37、保険未加入でしたがそもそも事故っていなかった
ぱっくり割れた地面に飲み込まれ、落下したのはもふもふとした、何か、毛?生き物の上。
「あら!大きな……犬?」
真っ黒い毛に真っ赤な瞳は合計6つ。3つの頭を持つ巨大な犬のような生き物は私が自分の体の上に落ちて来たのにびっくりした様子もない。受け止めてくれたと考えるべきか。
「お伽噺の絵本に出てくる、冥界の門番のようですね。ここは、本当に冥界なのかしら」
私は周囲を見渡す。地下世界というものをこれまで見たことはなく、想像したくらいなものだけれど、目の前の光景はそれに近かった。
鉱山の洞窟に入ったような、ところどころに鉱物の塊があり、薄く発光している。冥界には当然だが日の光はなく、上に行けば行く程に暗く、歩ける場所と、洞窟の中を流れる大きな川のような水だけが仄かに光っている。
「……忘却の川レイテ。この水を、ウィリアム殿下に飲んで頂いたのでしたね」
あの、十二年前のお茶会で、関係者の一人であったウィリアム殿下を「いなかったもの」とするために、私が冥王様にお願いしたことを思い出す。
「あのぉ~!困ります!困りますぅ!どうしてじぃっとしていてくださらないのです??姫君様!お転婆にすぎます~!」
感傷に浸っていると、ぱたぱたと小さな足音。大きな犬の背に乗る私の方に駆けてくるのは黒うさぎさん。
「サベラス殿も!姫君様をお迎えに上がるのは大変よろしいこととは存じますが!まだ歓迎のケーキも飾りつけも何もかもちぃっとも進んでいないのですよ!」
小さな黒うさぎがプンプンと、大きな黒い犬に向かって文句を言う。冥府の番犬だと思うのだけれど、「クーン」と、まるで小さな子犬のように、サベラス殿、と呼ばれた犬の三つの頭が小さく鳴いた。名前が一つなので、三つの頭で一つの生き物という認識でいいのだろうか。そんなことをぼんやり考えながら、私は黒うさぎを見つめる。
「ごきげんよう、黒うさぎさん。お会いできて光栄です」
「ワタクシめも光栄でございます、姫君様!けれど、困ります。困ります!準備が何も終わっていないのです!」
「わたくしは冥王様に会いに来ただけです。何か特別な受け入れは必要ありませんよ」
「それは姫君様はそのようにお考えかもしれませんが、ワタクシどもは違います。恙無く、最高のお誕生日ケーキをご用意しようとはりきっているのです!」
誕生日ケーキ。冥府で出るものがどんなものか、ちょっと興味はある。けれどそもそも私の誕生日は今日ではない。
あれか。竜としての誕生日とかそういうのだろうか。
黒うさぎさん、ウィリアム殿下のお味方のような感じだったが、基本的にはもう神の眷属なのだ。そもそも人間にされたことを考えると、率先して「滅べ人間種」と思っていてもおかしくない。
反対されながらも、私は黒い犬の背に乗って、冥王様のいらっしゃるという冥界の館にたどり着いた。
冥界は、見る限り暗く静かな場所だった。周囲に人の影のようなものが揺らめく、おどろおどろしく、寂しい場所。暗く湿っぽくて、じっとしていれば陰鬱な気持ちでいっぱいになってしまいそう。
私が知識として教わったこの世界の神々について思い出す。
主神に光の神がいらっしゃり、光の神は天空より世界を支配されている。地上は豊穣の神の御加護により作物が実り、海は偉大なる海王神様とその奥方様が治めていらっしゃる。
地下の冥府は冥王ハデス様の領域で、人間種が死ぬと冥界で物言わぬ影となり静かに過ごす。
このほかに大地の女神ガレリア様や、狩りの女神アデルミシア様、風の女神リーシャン様など多くの神々のお力が、この世界を滞りなく正常に存在させてくださっていると、そのように教えられてきたし、私自身「そうなのだ」という実感があった。
しかし、死者の魂が物言わずにただ存在するだけのはずの冥府は、冥府の館に近付くにつれてだんだんと、騒がしくなってきていた。
「……何か、建設されているのですか?」
案内された冥府の館の入り口より先に、黒い犬は入れないようだった。背から降りて、私は立派な館の周りが、見慣れない種族たちの手で増築されていることに気付く。
ドワーフ族、だろうか。小柄で手足が短いが、逞しい。顔は毛と髭で覆われて、鎚を振るう腕は丸太のように太い。
巨人族らしい大柄な種族が石や木材を運び、青白い顔をした魚人のような種族が設計図をみながら何か指示を出している。
「裁判所を建てている」
私の問いに答えたのは、いつの間にか私の背後に立っていた冥王様だった。いつぞやルゴの街で見たお姿より、人の形が遠のいている。両手や両足が鋭い爪を持つ獣のような姿の冥王様は、顔だけは人間種に見える。
冥王様は私よりはるかに高い視線を少しでも合わせようとしてくださっているのか、身を屈めて顔を覗き込んでくる。
「娘よ、まだそなたの部屋も麗しい衣裳も揃っていないのだが。急ぎの用か?」
「わたくしの全く知らないところでなぜ冥府への転居準備が進んでいるのかは気になりますが……急ぎ、お願いしたいことがございます」
「……」
「まずは謝罪が先であろう!」
私の言葉に小首を傾げた冥王様とは対照的に、怒気を孕んだ声が空気を震わせる。
「ガレス」
「軍神ガレス様」
「伯父上!かの花は我らに弓引くと宣言した不届き者にございます!男の命惜しさに再び我らに膝をついた心はまたいつ反逆するやもしれませぬ!まずは跪かせ我らへの絶対服従を誓わせ羊百頭を生贄に奉げさせねば!」
燃えるような赤い髪に黄金の鎧の眩しい神は薄暗い冥府では太陽のように神々しい。もっとわかりやすく言えば、ピカピカ光り過ぎて目に痛い。直視するのが嫌になる輝きだ。ずっと遠くで黙って燃えるなり発光していてくださっていればいいものを。
「身の程を弁えよ!」
びしっと私に言い放つ軍神ガレス様。ご壮健で何よりでございますね。
「ガレス」
私は面倒くさいので黙っているけれど、冥王様が静かに軍神の名を呼ばれた。
「そなたがそなたの父の名の元に光を放とうと、ここは我が影の落つる我が領土。一体何の権能を持ってそう喚き散らすのか」
「伯父上!私は、神として正しい姿を示そうと……!」
「これなるは我が娘。我が冥界の花。そなたらは山頂の花でも愛でるが良い」
冷たく言い放ち、冥王様はふと、気付いたように目を細め「あぁ」と一度頷いた。
「そなたらはすぐに花を枯らすゆえ、愛で方もわからぬのは道理であるな」
*
「地上に戻るというのなら、冥府のものは何一つ口をつけぬように」
軍神ガレス様が泣きながら退散したのを見送ることもなく、私を館の中に招いてくださった冥王様は、玉座につき、その膝の上に私を乗せた。
……。
そうして甲斐甲斐しく髪を梳いたり、頬を撫でたりされるのを、私は抵抗せず大人しくしている。不思議と不快感はない。異性に触れられているという意識もなく、かといって父スピア伯爵が接してくるのと同じかと言えば、それもまた違う。
愛でられている、というのが当然のように受け入れられるこれが、私と冥王様の関係なのか。
「次にそなたが冥府に来るまでには、裁判所もそれなりに形になっておろう」
「あの、冥王様。裁判所、というのは?」
「そなたがそう望んだゆえ」
なんのことだろう。
冥界に裁判所を造ってくださいなどというお祈りをした覚えはない。
「そなたは」
私が不思議そうな顔をしているので、冥王様は一度目を伏せる。
「自身のために祈る事をせぬ」
自分の意地も願いも、ウィリアム殿下のためにあっさり捨てた。そして今、ギュスタヴィア様のために神に祈り縋ろうとしている。
その自覚はあり、指摘に否定はしなかった。
「我が権能は死にまつわるものゆえ、命あるうちに関与出来る事は限られておる。が、そなたの望みを叶える事が出来るのは、そなたの抱える問題を解決できるのは、この冥王のみであろう」
「それはつまり……今現在発生している、眠り姫の口づけ騒動を、どうにかできる、ということでしょうか」
「かの毒婦の腐臭は強い、口づけ一つで逃れられるのならそのようにするのがよかろう」
会話がかみ合うようでかみ合わない。
冥王様は……なんというか、やはり神様なのだ。何もかも理解されていて知っていて、考えることがある。そして、他者もその知識を共有していると思っていらっしゃる。
「…………」
そう。
何もかも、知っていらっしゃる。それを、当人が自覚していなくても、しているものとして、話してくる。
「……そう、なんですか?」
「そう、とは?」
「いえ、その」
私は口ごもる。しかし、あっさりと言われた事実に関して、否定できるかと言われれば……いや、できないのだけれど。
……冥王様は、私が今眠り姫の毒に侵されている事は問題視されていない。そんなことはもう解決済みだと言わんばかりの態度で、事実、冥王様からすればそうなのだ。
「その、いえ。あの、冥王様の、勘違いではないでしょうか」
「そなたが何を言っているのかわからぬが」
「……このままだと、ギュスタヴィア様が、わたくしを殺すことになるのです。わたくしは、そうはならないように、冥王様に何か、助言を頂きに参りました」
不思議そうな顔をされる冥王様。直ぐに私の言葉を否定はされず、少し考え、そして首を傾げる。
「なぜそうなると?そなたは、あの男を好いているのに」
冥王様の口調が地上verと違うのはこっちのほうが神様として強いからです





