128 冥界 その6
「……マジかよ。こーゆーのまであんのかよ」
ゲンを驚かせたのは、ビーチやスキー場の存在だった。眼前に並ぶ店舗から、それぞれの場所にワープできる。どちらもかなりの人気スポットらしく、大勢が次々と出入りしていた。
ORZも用意されていた。海はサーフィンと遠泳と釣りの3種類、山はスキーとスノーボードと雪合戦の3種類。それらの経験がほぼないゲンには、どうすることもできない。
サーフィンの上にネットという3文字が付いていないのが、本当に残念だった。
「……マリリアスがORZをクリアしたっつーのはここか?」
ゲンは運動公園の前を通りかかった。ここで挑戦できるORZは、陸上競技とフィールドアスレチック。後者をマリリアスがクリアしたことは、クラインから聞いている。
どんなものなのかと覗いてみたが、ゲンの予想を大きく上回る代物だった。似たような内容のテレビ番組が現実世界に存在するが、そこに登場するものよりもさらに巨大かつ至難であるように見えた。それを突破できるマリリアスの身体能力には、ただ脱帽するしかなかった。
「ここは飲み屋街みてーだな……」
居酒屋やパブ、バーなど、多くの酒場が軒を連ねるエリアにやってきた。どの店も大繁盛らしく、入りきれずに外で順番を待つ者たちもあちこちに見受けられた。
やけ酒をあおろうかと一瞬考えたが、すぐに思い直した。ゲンは酒に弱く、コップ1杯で顔に出る。無理に飲めば前後不覚に陥ることは目に見えているため、自重した。
ORZはここにも存在していた。店舗により中身は若干異なるが、利き酒と大飲みの2種類だ。ゲンには太刀打ちできるはずもなく、当然のように見送った。
「こーゆー店、冥界にもあんのかよ……」
飲み屋街を抜けると、そこは風俗店街だった。数多くの店舗が立ち並んでいる。男性用だけではなく、女性用の店もあった。そして、どの店も大盛況だった。
老いも若きも男も女も、人目を憚ることもなく堂々と店に出入りしていた。通行人たちがそれを気にする様子もなく、見咎める者は誰もいなかった。
「マジかよ……。めちゃくちゃたけーじゃねーか……」
看板を見て思わず呟く。料金が驚くほど高額だった。声優当てクイズで浪費した約100Dが、安いと思えてしまうほどだ。
どの店も時間90分の先払い制で統一されているが、料金には大きな隔たりがあった。最も安い店でも200Dは下らず、高い店になると1年分のDを超えていた。女性用の相場はその半額程度だが、それでも100Dを切ることはなく、やはり高額であることに変わりはなかった。
異常なまでに高額であるにもかかわらず、利用客が次々と躊躇なく店内へ消えていく。死してなおそういう衝動を抑えられないのは、やはり人間としての本能なのだろうか。
ORZも用意されていた。詳細は不明だが、とにかく我慢できればクリアだという。何を我慢するのかはなんとなくわかった。同時に、経験のない自分にはまず無理だろうとも思った。
参加費はやはり高額だった。1回200D。女性は半額の100D。他のORZと比べて、あまりにも高すぎる。だが、それでも挑戦者は後を絶たないという。これも人間の悲しき性だろうか。
「すげーな……。たけーだけあって、顔面偏差値もめちゃくちゃたけーじゃねーか」
各店舗の前には、キャストたちの顔と全身の写真がずらりと並んでいた。人間とは異なる種族ではあるとはいえ、いずれ劣らぬ美男美女ばかりだった。
だからこそ、3桁Dという高すぎる料金にもかかわらず、こんなにも賑わっているのだろう。店から出てきた客は誰もが満足そうな表情を浮かべており、不平不満を口にする者は誰一人としていなかった。高額な出費に見合うだけの悦楽を得られたということなのだろう。
「うぉぉ! あれはロリ! こーゆー店にロリがいるたー、マジですげーじゃねーか! しかも、全員ぐうかわ! こりゃたまんねーな!」
自分が好む年齢層であるように見える女性たちの写真を見つけ、ゲンの目は釘付けになった。全部で6人。やはり人間ではないが、いずれも甲乙つけがたいほどの美貌を持っていた。
名前以外の情報は書かれていない。見た目どおりの年齢であるとも限らない。とはいえ、どこからどう見ても、ゲンのストライクゾーンど真ん中にしか見えなかった。
俗世間においては、その年齢は法律に触れる。合法的に思いを遂げることは不可能だ。だが、所定の料金さえ支払えば、ここではそれが許される。そういう年齢に見える女性と、楽しいひとときを過ごすことができる。この機を逃せば、もう二度と念願は叶わない。
彼女たちは全員300Dだという。ゲンの制限時間は、残り?年と220日。?で隠された部分は、おそらく0ではないと思われる。今なら資金不足で 門前払いを食らう心配はないだろう。
ゲンは逸る心を抑えながら、いまだかつて立ち入ったことのない領域へと足を踏み入れ……なかった。絶好のチャンスが目の前に転がっていながら、みすみす見送った。両の拳を強く握り締め、歯を食いしばり、肩を大きく震わせ、大粒の涙を流しながら、店に飛び込みたい衝動に必死で耐えた。300Dが惜しいからではない。ゲンには守るべきものがあるからだ。
生前、ゲンはテッカンジーから魔法を授けられている。原作においてケイムを倒すことになっている魔法だ。この世界でもそうである可能性が高く、ケイムを倒せる唯一無二の手段、まさに切り札だと言える。ただし、童貞でなければ使うことができない。童貞でなくなった瞬間、その魔法は永遠に失われてしまうという。
今ここで欲望に負ければ、ケイムを倒せる可能性は完全に消滅する。ゲンはもう二度と現実世界の土を踏むことはできなくなる。死んだ後だから関係ないなどという甘い考えは、おそらく通用しないだろう。テッカンジーからも、何があっても決してまぐわうなと釘を刺されている。だからこそ、ゲンはこの千載一遇の好機を泣く泣く見送るという苦渋の選択をするしかなかった。
「ちくしょー……! ちくしょー……! ケイムめ、覚えてろよ……!」
ゲンの腸は煮えくり返っていた。ここで究極の二択を迫ってきたケイムに、激しい怒りを覚えていた。断腸の思いで守り切ったこの魔法を、なんとしてもケイムに叩き込んでやりたいという気持ちでいっぱいだった。
そのためには、まずはここから生き返らなければならない。その可能性を見出せるORZを求めて、ゲンは歩き続けた。
バスケットボール、バレーボール、バドミントン、テニス、卓球、バイオリン、フルート、サバイバルゲーム、パルクール、ドリフト、モトクロス、縄跳び、一輪車、竹馬、ローラースケート、けん玉、競技かるた、囲碁、チェス、リバーシ、ダーツ、ビリヤード、金魚すくい、射的、ジグソーパズル、ナンバープレイス、イントロクイズ、速読、雑学、暗算、語学力、記憶力、演技力、激辛料理など、多種多彩なORZに出会った。
だが、これだけの種類があるにもかかわらず、挑戦してみようと思えるものは皆無だった。ゲンが持つスキルの幅があまりにも狭すぎて、どうしようもなかった。できることが極端に少ないせいで、どうにもならなかった。
突然、キンコンカンコーンというチャイムの音が鳴り響いた。
「……お? 今度は何だ?」
ゲンは立ち止まった。今の時刻は不明だが、まだ冥界ナンバーくじの当選発表の時間にはなっていないはずだ。それでは、一体何の放送なのだろうか。
「……よぉ、みんな、こんちは。俺は冥界案内人のヨミトだ」
聞こえてきたのは、陽気そうな男の声だった。
「ヨミトは伊集院慶秀かよ。……ksg!」
惨敗を喫した声優当てクイズを思い出し、ゲンは忌々しそうに吐き捨てた。今回も一瞬で中の人を当てたが、それだけの力量があっても通用しなかった。海外の声優、さらには冥界の声優までもが問題に出されたせいで、全く太刀打ちできなかった。
そもそも、本当に冥界に声優などいるのだろうか。もしいるのであれば、どうしてヨミトたち冥界案内人の声を担当しないのだろうか。ゲンには納得がいかなかった。
「今日はみんなに朗報を持ってきたぜ。なんと、あのヨミイクサが2年ぶりに開催されることになったんだ。開始は今から1時間後、エントリー受付は開始10分前までだ。腕に覚えのあるやつは、どんどん参加してくれよな。それじゃ、コロシアムで待ってるぜ。じゃあな」
キンコンカンコーン。放送終了を告げるチャイムが鳴り響いた。
「ヨミイクサ……?」
初めて聞く単語だった。言葉の響きとヨミトの話から考えて、武術大会ではないだろうか。これもORZの一種で、もしかしたら優勝すれば生き返ることができるのかもしれない。
2年ぶりの開催かつ1時間後に開始ということは、極めてまれに、ある日突然ゲリラ的に催されるイベントに違いない。滅多に起きないはずのそれが今このタイミングで発生するのは、ただの偶然だとは思えなかった。
「ヨミイクサが開催されるのか。それは楽しみだ」
「久しぶりにあのお美しいお姿を拝見できるのね」
「始まるのは1時間後か。待ち遠しいじゃねえか」
どよめきが起きた。まばらな拍手も聞こえてきた。発生源は、周辺の店の店員たちだった。通行人たちは、誰もがゲンと同じように首を傾げている。その様子を見て、年嵩の男性店員が大声で説明を始めた。
ヨミイクサ。それは、この冥界を統べる女王ヨミの気紛れで不定期に開催される、一大バトルイベントだという。参加者全員でヨミと戦い、勝利を目指す。出場資格は特にない。参加費は5D。
冥界では魔法や特殊能力の類はすべて封じられており、一切使うことができない。だが、このヨミイクサのときだけは別だ。すべての能力が一時的に解禁され、魔法や特技、必殺技などが飛び交う派手な戦いが繰り広げられる。
ヨミイクサは毎回無観客で開催されるが、戦いの様子は会場から生中継され、各地でパブリックビューイングも行われる。その視聴率は極めて高く、放送時間中は臨時休業する店も少なくない。
ヨミに勝った暁には、全員生き返ることができる。この「全員」とは、ヨミに勝ったときに脱落していない挑戦者全員、という意味ではない。ヨミイクサに参加した者全員、のことでもない。なんと、この冥界第1エリアにいる死者全員、を指す。極めて低確率の冥ナンバーくじに当選せずとも、非常に高難度のORZをクリアせずとも、ヨミに勝てればここにいる全員が生き返ることができるという、実に太っ腹な企画だ。
つまり、それだけヨミは負けない自信があるということなのだろう。ヨミイクサは今までに何度も開催されてきたが、ヨミを打ち負かした者は誰もいない。ヨミはとんでもなく強く、歴戦の猛者たちが束になってかかっても全く歯が立たなかったという。
「……いーじゃねーかいーじゃねーか。面白くなってきたじゃねーか。こーゆーのでいーんだよ、こーゆーので。やっぱ異世界もんはこーじゃねーとな!」
ゲンは一人で盛り上がっていた。ヨミイクサの開催を心から歓迎していた。ヨミに勝つことさえできれば、この冥界生活も終わる。生き返ることができるだけではない。おそらく宝珠も手に入る。
この冥界にも1つだけ宝珠があると、ケイムは言っていた。もし持っている者がいるとすれば、冥界の王であるヨミ以外には考えられない。
個人で挑むORZとは異なり、ヨミイクサは集団戦だ。この冥界には、これまでの戦いで命を落とした多くの仲間たちが集まっている。きっと彼らも参戦するだろう。全員で力を合わせれば、なんとかなりそうな気がする。
特に、相愛戦士である富雄と寛一がいれば百人力だ。クラインのように既に生き返っている可能性は否定できないが、もし2人が参戦してくれれば非常に心強い。ヨミに勝つことも夢ではないだろう。
「じゃ、オレもエントリーしよーじゃねーか」
理不尽なORZばかりで辟易していたが、やっと面白そうなイベントが現れた。降って湧いたこのチャンスを逃す手はない。HGの力を借りれば、足手まといにならない程度には戦えるだろう。
会場まではここから歩いて5分ほどだという。エントリーするべく、ゲンは歩き出した。