30、兄弟
「申し訳、ありません」
今にも泣き出しそうな顔。それでも微笑んでいたのは自嘲だったのだろうか。
「……」
闘技場全体を包み込む茨。鋭利な棘がエルフたちを突き刺して、雁字搦めにして徐々に命を奪っていく。うめき声や恨みつらみ、そんなものが耳に届こうとギュスタヴィアにはどうだっていいことで、そんなことよりも、茫然と、膝を突き眺めるのは自身の手。
掴んだと思っていた体が、肩が、手が、遠く遠く離れた。
「……なぜ、神に縋った?」
あれほど嫌悪したではないか。
神に弓引くと決めて、自身の命が危ぶもうと、その道を選んだイヴェッタ。
何もかもうまくいくと、ギュスタヴィアは思っていた。いや、何もかも、うまくいかせると、そう決めていたのだ。
イヴェッタの命を救い、この国の王族として迎え、国民たちに受け入れられ、花と名誉を頂く立場にさせることを、ギュスタヴィアは決めていた。その為に、自分の身がどうなろうとそれは、別段気にするようなことが何一つなく、ただ、しかるべき物事が全て終わったその時には、輝かしい大聖堂にて、純白の衣裳を纏ったイヴェッタが自分に微笑みかけてくれて、ただ一言「ありがとう」と言ってくれるのだと、それだけを欲していた。
彼女の願いを叶えることができるのは、彼女の抱える問題を解決することが出来るのは、全て、自分だけであるはずだった。
「……」
茫然と、ギュスタヴィアは停止する。
エルザード。神々の力の及ばぬ土地であるはずの地に、顕現した神の力。茨。何もかもを封じ拒絶し、疎外する茨。触れれば皮膚を食い破り肉を抉り、血を吸い上げる。
堅牢な檻の中で育まれるのは、竜の雛。
一度は神を拒絶し、信仰を捨てた者が再び神に祈った。それまでの無礼の一切を無条件で許されるわけもなく、願いの対価に、その身を奪われた。あとはただ、茨が吸い上げる周囲の命を栄養に、雛が成体へと、憤怒の竜へと成って行く。
「……私の妻に、なると」
言ったではないか。
最後に見た微笑みを思い出す。呟かれた言葉。の、意味。
「今のうちに殺せ」
ギュスタヴィアの背後から声がかかった。この場で真っ先に優先されるべき存在、国王レナージュが立っていた。
「成体化したとてお前ならば容易く殺せるだろうが。この国から竜が孵化した事実など、あってはならない。眠る雛の内に殺してしまえ。あの女も、そのつもりだろう」
「……兄上」
微笑んだイヴェッタ。謝罪の言葉。
ギュスタヴィアなら、竜になった自身を殺せると、そう理解して、託して、そして謝罪。
「……なぜイヴェッタを。彼女を、追い詰めたのです」
ギュスタヴィアには兄の行動が、理解できなかった。
自分という兵器を制御するために、自分が執着している女。イヴェッタを王族に迎えることは承諾頂いた事ではないか。利がある。イヴェッタは、切り花という価値を除いては平凡な性質の、ただの人間種の娘だ。政治に強い野心があるわけでもなく、周囲に強い感情を撒き散らすような女でもない。
「私は兄上に逆らいません。お望みであれば、何もかも差し出しましょう。子を作れという兄上の御言葉にも従います。――なぜ、私の大切なひとを苦しめたのです?」
イヴェッタさえ大切にして貰えるのなら他には望まないと、そう知らせて来たではないか。イヴェッタさえ、エルフの国で丁寧に扱って貰えるのなら、自分は兄の望みの何もかも叶えると、そう、示してきたではないか。
「お前が苦しむからに決まってるだろう?」
問うギュスタヴィアに、レナージュは吐き捨てた。わかりきったことをなぜ聞くのかと、呆れる響き。
「……なぜ」
「なぜ?お前の弱点を放っておくと思ったか。それとも、お前の逆鱗に触れる行為をするわけがないと思ったか?馬鹿なことを言うなよ。お前は、こんなことをされても、俺を憎めやしないくせに」
ははは、と、レナージュが笑った。腹の底から、おかしくて仕方ないという、大声。周囲が混乱し、統率されることもなく、レナージュの王冠もいつの間にか消えていた。そういう、状況がレナージュを気安くさせているのだろうか。
「あの女が大切?愛している?馬鹿なことを言うなよ。お前は、そんなことはちっともないんだろう?」
どっかりとレナージュが座り込んだ。顔を両手で覆い、肩を震わせる。
「お前はあの女を『愛している』『大切に思っている』などと、いう、フリをしていただけだ。お芝居、茶番、狂言。呼び方は何でもいい。なるほど、俺たちに、お前も何かを愛することが出来る生き物だと。化け物というだけではないと。弱点があって、情があって、その為に、他人に利用されることも仕方ない生き物だと、そう、思われたかったんだろう?」
理解できない怪物から、理解の出来る化け物へ。距離が近くなる。弱点がわかれば、それが利用しやすければ、どんな脅威でも、知能ある生き物は、それらを支配下におくことができる。
レナージュは手を退け、ギュスタヴィアに顔を向けた。その目には嫌悪、憎悪、この世のどんな生き物、対象に向けるよりも強い厭忌の念が籠っていた。
「そんなに俺に、愛されたいか」
吐き捨てる。忌々しい。この世でもっとも、醜くおぞましい存在から情を向けられる気持ち悪さ。レナージュは頭を振った。
「笑えてしかたがない。呆れてしかたない。お前が生まれてからずっと俺がどんなに、お前に怯えていたか。お前の封印が解けたと気付いてから俺がどんなに恐怖に苛まれていたか!そんな必要は何一つなかったんだ!お前は、俺がどんなことをしようと、俺を憎めない!残念だったな、ギュスタヴィア!あの女はお前の手を取らず竜になった。あの女はエルフの敵だ、害意だ。さぁ殺せ。俺はあの女の死しか願わないぞ」
お前の望んだ幸せなど、一つも叶わない。
レナージュははっきりと、ギュスタヴィアに突きつけた。もし、本当に、本当にギュスタヴィアが、これまでずっと、レナージュが信じて恐れてきたような怪物であったのなら、こうはならなかった。本当に、真に、ギュスタヴィアが怪物で、その心を救ったのがあの女、イヴェッタであったのなら。二人を保護することがこの国にとって正しい事であるのなら、レナージュはこうも、心を狂わすことなどなかった。
だが、違った。
ギュスタヴィアは、よりにもよって、あの化け物は、自分に、兄に、このルカ・レナージュに「愛されたい」が為に、これまでの何もかも。おぞましい行為の何もかもを行っていて、そして、自分が化け物ではないと思われたいために、イヴェッタ・シェイク・スピアという女を選んだ。
レナージュは気が狂うかと思った。狂ってしまいたかった。
なんだそれ。
なんなんだ、それは。
「なぜそこまで、私を拒絶されるのです」
ぽつり、とギュスタヴィアが問う。銀の髪に黄金の瞳の、この世でもっとも美しい姿かたちとはこのことだと思える存在。無表情にこちらを見ている、その瞳には光がない。
あぁ、ほらな。と、レナージュは指をさしてやりたかった。
背後では神の茨。竜の雛が育まれるゆりかご。その中にいるのは、お前が最も愛していると嘯いた女が、お前に殺されるのを待っているというのに、お前は今、その愛すべき女に背を向けて、求めているのは兄からの言葉。
「私は、私の能力は、有益です」
「あぁ、そうだな。戦闘帝ギュスタヴィア。お前がいれば役に立つ事は多い。だが、お前に飴をやる必要があるのか?俺に愛されたくて必死でしょうがない奴に、なぜ飴をやって、頭を撫でてやる必要が?俺はこんなにも、お前のことが気持ち悪くて仕方がないのに」
はっきりと言った。
レナージュは、根本的に、生理的に、このギュスタヴィアが「嫌」なのだ。
「例えば、腐臭を撒き散らし、蛆だらけで体が腐り垢や汚物に塗れた醜男を、何の負の感情も抱かずに引き寄せて口づけが出来るか?無理だろう。俺にとって、お前がそうなんだ。そんな奴に、執着心を向けられ、愛情を乞われる者の気持ちがわかるか?わからんだろう。そんな者を恐れるしかなかった者の滑稽さなど、もっとわからんだろう」
長年に積もり積もった感情を、吐き出せてレナージュは清々した。
父を殺され母を焼かれ。国を散々混乱させられて、自分が王位に就いた、就けたのは、この化け物の「おかげ」だった、などと、全く以て、馬鹿にしている。
レナージュはここで逆上したギュスタヴィアに殺されてもよかった。お前が必死に愛されたかった兄を、結局殺すのなら、最高の仕返しができると思った。だが、こんな言葉を投げつけられても、こんな扱いをされても、憎しみの目の一つも向けられずに、ただ佇んでいるギュスタヴィアを、レナージュはますます、嫌悪した。
「話の途中に割り込んですまないが、誰だって、愛されたいと願うのは当然だろう?それが、肉親であれば尚更だ。――それの、何が悪いんだ?」
沈黙の続く兄弟の間に、割って入ったのは、この場にいる唯一の人間種の声。
金色の髪に、青みがかった緑の瞳の、美しい青年。
「……」
「……」
二人の長寿種に胡乱な視線を向けられ、ウィリアムは軽く眉を跳ねさせる。少し悩んで、ウィリアムは銀髪の男の方へ進み、頭を下げた。
「私はルイーダ国、第三王子ウィリアム。闘技場の中にいるイヴェッタ・シェイク・スピアを救いたい。力を貸して頂けませんか」
「……」
「私は、今何が起きているのか。何一つ、わかっていない。だが、お二人の話は聞こえた。あの中にイヴェッタがいるのだろう。そして、あの状態のイヴェッタは、この国にとって有害なのだろう。貴殿は、国の為にイヴェッタを殺すのだろうが、どうか、彼女の身柄をルイーダ国に引き渡して頂けないだろうか」
ルイーダ国は今、混乱している。年頃の貴族の子息令嬢たちが皆、得体の知れない呪いにかった。死ぬ事のない呪いは、その後変化し、目覚めることがない呪いとなった。体が徐々に赤い鱗に覆われて動かなくなっていく、そんな呪いが、王都の貴族たちの間で流行り始めている。
王宮では国王派と、貴族派が対立していた。貴族派は事の発端は魔女イヴェッタだと言い、イヴェッタを連れ戻しこの国で処刑しなければ呪いは解けないと主張した。国王派はそんなことはただの妄想だと一蹴したものの、イヴェッタを神に愛された花であると主張している故に、イヴェッタを連れ戻し神の奇跡が起これば、呪いが解けるのではないかと考えていた。
ウィリアムは、どういう経緯かわからないが自分がイヴェッタの前に現れる事が出来たのなら、彼女を国に連れ帰ることが自分の使命だと、そう考えていた。
「……イヴェッタを追い出したのは貴様では?」
「あれは……っ、出ていけ、とは、言ったが……本気で出て行くとは、思わなかったんだ!」
「彼女はもう貴様の国の民ではない。貴様の国のことなど、彼女には関係のないことだ」
「だが、家族がいる。イヴェッタの母は王宮に滞在しているし、スピア伯爵、二人の兄、領地の民を、イヴェッタは見捨てられるだろうか」
「ハッ、家族など。――なんの意味がある」
「私や貴殿は得られなかったが、イヴェッタは、スピア伯爵夫妻は、お互い慈しみあっている」
それは尊いものだろう、とウィリアムは告げた。
ギュスタヴィアは目を細めた。何を考えているのかわからない男の無表情からの沈黙は、ウィリアムを内心焦らせる。状況が、本気でわからない。エルフの王族らしい兄弟。兄が弟を一方的に言葉で殴り続けているのは、ウィリアムの人生には全く関係ないだろうが、しかし、聞いていて気分の良いものではなかった。
愛されたいと願って、切望して、足掻いて何が悪いのか?
母に、父に、異母きょうだいたちに愛されたいと、ウィリアムも願っていた時期がある。必死に勉強し、褒められようと努めた。我がままを言わないように、周囲に眉を顰められることのないように、歩き方から、呼吸の仕方、指先の角度の一つまで神経質に気にして生きていた。
愛されることがないと、気付いた時の絶望を、エルフの兄の方は想像することもないのだろうか?
周りの同じ年頃の子供たちが、当たり前のように親に抱きしめられ、愛情を込めた声で名を呼ばれるのを見て、自分はそれを一生得る事は出来ないのだと感じた「寂しさ」を、ウィリアムは知っている。周囲が、世界が愛に溢れている中で、自分だけはそれに触れることが出来ないのだと孤独を感じる残酷さ。
『ウィリアム様って、いっつも、あの伯爵令嬢のことを目で追っていらっしゃいますね』
学園で、そう話しかけて来た男爵令嬢の言葉。きっかけは、そんな一言。マリエラ・メイ、男爵令嬢。彼女を愛していた。いや、正しくは、彼女が愛してくれるから、彼女を失いたくなかった。けれど向けられていた愛は、存在せず、ウィリアムは、自分がけして誰かに愛されることがないのだと再確認させられただけだったが。今は、そんなことは、もうどうでもいい。
「……イヴェッタを救いたい、などとは……身勝手なことを。彼女が、あぁなったのは、貴様の所為だというのに」
「原因と責任があるのなら尚更ではありませんか」
「なら責任を取るために、一人で行き、一人で死ね」
「イヴェッタは私に惚れているので、それは望まないと思うが」
は?
と。面白いくらいに、目の前の銀髪のエルフが顔を歪めた。
「戯言と聞き流すにはあまりに妄言に過ぎるが?」
「事実だからな。イヴェッタ……幼い頃一度だけ会った時には、お互いイヴ、ビリー、と愛称で呼び合った仲。あいつは僕に惚れているんだ」
嘘、ではない。
父テオとの謁見から、段々と昔の記憶。霞がかっていた過去の記憶が鮮明になってきた。思い出せてくる、思い出してくる。彼女のこと。十二年前のお茶会で起きた事、起きる前に、あったことの何もかも、ウィリアムは思い出しつつあった。
「……万に一つも、そのような事実はない」
「言い切れるか?僕は、イヴェッタに『顔が好みです』と選ばれた王子だぞ」
ガーン、と、ギュスタヴィアが何か打ちのめされたかのようにショックを受けた。
「いや、そんなはずは。以前、私の顔も貴様の顔も好みではないと……」
「なんだ。貴殿は、イヴェッタが好きなのだな」
ぶつぶつと言うギュスタヴィアに、ウィリアムは笑った。
「先ほどの話から、イヴェッタを利用するためにフリをしていたのだと思ったが、なんだ。貴殿は、ちゃんとイヴェッタに、惚れているのだな」
「……」
「まぁ、申し訳ないが、イヴェッタは僕に惚れているわけだが」
「ほざくな」
ザンッ、と、ギュスタヴィアは剣を振るった。剣圧で闘技場の入り口を覆っていた茨が吹き飛ぶ。ザワザワとすぐに再生し塞がるだろうが、猶予はあった。
「彼女に問いただしてみましょう。私と、貴様のどちらが夫に相応しいか……!」
「まぁ、同じ種族で両親も同国にいる僕だと思うが」
「さっさと来い!」
すたすたと闘技場に入って行くギュスタヴィアに促され、ウィリアムも歩き出した。
似た者同士(/・ω・)/





