57 警報
突如として鳴り響く警報音。すべてのオニの耳に届いているだろう。居場所を知られてしまったが、ゲンは全く動じない。解除する方法は知っている。
首に付けられた輪を左手で触る。ちょうど首の後ろに、細長い穴が開いていた。人差し指でその穴を押さえながら、右手でポケットからカードキーを取り出す。念のために再度場所を確認して、穴にカードキーを差し込んだ。
「……ど-ゆーことだ!?」
原作ならそれで止まるはずの警報音が、なおも鳴り続けていた。差し込む角度や速さを変えて何度も試してみるが、一向に鳴りやむ気配はない。
「ちくしょー……!」
通路の奥からオニが走ってくるのが見えた。小太りの男だ。その男には一度追いかけられたことがある。ゲンよりも足が遅かった。逃げ切れない相手ではないだろう。
すぐに方向を転換する。が、その先からも別のオニが迫ってきていた。女だ。束ねた茶色い髪が、頭の後ろで揺れている。このオニも警報音を聞きつけてやってきたのだろう。
すかさず別の道に飛び込もうとしたが、突然現れた壁に行く手を阻まれた。ゲンは小さく舌打ちすると、躊躇なく小太りの男に向かって全力で駆け出した。
オニを攻撃するわけではもちろんない。途中にある横道に飛び込むためだ。そこしか道はなかった。
ギリギリ間に合った。飛び込んだと同時に、背後に壁が出現した。一瞬でも遅ければ、退路を断たれて小太りの男に捕まっていただろう。
警報はまだ鳴っている。ゲンはなおも走る。早くこの場から去る必要があった。背後の壁が唐突に消えない保証はない。
「どーにか逃げ切ったみてーだな……」
やがて警報が鳴りやみ、ゲンは立ち止まって息を整える。鳴っていたのは15秒間のはずだが、ゲンにはその何倍も長く感じられた。今後はさらに鳴る時間が伸びていく。想像しただけで気が重くなる。
軽い靴に履き替えたからといって、安心はできない。走りやすくなるだけで、逃げやすくなるわけではないのだ。当然、次の妨害が待っている。
床が磁石と化している間、重い靴を履いていると両足が動かなくなるが、履いていないと首輪から警報が鳴る仕掛けになっている。
警報が鳴っている間は、オニに最優先で狙われる。また、周囲の壁の動きが活発になり、絶えず出現と消滅が繰り返され、逃げるのを邪魔される。時と場合によっては、重い靴よりも軽い靴のほうが捕まる可能性が高くなるかもしれない。
警報の解除に必要なのがカードキーだ。解除すれば、以後は鳴らなくなる。ただ、鳴っているときしか解除できないため、必ず一度は警報の洗礼を受けることになる。
「……なるほど、そーゆーことか」
カードキーを見て、ゲンは思わず呟いた。どうして警報が解除できなかったか、その理由がわかった。
表面に小さく文字が刻まれていた。数字の6と、そのすぐ右に記号の×が並んでいる。6が×、つまり6番の解除はできないという意味だろう。ゲンのゼッケンは6番。そのせいで警報が解除できなかったに違いない。
6番の解除ができないカードキーが、6番に渡される。それはすなわち、自分だけではどうすることもできないという意味だ。少なくとももう一人、カードキーを持つ子がいなければならない。入手方法こそ違うが、自分専用のカードキーが手に入る原作とは明らかに異なる展開だった。
頼みの綱はエリカだ。合流できれば、お互いの警報を解除することができるだろう。そのためにも、早くエリカに靴を履き替えてもらわなければならない。だが、今どこにいるのか全くわからない。ゲンには無事を祈ることしかできなかった。
「……おい、そこの君!」
背後から声をかけられ、ゲンは慌てて振り向いた。オニを振り切ったと思って完全に油断していて、人の存在に全く気づかなかった。
そこにいたのは、ゼッケン3番を付けた最年長の男だった。その場で駆け足をしている。これがもしオニだったなら、ゲンは確実に捕まっていただろう。
「オレより年食ってんのに、まだ生き残ってるなんてすげーな……」
思わず本音が飛び出した。男はゲンより一回りほど上、還暦前後に見える。正直、早々に脱落すると思っていた。
「こう見えても私は走るのが趣味で、フルマラソンを何度も完走している。この程度の追いかけっこなら余裕だ」
男の言葉が嘘でないことは、その表情が証明していた。息一つ乱れておらず、疲労の色は全く見えなかった。
「だが、この重い靴だとさすがに苦しい。君はどこでその靴に履き替えたんだ? 私にも教えてくれないか?」
男はゲンの足元を指差して言った。
「……そういうことだったのか。さっき天井の数字を見つけて、何なのか気になっていたところだ。私は3を目指せばいいわけか。確かあのあたりだったな」
話を聞き終わると、男は天井の一部分を指差した。ここからは少し離れているが、走り慣れた男には苦もない距離であるように見える。
ゲンは要点を手短に男に話した。天井の数字や床のスイッチはもちろん、警報やカードキーのことも忘れない。警報の解除要員は多いに越したことはない。エリカに万が一のことがあれば、この男に頼らざるを得なくなるだろう。
「情報、感謝する。生きていたらまた会おう」
男は軽く頭を下げると、ゲンに背を向けて走り始めた。ゲンよりもはるかに速い。男が履いているのは重い靴のはずだが、それを感じさせないような足取りだった。
――ピッ、ピッ、ピッ。
再び流れる時報。ゲンも走り出した。
――ピピピピピピ! ピピピピピピ! ピピピピピピ!
ゲンの首輪から鳴り響く警報音に反応して、オニが迫ってくるのが見えた。先ほどの小太りの男だ。相変わらず足は遅いが、疲れた様子は全く見られない。ただただ執拗にゲンを追いかけてくる。
子を捕まえたオニは退場というルール上、終盤には足の遅いオニしか残らないことも珍しくない。だが、オニには無尽蔵ともいえる体力がある。飲めば一瞬で疲れが消えて体力がみなぎるという特殊な錠剤を、オニたちは複数所持しているはずだ。尽きることのない体力を武器に、遅いながらも着実に子を追い詰めていく。
――ピッピッピー! ピッピッピー! ピッピッピー!
明らかにゲンのものとは異なる警報音が、どこからか聞こえてきた。原作と同じなら、警報の音色はランダムに決められ、一人一人異なる。他の誰かが靴を履き替えることに成功したのだろう。エリカだろうか。さっき別れたばかりの男は、まだ数字に到達できていないはずだ。
「エリカか……? とりあえず4のとこまで行かねーと!」
どうにかオニをかわしながら、ゲンは数字の4がある地点を目指して進む。天井に今浮かんでいるのは奇数だ。記憶を頼りに進むしかなかった。
「……エリカ!」
「おじさん!」
エリカを見つけた。4の真下ではなかったが、すぐ近くだ。2人の顔に笑顔が広がる。
「無事に靴を履き替えられたみてーだな」
エリカの足には確かに白いスニーカーが履かれていた。
「でも、今度はこの輪から大きな音が出るの。ずっとオニに追いかけられて、もう少しで捕まるところだったわ」
エリカは首輪を触りながら、怯えたような表情を浮かべた。どれほどの恐怖を感じたかは、その顔を見ればすぐにわかった。
「靴の中にこれが入ってたんじゃねーか? これがありゃ、あの音を止められそーだぜ」
ゲンはエリカにカードキーを見せた。
警報が鳴り始めたと同時に、ゲンとエリカは自分の首輪の穴にカードキーを差し込んだ。お互いのものを交換しているため、自分に使っても問題なかった。警報はすぐに止まった。
「よかった。止まったみたい」
「これでひとまず安心だな。……お?」
――ピピピピ! ピピピピ! ピピピピ!
どこかで警報音が鳴り響いている。ゲンやエリカではもちろんない。既に解除済みだ。2人以外に、靴の交換に成功した子がいるのだ。先ほどの最年長の男だろうか。
「あれはたぶんサトミさんだと思う。途中ですれ違ったから、天井の数字のことを教えてあげたのよ。うまくいったみたいで、よかったわ」
エリカは安心したように胸をなで下ろした。
スタート前に地図を見ながら言葉を交わしていた女が、サトミだという。ゲンとの別行動中に声をかけられ、エリカは少しだけ行動を共にしていた。そのときに天井の数字のことをサトミに教えたと、エリカは言う。
サトミのゼッケンは、確か8番だったはずだ。8番なら偶数の中では一番手前に浮かび上がっていた。ちょうど警報音が聞こえてくる方向と一致する。
「私、サトミさんを助けて来る! このカードキーがあれば、あの警報を止められるんでしょ?」
「待て、エリカ! よく見ろ! このカードキーはもー使えねーぞ!」
駆け出そうとするエリカを、ゲンが制した。自分のカードキーをエリカに突き出す。先端部分の磁気ストライプに、穴がいくつも開いている。
解除前にはもちろんなかった。解除と引き換えに開けられたのだろう。これではもう使えない。このカードキーは、一度しか使えない設定になっているようだ。
「そんな……! それじゃ、サトミさんはずっとあのままなの……?」
「エリカ、もちつけ。オレもさっきゼッケン3番の男に、靴の場所とカードキーのことを教えた。フルマラソンを何度も完走したと言ってたから、あの男ならやってくれんじゃねーか?」
泣きそうなエリカを落ち着かせる。ゲンたちではサトミを助けることはできない。最年長の男がカードキーを手に入れるのに期待するしかなかった。
「フルマラソン完走ってすごいわ。その人なら――」
「エリカ、危ねー!」
ゲンはエリカを押しのけるように突き飛ばした。背後の壁が音もなく消え、そこに現れたオニがエリカに手を伸ばしたのが見えたのだ。
急いで自分も身を翻そうとしたが、間に合わなかった。
次の瞬間、ゲンはオニに捕まった。周囲に壁が出現し、四方を取り囲まれたのはその直後だ。
ゲンは完全に包囲された。狭い空間に、オニとともに閉じ込められた、もう逃げることはできない。




