61 終幕
「うぉぉぉっ……!」
激しい痛みに襲われ、ゲンは刺された脇腹を押さえてその場にうずくまった。指の間から多量の鮮血があふれ出し、床を朱に染めていた。
「おじさん、私言ったよね? この鬼ごっこを考えた人を絶対に許さないって……。総理大臣だろうと誰だろうと、絶対に許さないって……」
血で濡れたナイフを構え、エリカは怒りに満ちた目でゲンを睨みつけてくる。
会場内ではオニとオニ、子と子の争いは禁止されているはずだ。すぐにドローンが飛んできて止めに入ってもおかしくないが、今は全く反応がない。クロサキがいなくなった余波で、指揮系統がうまく機能していないのかもしれない。
「おじさんは私を何度も助けてくれた。私を全力で守ってくれた。だから、私は今こうして生きていられる。それについては本当にありがとうって気持ちしかないわ。でも……」
エリカはそこで言葉を切り、一呼吸置いてさらに続けた。
「私はおじさんが憎い! 心の底から憎い! おじさんのせいでアキナが死んだ! おじさんは私からアキナを奪った! 許せない! 絶対に許せない!!」
エリカはまるで人が変わったかのように、鬼のような形相でゲンに恨み言をぶつけてくる。ナイフを持つ手が震えているのも、激しい怒りのせいだろう。
「おじさんさえいなければ、アキナは死ななかった……! おじさんさえいなければ、私もこんな悲しい気持ちにはならなかった……! おじさんさえいなければ……! おじさんさえいなければ……! おじさんさえいなければ……!」
エリカの憎しみに満ちた言葉の一つ一つが、悶え苦しむゲンの胸に強く突き刺さる。言葉の刃は、刺されたナイフ以上に痛く感じられた。
「おじさんなんか、この世からいなくなればいいのよ……! だから私が、おじさんを殺す……! アキナのために……! サトミさんや他のみんなのために……! きっとみんな喜んでくれると思う……! だから、おじさん……」
エリカはゲンとの距離を詰め、腕を振り上げた。
「お願い、死んで……!」
エリカがナイフを振り下ろそうとしたその時だった。
「……エリカ、やめて。落ち着いて」
どこからともなく女の声がした。アキナの声だと、ゲンは聞いた瞬間にわかった。
「アキナ……? アキナ……!?」
エリカは手を止め、不思議そうにあたりを見回している。
「エリカ、落ち着いて。この人をこれ以上傷つけないで」
突然、ゲンのすぐ目の前に人が現れた。ゲンをかばうかのように両手を大きく広げたその人物は、オニが着ているのと同じ赤いジャージ姿だった。それが生身の人間でないことは、その透けた体を見ればすぐにわかった。
「アキナ……! どうして……?」
エリカの顔に驚きが広がる。
「どうして私の邪魔をするの……? どうして私を止めるの……? アキナはそのおじさんが憎くないの……? そのおじさんのせいで、アキナは死んだのよ……?」
「エリカ、よく聞いて。この人がいなかったら、わたしたちは生まれてないの。こうして出会えてないのよ。わかる?」
アキナは諭すような口調でエリカに語りかける。
「それはわかる……。わかるけど……」
「わたしはこの人にすごく感謝してるわ。この人のおかげで、わたしたちは出会えた。仲良くなれた。この人を憎む理由なんて、わたしには全然ないわ。ねぇ、違う?」
「アキナはそうかもしれないけど……。でも、私は……」
「エリカと一緒にいられて、わたしはすごく楽しかったわ。お茶したり映画観たりカラオケしたり街ブラしたり、毎日が本当に楽しかった。エリカはどう?」
「私もすごく楽しかった……。アキナと仲良くなれて、本当によかった……。アキナと過ごした時間は、私の一生の宝物よ……」
落ち着いた声で言葉を紡ぐアキナと対照的に、エリカは涙声に変わっていた。
「わたしも同じよ。エリカと出会えて、本当によかったわ。エリカ、わたしと友達になってくれて、本当にありがとう」
「私こそありがとう、アキナ……。本当に本当にありがとう……」
「エリカ、お礼を言う相手はわたしじゃなくて、この人なのよ。全部この人のおかげなのよ。だから、お願い。もうやめてあげて」
「でも……、でも……」
「エリカ、さっきの言葉は嘘なの? その涙も嘘なの? 嘘じゃないなら、この人を許してあげて。もうこれ以上傷つけないであげて」
「……」
エリカは無言ですすり泣いている。床に落ちたナイフの音が、その答えを代弁していた。
「エリカ、ありがとう。わかってくれて嬉しいわ。エリカならきっとわかってくれると信じてたわ。だって、わたしの友達だもん」
「アキナ……」
「エリカ、これからもずっと友達でいてね。エリカ、大好きだよ」
「アキナ、私もよ……。私も大好きよ……」
「ありがとう。最後にこうして話ができてよかったわ。エリカ、じゃあね」
アキナはそう言い残すと、現れたときと同じように突然消えた。
「アキナ!? アキナァァァァァ!!」
エリカは泣き崩れた。
ゲンは朱に染まった床に身を横たえ、ぼんやりと宙を見つめていた。痛みも出血も全く止まらない。エリカにとどめを刺されるのは免れたが、このままでは行き着く先は一つしかない。
「おじさん……、大丈夫!?」
耳元でエリカの声がした。涙声だ。
「心配いらねーよ……。ただの致命傷だ……」
ゲンは弱々しく呟いた。大量の出血により、もう自分は長くないことを悟っていた。意識がだんだんと遠くなっていくのを感じていた。
「致命傷って、そんな……! ごめんなさい……。私……。私……」
「気にすんじゃねーよ……。オレがオマエの立場なら、たぶん同じことしてただろーさ……。オマエは悪くねー……」
「おじさん……。おじさん……」
「オレを刺したのがオマエでよかったぜ……。主人公に刺されて死ねりゃ本望じゃねーか……」
ゲンは口元にかすかな笑みを浮かべた。
この世界に来て、常に敵にやられる危険性と隣り合わせだった。数々の戦いの中で、幾度となく命の危険に直面した。
ケイムからはいずれ全滅すると宣告されている。敵の攻撃を受けて壮絶な最期を遂げるのだとずっと思っていた。まさか主人公に刺されるとは思ってもみなかった。しかも、勇者でも戦士でも魔法使いでもなく、ただの女子高生にやられるとは予想だにしていなかった。ゲンにとっては嬉しい誤算だったかもしれない。
「おじさん……! おじさん……! しっかりして……! 死なないで……!」
エリカの悲痛な叫びが響く。
「エリカ……。オレはどーやらここまでみてーだ……。あとは――」
「……君、大丈夫か!? 早くこれを飲むんだ!」
突然聞こえてきたその声に、ゲンは聞き覚えがあった。最年長の男だ。
ゲンは口の中に何かを入れられたような気がした。その直後、嘘のように痛みが消え、出血が止まり、傷口もふさがった。体力も回復し、全身に力が漲ってきた。
瀕死だったゲンは、なぜか一瞬で全回復していた。
「すまねーな。おかげで助かったぜ」
「礼には及ばない。私も靴の時に君に助けられた。あの靴のままだったら、私も捕まっていただろう」
ゲンが頭を下げると、男は軽く手を上げて答えた。
男の話によると、ゴールの手前まで進んでいたが、突然壁に行く手をふさがれ、やむなく引き返したという。その後も特定の方向にしか行くことができず、それに従って進んでいった結果、この部屋に着いた。クロサキの部下たちが、壁を使って男をここへ導いたのだろう。
ゲンに飲ませたのは赤と青の錠剤で、どちらもオニの所持品だ。落としたものを拾ったという。拾ったのは2錠ずつだが、1錠は男が既に服用しており、残った1錠をゲンに飲ませたのだ。
逃げているときにオニが壁に激突して重傷を負う現場を目撃し、男はそこで錠剤の効果を知った。赤は体力を一瞬で全回復させ、青はどんな傷でも瞬時に完治させる。まさに奇跡の錠剤としか言いようがなかった。
「傷が一瞬で完治とかすげーな。チートもいーとこじゃねーか」
ゲンは刺された脇腹を触ってみるが、やはり痛みは全くない。全身が血まみれになっている以外は、刺される前と何も変わらなかった。
オニだけが持つ特殊な錠剤は原作にも登場するが、体力が全回復する赤いほうだけだ。どんな傷も完治する青い錠剤は、この世界にしか存在しない。
この2つの錠剤を持ったオニにずっと追いかけられていたことに、ゲンは改めて恐怖を感じた。疲労や負傷をものともしないオニたちから逃げ切るのは、まさに至難の業だっただろう。
「……さて、君に借りは返した。私はこれで失礼する。またゴールで会おう」
男は踵を返して走りだした。が、すぐに立ち止まった。
「どーした? まだ何かあんのか?」
「……お嬢ちゃん、私と一緒に来なくて大丈夫なのかい?」
男が話しかけたのは、ゲンではなくエリカだった。
「……え?」
エリカには男の意図がわかりかねているようだ。
「私には、乱暴されそうになったお嬢ちゃんが抵抗して、彼を刺したようにしか見えないのだ。だが、私は何も考えずに彼を回復させてしまった。そのせいでまたお嬢ちゃんが危険な目に遭わないか心配なのだよ」
男の蔑むような視線がゲンを貫く。刺された中年男と泣く女子高生。この状況だけを見れば、そういう解釈ができなくもないだろう。
「ちょっと待て……! そんなわけ――!」
「私もそう思う。また襲われたら怖いわ」
エリカはいたずらっぽく笑った。
部屋を出ると、外は完全な一本道だった。会場の奥に向かって、通路がただ真っ直ぐに伸びているだけだ。もはや迷路ではなくなっていた。クロサキの部下たちが、わざと壁をそういう配置にしているのだろう。このままゲンたちをゴールまで導いてくれるつもりのようだ。
会場内にオニはまだ残っているはずだが、通路上にその姿は見えない。ゲンたちが捕まらないように、壁で守ってくれているのかもしれない。
3人は黙々と走っている。2人ではなく3人なのは、エリカの冗談を真に受け、男も同行しているからに他ならない。男の鋭い視線がずっとゲンに突き刺さっている。
男はヒロシと名乗った。独身だが離婚歴があり、エリカと同年代の娘がいるが、先妻に引き取られていてたまにしか会えないという。エリカと娘を重ねているのかもしれない。
ゴールという文字がうっすらと書かれた壁が見える。もうすぐ目的地だ。命を賭けた残酷な鬼ごっこは、今まさに終わりを迎えようとしていた。
だが、ゲンは知っている。原作どおりなら、着いただけではゴールにならないことを。最後の挑戦が待っており、失敗すれば即ゲームオーバーだということを。
そして、ゲンたちはゴールの部屋に飛び込んだ。




