55 足止め
ゲンの足取りは鈍い。履かされているスニーカーは重く、かなり走りにくかった。決して速いとは言えないゲンの走りが、さらに遅くなっていた。オニと同時スタートだったとしたら、既に捕まっているかもしれない。
その重さの原因を、ゲンはもちろん知っている。靴底全体に鉄の板が埋め込まれているのだ。逃走を妨害する目的であるのは言うまでもない。
通路の幅は2メートルほど。床は白く、ピカピカに磨き上げられている。両端には高さ3メートルほどの、間仕切りのような壁がそびえる。手足をかけられるような隙間や突起は一切なく、よじ登るのは現実的ではないだろう。
ゲンの視線の先では、ゼッケン10番の背中が見え隠れしていた。ゲンはエリカの後を走っていた。エリカは背後を振り返ることもなく、ただひたすら走っている。若いだけあって体力があり、ゲンよりも速かった。
スタートの直後、ゲンは4つ並んだ扉の一番左を選んだ。エリカがそこから飛び出していくのが見えたからだ。微々たる差とはいえ、その扉がゴールから見て最も離れた位置にあるからか、2人以外に選んだ者はいないようだ。
スタート地点の4つの扉は、どこを選んでも大差はなかったはずだ。その先にある通路の長さや形、分岐の数などが違うが、誤差の範囲にすぎない。迷路としての難易度も同程度だ。最初の選択で明暗が大きく分かれることはないだろう。
頭の中でずっと数えていたが、もうすぐゲンたちがスタートして30秒になる。30秒たつとオニが動き始める。そして、オニに捕まると殺されてしまう。
原作では、オニは合法的に人を殺せるという政府主催のイベントに自ら応募してきた者たちだ。殺人に対する願望や興味を有することが唯一の参加条件で、年齢や性別などは一切問われない。銃殺、刺殺、撲殺、絞殺など、希望する殺し方を事前に申告しており、捕まえた子をその方法で殺すことができる。
思いどおりに人を殺すことで、オニは大きな喜びや快感、満足感などを得られる。それらを特殊な装置で脳の奥深くに焼き付けることで、二度と殺意を抱くことはないという。
「30秒たったの。今からオニがスタートするの」
「さあ、てめえら! しっかり逃げるんだぜ!」
天井からヒトミとゴクウの声が降ってきた。30秒が経過し、オニたちが動き出したことを告げる。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
直後に聞こえる悲鳴。スタート地点だったあの部屋の方向からだ。早くも誰かがオニに捕まったのかもしれない。
スタート直前の首相の話に大きな衝撃を受け、狂ったように泣き叫んでいた女がいたような気がする。ゼッケンは13番だっただろうか。誰もが慌てふためいて逃げていく中、その女だけは呆然と立ち尽くしていた。手を貸す者はいなかった。ずっとあのままだったのなら、確実に捕まるだろう。
次に同じ方向から聞こえてきたのは、銃声だった。立て続けに3発。銃殺を希望したオニが、捕まえた子を撃ったとしか考えられなかった。
なお、オニが希望した凶器は、子を捕まえた後に渡される設定だったはずだ。持ったまま子を追いかけるわけではない。遠くから銃で撃たれたりする心配はないと言っていいだろう。
場内に響き渡る銃声に、あちこちからけたたましい悲鳴や絶叫が聞こえた。大声を出すとオニに居場所を知られかねないが、恐怖で気が動転しているのか、ずっと叫び続けている者もいた。
近くからも怯えたような小さな叫び声が聞こえてきた。エリカの声だった。見渡せる範囲にはエリカはいない。おそらく壁の向こうだ。
ゲンは叫ぶことも立ち止まることもなく、そのまま走り続けた。
――ピッ、ピッ、ピッ。
突然会場に流れたのは、時報のような電子音だった。その意味を知っているゲンは、鳴り始めたと同時に立ち止まった。すぐに背後を確認する。まだオニが近づいている気配はなかった。
「……止まれ!!」
無意識のうちに声が出ていた。先を進んでいるであろうエリカに注意を促した。オニにも聞かれたかもしれないが、気にしている場合ではなかった。
――ピーン!
その音と同時に、ゲンの両足は動かなくなった。強い力で靴底が床に張り付き、全く動かすことができなかった。
「うわっ!」
「きゃっ!」
遠くからいくつかの悲鳴が聞こえた。逃げている最中に両足が突然床に固定され、転倒したのだろう。負傷した者もいるかもしれない。怪我の程度によっては、逃げるのはさらに困難になる。
「ぎゃぁぁぁぁ! 痛い痛い痛い!! 腕が! 足が!」
どこからか男の絶叫が聞こえてきた。焦って誰かが靴を脱ごうとしたのだと、ゲンにはすぐわかった。
「その床は、1分ごとに磁石になるの。靴に鉄の板が入ってるから、床にくっついちゃうの。最初は10秒だけど、少しずつ長くなってくの」
「てめえら、その靴を無理に脱ごうとすると危ねぇぜ! この会場のどこかで別の靴に履き替えられるから、探してみな!」
ヒトミとゴクウの声が会場に響き渡る。
これが靴底に鉄板が埋められている真の理由だ。会場の床は、1分ごとに一定時間、強力な磁石と化す。その間は子は動けず、足止めを余儀なくされる。最初は10秒間だが、以降は1秒ずつ長くなる。
一方のオニたちは、全員が軽くて走りやすい靴を履いており、磁石の影響は受けない。30秒遅れでスタートしても、単純計算で3分後には子に追いつくことができる。
無理に脱ごうとするのは危険だ。手首足首に付けられた金属製の輪に、強い力で締め付けられる。もちろん不可逆だ。一度締め付けられると、ずっとその痛みに耐え続けなければならない。
ゴクウの言うとおり、軽い靴に履き替えられる場所が会場のどこかに存在するが、地図には書かれておらず、自分で見つけ出すしかない。
その場所がどこか、作者であるゲンはもちろん知っている。正確に言えば、その場所を示す目印がどこにあるかを知っている。
ゲンは天井を見上げた。いくつものカメラが吊り下がっている。ゲンが今こうして天井を見上げている姿も、どれかのカメラに映っているはずだ。もちろん、エリカたちも例外ではない。
原作と同じなら、この鬼ごっこの様子は同時中継されており、政府が招いた各国の要人や富豪、著名人たちが観戦しているだろう。1口100万円という破格で、賭けも行われているはずだ。
なお、その賭けは子がゴールする順番を当てるのではない。長く生き延びる順、死ぬのが遅い順を当てるのだ。任意の会場における子の順位を予想するのが基本だが、子の全滅が遅い会場やゼッケン番号に賭けることもできる。これがゲンたちが付けるゼッケンの意味と、すべての会場で同時にスタートする理由だ。
床が磁力を失い、両足が自由を取り戻したと同時に、ゲンは再び走り出した。10秒という短い時間だったが、ゲンには何倍にも長く感じられた。オニに見つからないかと、気が気でなかった。
今後は拘束時間が1秒ずつ延びていく。早く靴を履き替えなければ、ゲンの脚力と体力では長時間逃げ続けるのは無理だろう。もっとも、軽い靴に履き替えたところで、逃げ切れる保証はどこにもなかった。
突き当たりを曲がると、その先でゼッケン10番が立ち止まっているのが見えた。
「どうしよう……。地図と違う……」
地図を片手に、エリカは戸惑っているようだ。不安そうに左右を見回している。
「オレたちを殺そーとしてる連中が作った地図なんか、信じねーほーがいーぞ」
ゲンの声にエリカが振り返る。ぱっちりとした大きな目が、真っすぐゲンに向けられた。
「その声……、さっき止まれって言ってくれたのもおじさん? おかげで助かったわ。止まってなかったら、きっと転んでたと思う」
エリカの口元にわずかに笑みが浮かんだ。
「嫌な予感がしたんだよ。あーゆー音がしたら、大抵はろくなことが起きねーからな」
作者であることは明かさず、ゲンは適当な理由をつけてごまかした。
「とにかく、その地図は見るな。どー考えても、当てになるわけねーぞ」
ゲンの言葉に、エリカは小さく頷いた。
ゲンはエリカと並んで走っていた。エリカがゲンの速さに合わせているのは言うまでもない。
名前だけの簡単な自己紹介の後、エリカのほうから同行を申し出た。この絶望的な状況にも動じることなく冷静な判断ができるゲンに、頼もしさを覚えたからだという。ゲンにも断る理由はなかった。そのためにエリカを追いかけていたのだ。
エリカについて行けばゴールができるからではない。原作とは違う結末を迎えさせてやりたいのだ。
原作のエリカは、ゴールすることができない。その一部始終を知る作者として、せめてこの世界ではゴールさせてやりたかった。
「ぎゃあぁぁぁ!!」
どこからか断末魔のような絶叫が聞こえてきた。男の声だった。ゲンたちの近くではないようだ。また誰かが捕まったのかもしれない。
エリカは一瞬立ち止まりかけたが、またすぐに走り始めた。顔をしかめ、歯を食いしばり、叫び出したい気持ちを懸命に抑えているように見えた。隣で黙々と走り続けるゲンの存在も大きいだろう。
立ち止まっている暇などないことはよくわかっていた。いつどこでオニに見つかるかわからない。とにかく走り続ける以外に選択肢はなかった。
角を曲がると、こちらに向かって走ってくる人影が見えた。血のように赤いジャージを身に付け、ゴーグルをかけた男だった。一目で子ではないとわかる。子でなければ、オニだ。
男がスピードを上げた。見る見るうちに近づいてくる。
「あれがオニなの!?」
「逃げるぞ!」
ゲンたちが引き返そうとしたその時だ。
――ピッ、ピッ、ピッ。
再び会場に時報が響き渡った。




