9、まぁそんな文化はありません
「ところで婚約の為の儀式について聞きましたか?」
パッ、と、打って変わって穏やかな笑みを浮かべるギュスタヴィア様。これが「好かれるための演技の顔」とわかっていても、私はほっとしてしまう。強張っていた体の力を抜き、首を振った。
「いえ、ブーゲリア公の弟子になる、という事は聞いていますが……」
「あの無能はまともに伝達もできないのか。――簡単に説明しますと、兄は私を王弟と扱う覚悟を決めたようで、となれば王族の婚約。婚約者となる者は三つの試練に挑み、民・貴族・王族のそれぞれに認められる必要があります。まぁ、認めぬのなら国を灰にするぞ、と言ってあるので、これも茶番の一つと考えていいですよ」
「それはちょっと……不正は、ちょっと……」
明るい調子で出来レースの説明をされても、私はちっとも嬉しくない。
先程とは違う意味で顔を強張らせると、ギュスタヴィア様は「そうだ」と何か思い出したように声を弾ませた。
「以前言いましたね。貴方は私のために手料理を振る舞うと。今がその時だとは思いませんか? 私は怪我人、とても弱っていて寝込んでいます。そういう時に、妻……いえ、今はあえて婚約者という期間を楽しみましょう。恋人のために何か作るべきでは?」
「あの時嫌がっていらっしゃいませんでしたっけ……」
「気のせいでしょう」
そうだったか?
私はうーん、と思い返す。しかしご本人が今望まれていらっしゃるのなら、私としてもやぶさかではない。
承知して部屋を出て行こうと立ち上がると、一度軽く腕を引かれた。
「なんです?」
「出て行く際に挨拶をすべきでは?」
「行って参ります?」
「いえ、そうではなく」
何がおっしゃりたいのか。
「おや、知りませんか」
「だから、なんです?」
「我々の文化では退室する際、親しい者には口づけをするのですよ」
楽しむようにおっしゃるが、嘘をついている顔ではないギュスタヴィア様。私は一瞬停止した。
「……そんなこと、これまで読んだ本にはどこにも」
「書物だけが知識の全てではありません」
「それは、そうですが……」
……確かに、そういう国があることは、知っている。隣国であればフランツ王国などがそのような文化を持っていたはずだ。挨拶代わり口づけを行う。ルイーダ国やドルツィアでは忠誠の証として掌に口づけを落とす事はあるが、それ一種の儀式めいた行動だ。
「嫌ですか?」
「……私は手を繋ぐことにも赤面するような小娘なので、ちょっと……それは」
「では良い機会ではありませんか。慣れは必要でしょう」
さぁどうぞ、と微笑んで小首を傾げてくるギュスタヴィア様に、私はギリッと奥歯を噛み締める。大変お元気そうで何より、ではあるが……心にある罪悪感はこれっぽっちも薄れない。とすれば、ギュスタヴィア様が望んでいらっしゃるのだから、口づけの一つ二つ、した方がいいのではないかとも思う。
くっ……可愛いふんわり系イヴェッタ・シェイク・スピアなら「まぁ、そんなこと……! 恥ずかしくてできませんわ!」などと言ってほわほわその場を濁せただろうが……私が今咄嗟に思い浮かぶ手は恥ずかしいからとギュスタヴィア様を殴り飛ばすくらい。
怪我人相手にさすがにそれはよくないので黙っていたいが、私が黙っていればギュスタヴィア様もずっと黙っているだろう。
「……い、行ってまいります」
「おや」
観念した私は、チュッ、とギュスタヴィア様の額、私の赤い鱗に口づける。
ここなら肌ではないし、私の体の一部でもあったものなので「恥ずかしくない!」と判定できる!
「随分と可愛らしいことをする」
額ですか、とギュスタヴィア様は目を細めて微笑んだ。何とか誤魔化すような結果に不満でも訴えられるかと心配になり、私は一気にまくし立てて歩き出す。
「ちゃんとしました! しましたからね! 私、もう行きますからね!」
「えぇ、お気をつけて。厨房や食材の使用に関しては、貴方付きの侍女を兄と選びましたので聞いてください」
と、今度は素直に送り出された。
あれで一応の納得はしてくださったらしい。
私が扉を開けて廊下に出て、少し歩くと向かい側から青銀の髪のエルフの男性がズガズカと歩いてきた。エルフというのは優雅な仕草をすると勝手に思っていたけれど、中々野性味あふれる方もいらっしゃるようだ。
ちょっと意外に思い、その姿を失礼でないよう気を付けながら見送った。ギュスタヴィア様に用があるのだろう、入室と中の様子を側の騎士に確認し入って行く。
ご友人だろうか?
入って行って直ぐに怒鳴り声や断末魔の悲鳴が聞こえないので、それなりに仲のよろしい方なのだろうと判じ、私は塔の階段を降りて行く。





