13、ヘンリエッタ・ラックス
【注意】
この話には残酷な描写があります。
エルフの国の過去の話についてアーゲルド夫人の回想なので、次回のイヴェッタ視点のみの情報でも話はわかります。苦手な方は飛ばしてください。
アーゲルドは前ブーゲリア公の妻であり、そして現国王ルカ・レナーシュの乳母を務めた女だが、そんな肩書などより彼女が重要視するものは一つ。
先代国王の側室、オクタヴィアの侍女長であったということだった。
*
今でこそ『最愛王レナーシュ様の御母堂様』『悪鬼ギュスタヴィアに殺された悲劇の聖母様』だなんだのと崇め、褒め称えられているが、オクタヴィアは忘れない。
エルザードに属さぬ『銀の森』の賢者の娘。はだしで森の中を駆け回り、朝露で唇を濡らし弓を巧みに操る古い種のエルフ。
それを捕らえた。
獣のように檻に入れ、暴れる野獣のようなオクタヴィアは鎖に繋がれ檻の外から棒で突かれ、布を一枚も纏わぬ姿のまま、エルザードに輿入れした。
先代国王。何百人もの女を孕ませては『出来そこないが』と子を殺した男。
当時、神の切り花が五体竜となっていた。世界の守護者たるエルフの失態。切り花を、竜を葬る事のできる『力』がなかった。境界線の脅威は増すばかり、泥は濃くなり、魔物たちも勢いづいた。
あと二つ。
あと二つで世界が終わるという重圧に、神や竜に挑んでは殺されゆく国民の悲鳴を聞く度に、怪しき者は殺せと先代国王は人間種の赤ん坊、残りの二つの切り花になる可能性のある幼子を殺すため人間の世界に攻め込んだ。
『民は死なせぬ、最も多く流れるのは王家の血でなければならない』
と、そう。王家の血筋ならば高い魔力や素質があろうと、女たちを手あたり次第孕ませたのもそうした時代であったから。
「子どもを一人産んだら、森に帰してくださると陛下はお約束くださったわ!」
森で野鳥と歌っていただけの世間知らずな女オクタヴィアは、姿を整えれば銀の髪に黄金の瞳の美しい姫君のようだった。
礼儀作法もなにもあったものではない。食事の度に手づかみで食べようとする、ドレスの裾を裂いて「動きやすいもの!」と微笑んでしまうような女に、アーゲルドは辟易したものだ。
女が子を産み、ある程度の力を持っていれば戦力として育てられる。オクタヴィアは頭の軽い女であったので、子どもを産んだ後に、一定基準に合格しなければ母子ともに殺されることなど知りもしなかった。
「さようでございますか」
と、アーゲルドは内心の侮蔑を隠しながら彼女の相手をした。生まれ育ちの確かな、国内の女たちに「最高の貴婦人」と呼ばれる己が、どうしてこんな愚かな女の世話をしなければならないのか。
当時、アーゲルドの父が国王の不興を買った。それゆえの嫌がらせだとは女の頭でも理解していたが、それでも納得しきれずアーゲルドはオクタヴィアとまともに視線を合わせようとしなかった。
そうして、生まれた赤ん坊。
オクタヴィアの第一子。ルカ・レナーシュ。最愛王となる少年。
力が強かった。
魔力が高く、攻撃よりも守りの魔法に長けていたが、それでもこれまで王が産ませたどの子どもよりも強い力を持っていた。
それで、国王はオクタヴィアの両手両足を切り落とし、瞳を潰した。癒しの魔法が効かないように呪術で封じた。
『もっと子を。この胎から産ませよう』
毎朝毎晩響く女の悲鳴とうめき声。世界の脅威も危機も、どれだけ聞かされても理解できない、小さなおつむの女は、使命も名誉も感じなかった。
森へ帰してと。父の元へ帰してくれと、ただそれだけを懇願する。
野を駆け回った足も、草木を抱いた両腕も、そして日の光や星の輝きを受けた美しい瞳も失って、それでもただ喚くオクタヴィアはそのうち喉も潰された。
百年程経っても、中々、次の子を孕まなかった。エルフは生涯にそれほど多くの子を産む体ではない。一人産めばその後千年産まない事もあるが、一年後にひょいっと孕む事もあった。
さらに百年、ついに竜が六体になっていた。傲慢の黒い竜。強き竜の咆哮はエルザードの国民たちを震え上がらせ、国民を守るために多くの兵士や騎士、王子たちが死んでいった。
ある日、オクタヴィアの瞳が元通り開いた。
失っていた両手、両足が、みるみる、元通りとなっていった。
次の子を孕んだのだ。
胎にいる時点で、母の傷を、それも呪術で癒しを封じられた傷を瞬く間に治す程、強力な力を持った子が、宿った。
王の歓喜。狂気。愛しいと、よくやったとオクタヴィアを抱きしめて浴びるように口づけを落とし。遠ざけていた第一子をオクタヴィアに引き合わせた。
その頃、観念したのかもはやオクタヴィアは『森に帰りたい』とは言わなくなった。既に森が焼き払われて製鉄所にされていることを知っていたのかもしれない。
大きくなる胎を、ゆっくりと撫でるオクタヴィアの黄金の瞳はぼんやりとはしていなかった。昔の通り、光り輝いていて、アーゲルドは不気味だった。どうして狂ってしまわないのか。そうすれば少しはマシだろうに、正気を手放さずにただじっと、腹を撫でている。
「ありがとう、アーゲルド。いつもそばにいてくれて」
ふと、そんな事を言ってきた。美しい月夜の夜。
オクタヴィアは揺り椅子に腰かけ、窓から見える美しい月を眺めながらそう言った。
「いえ、とんでもないことでございます」
「あなたはわたしのことが好きじゃないけど、わたしのこと、ちゃんと同じエルフだってあつかってくれたわね」
「……」
ただ孕むための女は妃でもなんでもなかった。称号も与えられずただ飼われた。ここ最近、レナーシュ様が「王子」と認められて生母であるオクタヴィアの待遇も良くはなっていたけれど、口さがない連中の陰口は、アーゲルドがいくら必死になって罰しても中々減るものではなかった。
「……お仕えして、それなりに長ごうございますから」
「そうね。そう、もうずっと、アーゲルドが一緒にいてくれてる気がするの。だから、お礼をちゃんと言いたくて」
「……」
長く、あまりにも長く側にいた。
……誰よりも身近にいてしまい、どうしても、情が湧いていた。
「わたしね、死ぬのよ」
「は?」
「わかるの。この子を産んで、わたし、死ぬの。それは別にどうでもいいんだけれど。気に入らないわ。わたしが死んで、あいつ、子どもだけ手に入れるじゃない。わたしの未来も過去も何もかも奪ったあの最低の男、この子を手に入れたら、なんでも望みが叶えられるなんて、思ってるのね。ばっかみたいね」
そこで初めて、アーゲルドはオクタヴィアが激しい憎悪と怒りを抱いていると、そう知った。
おかしな話だ。抱いていないわけがなかったのに、あまりにもただ泣き喚き、愚かで無力な女であるから、強い憎しみの感情など抱けまいと。そんな強さはなくただ奪われるだけの乙女だろうと、そう思い込んでいた。何を馬鹿なことを。この女は、元々森で狩りをして、他の命を奪って生きてきた蛮族だったではないか。
長くいて。忘れたのか。美しく煌びやかなドレスを纏い、室内にいるばかりのか細い女だから、悲しむことしかできないと思い込んでいたのか。
「だからね。昔、お父さんに教えてもらったやつとか、森の妖精たちに「使っちゃ駄目だよ」って言われた、わたしが知ってる呪いを全部、この子に与えたの」
するり、と、オクタヴィアがアーゲルドに両腕を伸ばし抱き付いてきた。
「あなただけは好き。この国で、あなただけは好きよ、アーゲルド。この子、ギュスタヴィアはあいつを殺すし、国を焼くわ。ざまぁみろよね。うれしいわ、たのしいわ。でも、あなたは好き。あなたも、ギュスタヴィアに殺されるだろうけど、わたしがあなたを嫌いだからってわけじゃないことは、知っていてね?」
美しい銀色の髪に、黄金の瞳の女はゾッとするほど美しい微笑みを浮かべて、アーゲルドの頬に口づけた。
「……っ、何を!」
反射的に、アーゲルドはオクタヴィアを突き飛ばす。
きょとん、とした顔でオクタヴィアはアーゲルドを見上げ、そして『アハッ』と、声を弾ませながら笑う。
「忘れないでね、アーゲルド。大好きよ。あなたがわたしの代わりにレナーシュを育ててくれたことを感謝してるし、あなたはきっとギュスタヴィアも育ててくれるわよね?愛しているわ、アーゲルド。わたしのたった一人の、大切なひと。あなたの望んだことも何一つ叶わないけど、別にいいわよね?」
そうして、オクタヴィアは炎に包まれた。
そうして、胎から生まれた子が、ギュスタヴィア。
オクタヴィアと同じ、光り輝く美しい銀色の髪と、黄金の瞳を持つ美しい者。
その子どもは、母親の願い通り自分の父親を殺し、六体いた竜の半分を殺し、神の切り花を悉く焼き尽くし、世界に再びの平穏を齎した。しかし、誰にも愛されず誰も愛せないそのおぞましい生き物は、竜の脅威を忘れた時代にはただの脅威で怪物だった。
*
「わたくしの全てを、貴方のために浪費せよと、そう言うのですか」
そして現在。
アーゲルドは、あのおぞましいギュスタヴィアの「妻」となるために、ここにいるという人間種の少女を前にしている。
それなりの教育は受けているように見られる娘。物腰からおそらくは人間種の貴族の出だろうが。大貴族特有の傲慢さがないため、弱小貴族程度だろう。
切り花だという。
それがこの国の、王室に入り込もうとしている。
なんの冗談だ。
国王陛下は、ロッシュは知っているのか。知らないわけはないが、あまりにも、バカげている。
アーゲルドは前ブーゲリア公の妻であり、そして現国王ルカ・レナーシュの乳母を務めた女だが、そんな肩書などより彼女が重要視するものは一つ。
彼女の唯一の汚点、先代国王の側室、オクタヴィアの侍女であったということだった。
仕えるに値しない者に、仕える事は二度としない。
アーゲルドは自分の才能に自負があった。長く学んだ知識、教養。歩き方から話し方、会話の話題の選び方。この国の淑女が必要な知識は全て得ていて、その知識は常に更新されている勤勉さ。
それを、生かせなかった。
最も長く仕えたオクタヴィアは、アーゲルドの渾身の教育を持ってしても、エルフの国最高の貴婦人にはならなかった。
アーゲルドは正しく自身の才能を振るいたかった。己の何もかもを奉げて、最高のエルフの貴婦人を育て上げる。それが彼女の悲願。国の事などそれを担う男どもや当主たちが好き勝手に考えればいい。
だが。
「……」
この娘。
(そう成ろうとしている)
ただ黙って微笑んでいれば神々に冗談のように愛されて何もかも思いのままになるだろう人生を、自ら捨てて、求めている姿。
「神に弓引くその姿を、どのようにお考えです?」
トクン、とアーゲルドの鼓動が一度高く鳴る。
人間種の娘。美しさでいえばエルフの娘たちの白い肌に彫りの深い顔立ちには及ばない。が、一般的には「みっともない」と思う筈の、短い髪。肩までしかない黒髪に菫色の瞳は強い意思、憎悪や敵意などではなく、何か強い光の意思を持って輝いている。
「路傍の花」
彼女はそう答えた。
「切りそろえられ、花瓶に飾られた愛でられるための花ではありません。私は、道端に咲く花になるつもりです。何も顧みず他に意識を向けない者たちが、無視できず思わず立ち止まってしまうような、花です」
「……」
「立ち止まり、花をよく見よう、あるいは手折ろうと。私が乞わずとも、彼らは跪くでしょう」
「……お待ちなさい。貴方は……神に祈らず、彼らから離れてなお、彼らを自分に傅かせようと言うのですか?」
この娘は、何を言っているのか。唖然として、思わず素からの驚きを口にすると、エルフからすれば脆弱で取るに足らない存在である人間種の娘は、菫色の瞳を細めて微笑んだ。
「愛とはそういうものですよ」
ロクな王様がいないなこの世界!





