5、仮面の告白
古い記憶。
子どもにはどこまでも広く、大きな、スピア伯爵家の屋敷。
高価な家具は殆どなかったが、女主人である母の趣味の良さが窺える、質素ながら雰囲気の調和した内装。隅々まで手入れの行き届いた室内。整えられた長い廊下の絨毯の上を、駆けて行く足音。
走っているのは私だった。
イヴェッタ・シェイク・スピア。
伯爵令嬢。
黒い髪を頭の後ろで高く結び、稚けない顔に好奇心をいっぱい浮かべた、まだ六つになったばかりの少女。
「イヴェッタさま! お嬢さま! 止まりなさい! 走り回ってはあぶのうございます! あぁ、もう! タイラン! 笑ってないで捕まえてちょうだい! お嬢さま! お嬢さまー! 階段の手すりを滑り降りるなど!! 正しい貴族のご令嬢にあるまじき振る舞いでございますよー!」
その私を追いかけてくるのは、家庭教師。マイヤー女史。スピア伯爵家の末っ子の教育を任された責任感のある女性で、いつも鼠色の服を着ていた。
「あら! 『やる気がないのでしたらもう結構。部屋に戻りなさい』っておっしゃったのは先生よ! 私、自由時間ってことよね! 好きな事をしていいのだわ!」
幼い私は大の大人、それも立派な淑女であるマイヤー先生が、息を切らせて必死になって慌てている姿が楽しかった。厳しく、何かあれば眦を上げて「それはいけません」「ちゃんとなさいませ」「なりません」と咎めてくる家庭教師が、自分を嫌っていないことを確認できたのも、あったのだろう。危険だからお止めくださいと、そう言われると「心配してくれてる」と、嬉しかった。
屋敷の使用人たちも皆、優しかった。両親の穏やかで優しい気質が、スピア家にいる全ての人たちに浸透しているのだろうということは子供心にもわかった。
二階の階段を滑り降り、パタパタと駆けて行く。掃除をしているメイドたちに挨拶をし、歩いていた従僕に窓を開けて貰う。よくよく心得ている従僕は軽くウィンクをして私の体をひょいっと抱き上げると、窓の外に押し出した。
「イヴェッタお嬢さま」
「丁度いいわ! イーサン! 最高よ!」
その窓の外には、馬を連れたイーサンがいて私を馬に乗せてくれた。と言っても、まだ一人で馬には乗れないので、イーサンが一緒に乗る。
「お、お嬢さまー! あれは、あれは、言葉通りに受け取ってはなりませんー!」
「でも言ったわ! 嘘は駄目よ! マイヤー先生!」
窓から身を乗り出して叫んでくる家庭教師に、私は笑いかけて大きく手を振る。イーサンが馬を駆けさせた。遠い遠い、誰もが馬を操る事の出来る国から来たという異国の人は、私を背に乗せて、スピア家の領地を駆けてくれた。
「ねぇ、イーサン。明日ね、王都へ行くのよ! 知ってる?」
無口なイーサンは言葉で返事はしなかったが、子供の私は自分が知っていることは、他人も知っていると思っていた。
「ウィリアムさま、王子さまに、お会いするの! 先代国王陛下が、お茶会を開いてくれるのですって。そこに、いらっしゃるの。お母さまがこっそり教えてくださったわ。私、王子さまのお嫁さんになるのよ!」
「……」
「お顔を拝見したわ! 肖像画だけど。金色の髪に、宝石みたいに綺麗な青と緑が混ざったような瞳、あんなに綺麗な男の子、見たことないわ!」
「……肖像画なんてものは、大げさに描くんですよ。実際に会えばがっかりされるでしょう。行かない方がいいんじゃないですか」
「そうなの? でも、私の肖像画はとってもそっくりだったわよ。でも、言われてみたら、ちょっと大げさだったかもしれないわ。イーサンも見たでしょう? 私の肖像画。画家のネッテが描いてくれたやつ。やっぱり大げさだった?」
「よく描けていた方じゃないですか。お嬢さまはもっと可愛らしいですよ」
あら! と、幼い私は笑った。馬はゆっくり走っているが、舌を噛まないように気を付けて、ケラケラと、口を開けて、楽し気に笑う。
「それじゃあ王子さまは、私に会ってがっかりはしないでくれるわね! 私ね、マルタお兄さまに剣で勝ったのよ。それで、イワンお兄さまにも勝ったらお父さま、私にも剣をくれるって!」
父のスピア伯爵は末っ子の私を溺愛してくれていた。やりたいことはなんでもやらせてくれて、マイヤー先生が大反対した剣術も、私は兄たちに混ざって習う事が出来た。
「剣など習っても、良いことはありませんよ」
「そんなことないわよ。私、王子さまのお嫁さんになるでしょう? 王子さまは色々たいへんなんだって、絵本にも書いてあったわ」
「絵本の王子のお相手は剣なんか使わないでしょう」
「そうね。でも、おとぎ話ってそういうものよ。仕方ないわ。私、王子さまをお守りするの。ウィリアムさまの敵を、私、やっつけてあげるの」
幼い子供の無知な心。
絵本で読んだ世界が作りものとはわかりながら、影響を受けている。
敵とはなんだろう。ろくに考えもしないで、王子様には敵がいて、その敵をバッタバッタと、自分がやっつけて、感謝される姿を想像していた。
領地から、王都という遠い地へ「会いに行く」という行為が、ただ待つお姫さまより「王子さまの元へ行く」使命感のある姿を思い描きやすかったからかもしれない。
まるで茨に囲まれたお城の中に、肖像画でしか知らない美しい王子様が閉じ込められていて、それを救いに行くような。そんな、埒もない想像。
明るく無邪気で、自分勝手。
他人が自分に振り回されていることに気付きもしないで、いや、気付いていて振り回して「でも、楽しいでしょう?」と笑いかけて、相手が「仕方ないですね」と言ってくれるのをわかっているような、そんな子ども。
見上げたイーサンの眉間に皺が寄っているのを見ても、相手が何を考えているのか深く考えようとしない。そんな、子ども。
*
「何も願うな、何も求めるな」
強く、抱きしめ。
いや、敵意と憎悪を抱きながら、私の手を強く掴み、あの方は言った。
全て許せと。
相手が、望むように振る舞えと。そうすべきだと。突きつけた。そうすべきだ。そうしなければ、こうなると。
人が死んだ。
少しいじわるな、男の子。
私の所為で死んだ。
そして、先代国王さまも、私の所為で死ぬ。
私がお助けしようと思っていた、ウィリアムさまの、おじいさま。
私が身勝手だから。
私が何もわかっていないから。
私がだめな子だから。
私がちゃんとわかるように、教えてくれて、死んだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
血だまりの中で、顔を歪めて絶命したウィリアムさまのおじいさまを、私はただ見下ろして、泣きじゃくることしかできなかった。
なんて、ばかな子。
あれだけマイヤー先生が「ちゃんと」した子になれるようにと教えてくれてきたのに、しなかった。できなかった。
言われた通りにしていれば、男の子も、ウィリアムさまのおじいさまも死ななかったのに。できなかった。
いい子に。
ちゃんと、した子に。
なろう。
いつもにこにこと、微笑んでいて。
大きな声で笑ったりしないの。
突然動いたりしないで、いつもちょこん、と、大人しく部屋の隅に座っている子。
大人しく、静かに、本を読んでいる子。
「イヴェッタお嬢、さま」
領地に戻った私を、マイヤー先生は驚いたお顔で見つめていた。
「マイヤー先生、ごきげんよう」
以前、教えて貰った通りにスカートを軽く持ち上げて、片足を後ろの内側に引き、もう片方の足の膝を軽く曲げて、お辞儀をする。背筋はまっすぐに伸びたまま、それが美しい、正しい、ちゃんとした振る舞い。
「あぁ……お嬢さまッ」
先生は泣き出して、私を抱きしめた。
きっと、私がちゃんとできたから、嬉しくて泣いてしまったのね。そうなのね。きっとそう。
そうでなければおかしいわ。
そうでなければ、ならないわ。
穏やかに静かに、微笑んで、話し相手の言葉を聞く。何を考えているのか、何を望んでいるのか、わからないと、だめ。わからないなら、考えて、探さないとだめ。
(そうして、十八になりました。わたくし、イヴェッタ・シェイク・スピア)
眠りの中で思い返す。
思い出す。
国の外に出て知った事。出会った大切な人。感じたことの何もかも、思い返して、思い出して、思って。考えて。
何か叫んだ。
半狂乱になりながら、何か強く叫んだ。
怒っている。憤って、叫んで、強く強く、願った事、求めた事。
意識が途切れて、体の力が抜けて、それが誰かに受け止められる感覚があって、けれどそのまま、何もかもなかったことにして眠ってはいけないと、そう思った。
「……」
目を開けると、私の顔を見つめている黄金の瞳と目が合う。安堵している。気遣うような色が浮かぶその人に、私が感じるのは憐憫だった。
ギュスタヴィア様。
私はこの方が、いったい何を求めているのかわかった。
千の敵意も万の憎悪も意に介していないような方が望む者が何なのか、私にはわかった。
だから、そう振る舞った。
そうしてこの方は、イヴェッタ・シェイク・スピアに恋をした。欲しいものを持っているからだ。焦がれて、恋してくれた幻想のロマン。
(あなたは誰かに救われたいのではなくて、誰かを救いたいと願っている方。神を信じて人を愛して、誰も恨まず憎まずにいる可哀想なイヴェッタを、あなたは自分が救えば、自分が“ちゃんとした”生き物になれると。愛されると、そう)
「……ギュスタヴィアさま」
吐こうとした言葉はなんだったのか。
告げようとした事実はあったのか。
私は、口を開き、何か言おうとしたけれど、それより先に、ギュスタヴィア様が私の体を強く突き飛ばした。
衝撃。
上がる悲鳴は、ルゴの街で一緒にいたエルフの女性のもの。
目の前に、鮮血。
大きく、斬られる、白い姿。
ぐらりと倒れ、崩れ落ちるギュスタヴィア様の向こうには、見慣れぬひと。
「不敬、不敬、あまりにも不敬極まりない! が、赦そう! そなたならば赦しを与えよう! その振る舞いを我は許そう! 我らが花、我らが愛! 赦しを乞うて跪け!」
血の滴る剣を振り下ろし、私を見下ろすひと。人、人間、エルフ、ではない。
「……軍神、ガレス様」
「おぉ、! わかるか! やはり、わかるか! やはり別格! 格別の花よ!さすがは伯父上の花!」
長身のひと、ではなくて、神。
赤い燃えるような、実際燃えているのでは? と思う髪に、黄金の鎧。何者かなど問わずとも、私には「誰か」わかってしまう、これが、私と神々との関係らしい。
「姉上の一矢を弾いたその腕見事であった! が、不敬であるぞ」
「……」
「しかし赦そう! そなたは花! 時折、抜き忘れた棘もあろう!」
軍神は床に転がるギュスタヴィア様の体を邪魔そうに蹴り、豪快な笑みを浮かべた。
「折角ここまで成った花は惜しい! さぁ這い蹲れ! そなただけには神の慈悲も与えよ、」
寝言は、最後まで吐かせなかった。
私は床に転がっていた、私の首にあった鱗を拾い、掌に握りしめると、そのままご高説をのたまう軍神ガレス様に向かって、殴りかかった。
吹き飛ぶ、赤い髪の青年。
「ぶはぁっ!!!??」
私が殴ってくると思わなかったか、それともそれすらも子猫がじゃれつく程度とあえて受けたか知らないが、見事に決まった右ストレート!!
ありがとうお兄さま!!
などと、心の中で感謝しつつ、私は壁に激突したものの「……え? え? なんだ?」と、さして負傷はしていないが精神的に動揺されている軍神ガレス様を眺めた。
「聞いていらっしゃらなかったんですか。わたくしが滅ぼすと、そう言った傍からいらっしゃってくださいまして。そういうおつもりかと」
可愛いあの子はどこへ……





