54 真実
そこは、部屋というよりは区画と呼んだほうが正しい空間だった。巨大な施設の四隅のどこかを、パーテーション状のもので区切った場所のように見えた。
2方向は通常の壁だ。白い壁が天井まで続いている。天井も一様に白く、そして高い。10メートルはあるだろうか。
ゲンたちはこの壁の向こうからここにやって来たはずだが、その痕跡は全く見当たらなかった。
もう2方向は間仕切りのような白い壁だ。それぞれに2つ、合計で4つの扉が一定間隔で付いているが、今は固く閉じられていた。
壁の高さは3メートルほど。壁の上は何もない空間で、背後にはどこまでも続く天井が見える。天井の果ては見えない。ここがかなり広い場所であることを物語っていた。
部屋の中には、ゲンを含めて14人が集まっていた。年齢にも性別にも、その共通点は見いだせない。
ゲンより一回りほど上に見える、眼鏡をかけた白髪混じりの男がおそらく最年長だろう。次点がゲンと、同い年くらいの茶髪の女だろうか。
最年少は、中学生に見える小柄な少年で間違いないだろう。それ以外にも若い世代が目立つ。10代から30代らしき層が大半を占めていた。
共通しているのは服装だ。ゼッケン番号以外は誰もが同じだった。ゼッケンは全員がGで始まり、後の数字はもちろん全員異なる。原作と同じで、その付番に法則性はないように見えた。
1番は大学生風の茶髪の男、2番は30代に見える女、3番が最年長の男、と続き、最後の14番は20代っぽい長身の男だ。
ゲンが6番で、エリカらしき長い髪の少女が10番だ。近くにいる参加者と言葉を交わしているその声を聞く限り、彼女に間違いないだろう。
主人公を見かけたらすぐさま話しかけていたゲンも、今回だけは別だった。慎重に機会を窺っていた。ここでの言動も監視されているはずだ。
エリカ、17歳。未執筆の小説『逃亡中』の主人公である高校2年生だ。いじめを苦に自殺の名所と言われるビルの屋上から飛び降りるが、身柄を確保され、強制的に鬼ごっこに参加させられてしまう。
突然、部屋の隅で床が割れた。間仕切りのような壁に挟まれた一角だ。下からせり上がってきたのは巨大なモニターだった。心を落ち着かせる例の音が流れ始めると、CGで作られた2人のキャラクターが画面に映し出された。アイドル風の衣装を着たかわいらしい少女と、猿のような姿の毛むくじゃらの大男だ。
「みんな、こんにちはなの。私、ヒトミって言うの。よろしくなの」
「よう、俺様はゴクウだ! てめえら、よろしく頼むぜ!」
ヒトミとゴクウと名乗る2人の声に、全員の視線がモニターに注がれる。
2人とも原作には登場しない。ゲンが作り出したキャラクターではないが、声を聞いた瞬間にCVがわかった。小金井亮子と岩渕耕太じゃねーか、と心の中で呟く。
「ここは、地下に作られた巨大な鬼ごっこの会場なの。中は迷路みたいになってるの」
「いいか! てめえらはオニから逃げながら、一番奥を目指すんだ! そこがゴールだ! 無事にゴールできたら、地上に出られるぜ!」
その直後、モニターの右隣の床が割れ、下から小さな机が現れた。その上に紙が積み重なっている。
「それはこの会場の地図なの。ご自由にどうぞなの」
「その地図があれば、迷わずにすむぜ!」
参加者たちは我先にと机に駆け寄り、地図を手に取る。自分以外が取り終わるのを待って、ゲンは最後の1枚をつまみ上げた。
地図は、A4用紙の縦に印刷されていた。一番外の大きな長方形が、この会場全体を表しているのだろう。右下の隅には赤で囲まれた小さな正方形があり、赤文字でスタートと書かれている。おそらくここがこの部屋だ。
そこから通路が4本伸びており、その先は複雑に入り組んだ迷路になっている。印刷されている通路の1本1本はかなり細い。目だけで辿っていくのは容易ではない。
ところどころに正方形がある。ここと同じような部屋になっているのだろう。一番上の中央にある正方形は青で囲まれ、青文字でゴールと書かれている。ゲンたちはここまで逃げなければならない。
地図上では、ここからゴールまでは直線距離で数百メートルに見える。迷路になっているため、実際にはその何倍もの距離を逃げることになるだろう。
誰もが目を皿のようにして、地図とにらめっこをしていた。指で地図をなぞり、ゴールできる道順を見つけ出そうとしていた。
エリカも同じだ。8番のゼッケンを付けた、少し年上に見える女と言葉を交わしながら、地図に目を落としていた。
ゲンだけは違った。地図を見ているふりをしているだけで、内容などどうでもよかった。この地図が何の役にも立たないことが、ゲンにはわかっていたからだ。
この地図が間違っているわけではない。現時点の、今この瞬間の地図としては極めて正確なはずだ。ただ、ゲームが始まると正確ではなくなるということを、作者であるゲンはもちろん知っていた。
「ちなみに、会場はここ以外にもたくさんあるの。すべて同じ大きさなの」
「すべての会場で同時にスタートだ! てめえら、出遅れるんじゃねぇぜ!」
ゴクウの声が終わると同時に、部屋の対角の床が割れた。せり上がってきたのは、檻のように見える。だが、大部分が黒い布で覆われており、中の様子までは見えない。
「あの中にオニがいるの。捕まらないように逃げるの。でも、その前に決めないといけないことがあるの」
「てめえらを追いかけるオニの人数と、オニがてめえらの何秒後にスタートするかだ! じゃ、いくぜ!」
画面が切り替わり、宙に浮いた2つの立方体が映し出された。色は赤と青だ。サイコロのように、それぞれの面に文字が書かれている。宙に浮いたままゆっくりと縦や横に回転しており、すべての面の文字が見えた。
赤いほうは6面全部が「14人」、青いほうはすべて「30秒」だった。必ず同じ出目になる、振る意味が全くないサイコロだった。
子と同数のオニが、子の30秒後にスタートする。原作と同じ設定だ。ただ、原作ではサイコロは登場しない。
「そりゃ!」
ゴクウの声と同時に、画面の中で2つのサイコロが床に落ち、転がり、やがて止まる。出目は言わずもがなだ。
「オニの数はみんなと同じなの。誰かを捕まえたオニは退場するルールになってるから、人数で不利になることはないの。安心してなの」
「てめえらと同じで、オニも一般人だ! 全員足が速いわけじゃねぇ! でも、油断するんじゃねぇぜ!」
「オニが動き出すのは、みんながスタートした30秒後なの。それまでにできるだけ遠くに逃げてなの」
「おい、てめえら! 30秒なんてあっと言う間だから、気を抜くんじゃねぇぜ!」
ヒトミとゴクウのテンポよい掛け合いが続く。誰もがその内容に耳を傾けていた。
ゲンにとっては目新しい情報は何もなかった。すべて原作と同じ設定だった。
オニが捕まえられる子は1人だけだ。よって、オニと子は同数でなければならない。また、オニはある共通点により集められた一般市民だ。脚力や体力で選抜されたわけではない。
「じゃ、最後に、ある人からみんなにメッセージが届いてるの。今から紹介するの」
「いいか、てめえら! 耳の穴かっぽじって、よく聞きやがれ!」
次の瞬間、画面が切り替わり、眼鏡をかけたスーツ姿の男が映し出された。髪には少し白いものが混じっている。原作のとおりなら、これが時の首相のはずだ。
「みなさん、こんにちは。内閣総理大臣の川瀬義宗です。日頃は国政にご理解とご協力をいただき、まことにありがとうございます」
画面に映った総理大臣は、そこで深々と頭を下げた。何人かがつられて頭を下げたのが見えた。
「さて、みなさんもご存じのとおり、我が国は長年、2つの深刻な社会問題に悩まされてきました。そう、自殺と無差別殺人です。どちらも増加の一途を辿っており、特に後者はここ数年で爆発的に増えました。その両方の対策が喫緊の課題でしたが、遂にその最善策を見つけました」
首相はそこで言葉を切り、小さく頷いた。そして、身振り手振りを交えて、さらに話を続ける。
「死にたいAさんが、自ら命を絶つ。死にたくないBさんが、誰かを殺したいCさんに殺される。これが今の世の中です。これが毎日のように全国各地で発生しています。これを解決する最も効果的な方法は、殺したいCさんに、死にたいAさんを殺させることです。そうすることで、AさんとCさんの願いが叶います。もちろん、Aさんは自殺者にはカウントしません。Cさんも殺人罪には問いません。その代わり、Cさんの頭に特殊な光を照射して、二度と殺意が沸かないようにします。これでBさんも助かります。死にたいAさんは死ねる。殺したいCさんは殺せる。死にたくないBさんは生きられる。自殺も無差別殺人も減る。このように、誰も損をしない、まさに究極の解決策なのです!」
首相は誇らしげな表情で熱く語り続けた。その口から飛び出しているということは、すべてが政府公認であることを意味していた。
衝撃的な内容だが、驚く者は誰もいない。絶えず流れ続ける例の音に、無理矢理心を落ち着かされているからだろう。
突然、その音が止まる。次の瞬間には、別の音が流れてきた。ノイズと心臓の鼓動音、女性の悲鳴とすすり泣く声が混ざったような不気味な音だ。原作では、恐怖を掻き立てる音という設定になっている。
画面には首相の顔がアップになる。首相は眼鏡を軽く直し、そして言った。
「みなさん、もうおわかりですね? ……そう、Aさんとは、みなさんのことです! そのためにみなさんをここに集めたのです! そして、殺人に対して興味や願望がある人、すなわちCさんもここに集めました! みなさんはここで、オニであるCさんに追いかけられ、捕まり、殺されるのです! さあ、Bさんのために、その命を捧げて下さい! 我が国の平和と治安は、みなさんの尊い犠牲の上に成り立つのです!」
首相の口から語られた真実に、部屋の中は一瞬でパニックに陥った。悲鳴や怒声が飛び交う。
「そういうことなの。だから、がんばってなの」
「さあ、てめえら! 華麗に散るんだぜ!」
瞬時に画面が切り替わり、ヒトミとゴクウが現れた。2人の姿は一変していた。全身血まみれだった。ヒトミの胸にはナイフが何本も突き刺さり、ゴクウの右腕と左足はぐちゃぐちゃに潰されていた。CGとはいえ、かなりリアルだ。まるで、この後のゲンたちの運命を暗示しているかのようだった。
「ゲーム、スタート!!」
ヒトミとゴクウの声が重なる。それと同時に、閉じられていた4つの扉が一斉に開き、ホイッスルのような電子音が会場に鳴り響いた。
捕まるとオニに殺される、恐怖と絶望に満ちた鬼ごっこが、こうして幕を開けた。




