110 消滅
「……これで手続は終わりです。ご結婚、おめでとうございます!」
職員たちの温かい拍手が、ゲンとユウを優しく包み込んだ。
2人は役場の婚姻届提出窓口にいた。2人とも普段着だ。ユウは自宅でブラウスとジーンズに着替え、ゲンはホテルで貸衣装を返していつものジャージに戻っていた。
ユウの父、健から結婚の許しをもらった後、2人は早速入籍をしにやって来た。窓口は夜中でも閉じられることはない。年中無休でいつでも受け付けてもらえるのが、本当にありがたかった。
時計の針はまだ真上を指していない。ほんの少しだけ角度がある。すなわち、まだ日付は変わっていない。ゲンは間に合った。誕生日を迎える前に、入籍を果たすことができた。
入籍手続は極めてスムーズだった。多くのカップルを悩ませるという婚姻印選びが、短時間で終わったのが最大の要因だろう。ゲンの提案をユウが快く受け入れたため、すんなりと決まった。
ゲンが決めた婚姻印は、「䨌」という文字だった。優雨の「雨」とゲンの「元」を組み合わせた。実在する文字だが、読みも意味も全く気にせず、字面だけで選んだ。
なお、妹夫婦の婚姻印は「完」だという。完二の「完」であると同時に、元子の「元」も含まれている。これ以外には考えられないほど、非常にしっくりくる文字だ。ゲンはそれを参考にしていた。
「こんなオレでもケコーンできたぜ……。こんなに嬉しーこたーねーな……」
心の奥底から、改めて嬉しさが込み上げてきた。まさか結婚できるとは夢にも思わなかった。しかも、出会ったその日に入籍だ。そんなことは絶対に無理だと思っていた。
結婚できるなら誰でもいいと思っていた。死を回避するためなら、どんな相手でもかまわないと思っていた。まさか「せいゆう」を妻にできるとは、嬉しい誤算だった。
ただ結婚することしか考えていなかった。結婚した後のことなど、全く頭になかった。だが、この幸せを長く続けるためには、これからの生活について真剣に考えていかなければならない。
ゲンは無職だ。金も住む家もない。プロフィール上では、完二が経営する会社に勤務し、それなりの給料をもらっていることになっている。きっとユウもそれを信じているだろう。
それならば、実際にゲンがその会社に入社し、その年収をもらうしかない。完二に頼みこめば、決して難しくはないだろう。社宅も用意してもらえるなら、住む場所にも困らない。さらに、給料の前借りや従業員貸付などで、当面の生活費を工面できれば完璧だ。
結婚生活が今から楽しみだった。特に、ユウの声真似には非常に心惹かれている。レパートリーはどのくらいあるのだろうか。常に誰かの声真似で話すことはできるのだろうか。興味は尽きない。この台詞をこの声優に言わせたい、この場面ならこの声優で喋らせたい、この声優の声を聞きながらあんなことやこんなことができたら最高だ、などと、ゲンは一人で妄想を膨らませていた。
その一方で、ユウはいわゆるメシマズだ。だが、ゲンは全く気にしていない。好きな声優の声だけでご飯3杯は食べられるゲンにとって、ユウの声真似はまさに最高の料理だ。愛妻の声で空腹を満たすことができるのなら、メシマズなどたいした問題ではないだろう。
元の世界に帰りたいとずっと思っていたが、この世界で暮らすのも悪くはないのではないかと考え始めていた。現実世界にユウを連れて帰ることは、おそらくできないだろう。現実世界でユウのような女性と結婚することも、おそらく無理だろう。それならばいっそのこと、この世界の住人になったほうがゲンにとっては幸せかもしれない。
外に出ると、澄んだ夜空に丸い月が浮かんでいるのが見えた。ゲンたちがここに来るときには、雲に隠れていたはずだ。2人の結婚を祝福するために、月も顔を出したのだろうか。
「……月が綺麗ですね」
「そうですね……」
斜め後ろから聞こえてくるユウの声は、少し恥ずかしそうだった。ゲンの意図を理解したのかもしれない。
月が綺麗ですね、には別の意味がある。いつかその意味で使ってみたいとずっと思っていたが、ついに言うことができた。しかも、結婚直後というこの上ないタイミングでだ。ゲンは幸せを噛みしめていた。
「……あれ? ユウさん?」
月から視線を移そうとして、ゲンはその相手がいないことに気がついた。いるはずの場所に、ユウはいなかった。周囲を見回しても同じだった。真夜中ということもあってか、ユウはもちろん、周囲に人の姿は全くなかった。
ユウはどこに行ったのだろうか。このわずかな時間では、ゲンに見えないところまで移動することはまず不可能だろう。歩く足音や動く気配も全く感じなかった。ユウは忽然と姿を消していた。まさに神隠しだった。
「どーゆーことだ……? ユウはどこだ……? どこに行っちまったんだ……?」
ゲンは頭を抱え込んだ。何が起きたのか、全く理解できなかった。
「……結婚おめでとう。君が結婚してくれて、僕も嬉しいよ」
突然、空から例の声が降ってきた。見上げると、夜空に例の顔が映っていた。その顔は薄笑いを浮かべて、じっとゲンを見下ろしていた。
「ケイム、オマエか!? オマエの仕業か!? ユウはどーした!? ユウをどこへやった!?」
「ユウは消したよ。もう僕のシナリオには必要ないからね」
「ファッ!?」
「さっき日付が変わって、ミヒリトの呪いが消えたんだよ。だから、もういいよね? 君は死にたくないから結婚しただけなんだよね? 死を回避できたんだから、もう結婚相手がどうなろうと関係ないよね? 君が考えた設定なんだから、そのことは君が一番よくわかってるよね?」
「ぐぬぬ……」
ゲンは言葉に詰まった。ケイムの言うとおりだった。誕生日を迎えたその瞬間にさえ配偶者がいれば、直後に離婚しようと全く問題はない。ミヒリトの呪いから解放された今、理論上はユウの存在にこだわる必要は一切なかった。
「ところで、ユウがどうして君と結婚したかわかるかな? 出会ったその日に入籍なんて、普通はなかなかできないよね?」
「ユウがオレに惚れたからに決まってんだろーがjk! 言わせんなよ、恥ずかしーじゃねーか!」
「それは違うよ。答えは、君と結婚させるために作り出したキャラクターだから、だよ。ユウはあくまでもその役割をちゃんと果たしただけだから、君に恋愛感情なんか一切持ってなかったと思うよ?」
「なん……だと……?」
身も蓋もないケイムの言葉に、ゲンは体中の力が抜けていくのを感じた。
「ユウの名前や特技をあんなふうにしたのは、もちろんわざとだよ。君なら絶対にユウを結婚相手に選ぶと思ったからね。やっぱりそのとおりだったよ」
ケイムは得意気に笑った。
「それにしても、君の利き声優は本当にすごいね。かなり難しい問題もあったのに、まさか全問正解するとは思わなかったよ」
「あったり前田のクラッカーだぜ! オレを見くびんじゃねーぞ!」
ゲンも得意気に叫んだ。
「ユウの父親との試合でも、君の声優好きが役に立ったね。どれだけ殴り倒されても、ユウの声真似を聞いて立ち上がる君の姿には、何度も感動させられたよ。君は本当にすごいね」
「うるせー! オマエのせーだろーが! オマエがあーゆーシナリオにしてたからだろーが!」
「それは確かにそうだけど、君はあんなにがんばらなくてもよかったんだよ? パンチを一発食らっただけで降参してても、全然大丈夫だったんだよ? 君がさっさと負けてくれてたら、次はユウの提案で利き声優対決をしてもらうつもりだったんだ。それなら確実に君が勝つからね」
「ふざけんじゃねー!」
ゲンは顔を真っ赤にして叫んだ。殴られた頬がまだ少し痛む。殴られ続ける必要がなかったと知り、大きな徒労感に襲われていた。
「だから、君は絶対にユウと結婚できてたんだよ。君に結婚してもらうのが、今回のイベントの目的だったからね」
「どーゆーつもりだ!? オマエはオレを殺そーとしてんじゃねーのか!? だったらオレをケコーンさせねーほーがよかったんじゃねーのか!?」
「決まってるじゃないか。君は現実世界では一生結婚できそうにないから、せめてこの世界では結婚させてあげようと思ったんだよ」
ケイムは馬鹿にしたように笑った。
「それに、君を殺すのはいつでもできるけど、結婚させるのは今回しかできないからね。でも、ただ結婚させるだけじゃつまらないから、結婚相手を君が大好きな『せいゆう』にしてあげたんだよ。どう? 『せいゆう』と結婚できて、嬉しいよね? そして、『せいゆう』がいなくなって、悲しいよね? それとも、結婚できずに死んでたほうがよかったかな?」
ケイムは満面の笑みを浮かべた。
「ちくしょー……! ふざけやがって……!!」
ゲンの表情に悔しさが滲む。自分の実力で結婚を掴み取ったとばかり思っていたが、実はそういう筋書きだった。結婚したい一心でユウの父親に殴られ続けたが、全く意味がなかった。これから幸せな結婚生活が待っていると期待していたが、すべては幻だった。ケイムの掌の上でずっと踊らされていただけだと、痛感せずにはいられなかった。
「せいゆう」との結婚という夢を踏みにじられたゲンの悲しみは、やがて大きな憤りとなり、そして強い憎しみへと変わった。この世界に来てからというもの、何度も死の危機に直面してきた。そのたびにケイムに激しい怒りを燃やしてきたが、今回のそれは今までとは比べものにならなかった。これまでの人生で一度も抱いたことのない負の感情が、ゲンの心の中で渦を巻いていた。
「ケイム! オマエ、ふざけんじゃねーぞ! オレのピュアなハートを弄びやがって! オレのwktkを返せ! オレの涙を返せ! オマエはクズだ! 人間のクズだ! あえて言おー、クズであると!!」
夜空に映るケイムを指差し、ゲンは声を張り上げた。
「僕が人間のクズ……? それは聞き捨てならないね。まさかクズにクズ呼ばわりされるとは思わなかったよ。ムカついたから、ちょっと君を殺しに行くね」
怒気を孕んだ声とともに空から顔が消えるのと、それと同じ顔をした少年がゲンの前に現れるのとは、全く同時だった。