会で大変だったろう。朝まで帰れなかったから、疲れたんじゃないか? ずっと眠そうな目をしてた」
「そ、それは、王の御前で、失礼を……」
「心配ない。一生懸命話を聞こうと耳をすませていたことは、みんな分かっている」
そうは言っても、眠そうなのがバレていたのなら、決していい印象は与えなかっただろう。
(次は、お昼に少し休憩しておいて、体力が尽きないようにしなければ……)
「次は晩餐会が三つと、正装の舞踏会が三つ、内輪のカジュアルな舞踏会が四つ」
「そ、そんなに……!?」
「ドレスをもっと作らないとならないな。いやしかし、昨日の明るい灰色のドレスはよかった。デビュタントのように初々しく、カッティングは大人びて色気があった」
エイノが褒めちぎりながら頬にキスなどくれるものだから、ヘルジュは照れくさくてならなかった。
「昨日のパーティでなにか気になるドレスはあったか? あればそれに似たのを作らせようか」
「え……と……」
昨日のパーティはとにかくキラキラしていて、目に優しくなかったため、個々の印象はぼやけている。
「どれ……ということはありませんが……」
「そうか? 私の好みで言うと……ああ、レイン伯爵のところのご令嬢は可愛らしいピンクのドレスを着ていたな。あれはヘルジュにも似合うだろう」
ヘルジュはエイノがリボンとフリル満載のベビーピンクのお姫様ドレスに目を奪われていたことに気づいていたが、似合うと言われて面食らった。
ヘルジュはもう十八になるのだ。いくらなんでも子どもっぽすぎるのではないかと思ったが、確かに、あまり大人びて見える容姿ではない。大人の女性が着るような、身体の線を見せるドレスよりはそちらの方がまだマシに映るだろう。
しかし、昔から無口で大人しい性格だったため、あのように陽気な服は気持ちの面で不向きだと感じた。服が体現するような無邪気で可愛らしい人柄を期待して接してきた人は、中身とのギャップにがっかりするかもしれない。そうなっては申し訳ないので、ヘルジュはなるべく自分の身の丈にあった服を着ようと考えた。