37、造花のようになりたかった
聖女だ。神の子。奇跡の乙女だ、なんだのと。
イヴェッタは大勢の人に囲まれた。他人の顔に浮かんでいるのは興奮、高揚。一種の錯乱状態ともいえる程のもの。祈り、祈って、神がお応えになった。己の心に、神の存在を強く感じる事が出来たと、それは喜びで、喜びで、歓喜に満ちた人の心は抑えきれない。
善良な心を持つ者とて、理性を失わずにはいられないほどの、それは劇薬だった。
「下がれ、無礼だぞ」
歓喜歓声、乞う、請う人々はイヴェッタに少しでも触れようと手を伸ばし、髪、服、腕、足、頬、耳、奇跡の乙女の肉片一つでも、髪の毛一本でも得られればと、そのような、もう一度、神の存在を感じたいと願い求めた暴挙。か細い悲鳴を上げる間もなく、人の波にの飲まれ無残な姿にされそうになったイヴェッタを助けたのは、ひび割れた男の声。
神聖な間にて、これほどおぞましい存在はいないという手本のような姿。顔の半分が潰れ口が血や膿が滲んだ醜さ。神殿の恐るべき“ラングツェラトゥ”の登場に、集まった人々は一瞬で潮が引くようにイヴェッタから離れた。怒声や暴力を使わずとも、言葉だけで他人を従わせることのできる男。フラウ・ノートルは目を細め配下である騎士達に目くばせをする。心得た騎士達は街の人たちを外へ誘導した。怪我が治ったのであれば、外へ。まだ街は他にいくらでもすべきことがある。怪我が治ったのなら外へ。自分たちの街のために働け、とそのような。
「……」
「また、助けて頂きましたね」
「令嬢であれば己が差し出がましいことをせずとも、如何様にでも出来たでしょう」
人の手によって乱された服を整えながら、イヴェッタは顔を上げた。自身の前に立ち見下ろす者。
「よもや、令嬢。くだらぬことをお考えではございませんか」
「くだらないこと?」
「ご自分が、人の祈りの代理人になれるのではないかと。ご自分が、人を救えるのではないか、などと」
淡々とした指摘だった。イヴェッタは首を傾げる。
確かに。考えたことだった。
これまで祈りを請われたことはなく、初めて人と共に祈った。
イヴェッタは幸せを感じた。
自分のような者が、人の役に立てているという実感。神々に、多くの人の声を届けるお手伝いを出来た喜び。
自分が生まれてきた意味を、見つけられたような、そんな気持ちだった。
「人を救うのは聖人や聖女の行い。令嬢、貴方では成り得ない」
「なぜです? わたくしは、聖女と呼ばれたいわけではありませんが……神々の存在を、多くの人にお伝えできる、そういう……素質があると知っています」
「切り花と、なぜご自分がそのように呼ばれるのか、意味をお考えにはなりませんか」
それは、根から切り離された花。
与えられた水を有り難く吸い込んで、か細く生きる花。
「実を結ぶ事など望まれていない。ただ愛でられて、花弁を落として、枯れ果てる」
「だとしても、そうと望まれているとしても、わたくしが何かをしたいと、花が考えることもあります」
「ご自分を何だと?」
フラウ・ノートルの言葉に敵意や悪意はなかった。ただ、事実を伝える事を決めて淡々と行われる会話。
「人々は神の存在を“信じる”ことから何もかもが始まる。人は愚かで疑い深く、姿の見えない者、声の聞こえない者、自分が知らない存在を心から愛する事は、難しい」
信仰心は、神が人に与えた第一の試練だとフラウ・ノートルは語る。神々の存在。疑わず信じ、その全知全能さを理解し敬愛する。
例えば、ケーキを食べた事も見たこともない者が、ケーキという存在がこの世にあることを心から信じ、食べた事もないのに「自分はそれが心から好きなのです」と振る舞い続け、存在している事に感謝し続ける。一生涯、自分が口にすることも目にする事もないと、それは分かっているのに、だ。
「人は苦悩し、自身を傷付けながら歩き続け、その先に信仰を得るもの。――しかし御令嬢。貴方は違う。貴方だけは、違う。万人が感じられぬ神の存在を当然の如く知覚し、貴方は……貴方だけは、この世の誰の心も、理解できない。貴方は誰も、救えない」
「……」
そして、それはイヴェッタ以外の誰もが、けしてイヴェッタの事を理解できないということだった。
街の人々に奇跡が降った。それは、救いではない。怪我が治ればいいのだと、イヴェッタはそのように考えるが、それは「救い」ではない。
イヴェッタの、切り花の祈りに応え神々は祝福を齎すが、それは神々の権能で、イヴェッタのものではない。
「フラウ・ノートル様は、そうわたくしに言い聞かせて、わたくしにどのように振る舞えと、お望みなのですか?」
「何も」
他人が望むよう振る舞う楽さを、イヴェッタは思い出した。そして、僅かながらに心に刺さる棘の痛みから逃れようと、そのような事を聞くが、目の前の顔の潰れた男は小さく唇を動かしただけだった。
「神々の望まれるよう、ご自由に振る舞われればよろしいでしょう。神々にとって御令嬢の姿こそ麗しき花なのですから、存分神々の御心を楽しませればよろしいでしょう」
「……」
あら、と、イヴェッタはそこで不思議に思った。
突き放すような言葉の数々で、イヴェッタの足を竦ませるような、言葉ばかり降らせた人だったけれど。
「……わたくしを、案じてくださっているのですか?」
フラウ・ノートル卿はこれまで三度、イヴェッタを助けてくれた。何も望まず視界に入れる価値もないと捨て置く存在、あるいは関わらぬ方が世の為人の為とお考えなのであれば、助けることなどしなくてよかったはずだ。
「……」
じぃっと、イヴェッタは菫色の瞳をノートルに向けた。
放っておけば身の程を知らず、先ほどのような目に遭うかもしれない自分を、この方は、案じてくださったのではないか?
ノートルは視線を逸らさなかった。が、何も答えない。答える気はないが、嘘はつかないという事だ。
イヴェッタは微笑んだ。そして同時に、自分はこの方に何もして差し上げられないのだと思い知る。酷い傷を負っていても、イヴェッタに治されることを拒絶し、そして聖女や神官として共に神のしもべにならせてもくれない。
「ノートル様は、神さまに救っていただきたい、とはお考えにならないのでしょうか?」
「救いを求める人々の心が、正しい振る舞いをさせるものです。信仰が、人の世を万事取りまとめる為に必要なシステムであると、その力を信じています」
少し、イヴェッタには難しい話だった。小首を傾げると、ノートルは軽く目を細める。
「神に縋る為に人がいるのではなく、人の世の為に神は存在して貰わねば、困りますな」
「まぁ、そのようなこと……」
イヴェッタにとって、フラウ・ノートルという男は人の身であるのに奇妙な生き物のように思えた。
聖職者の装いをしている。彼自身、強い信仰心の持ち主であることは、疑う必要もなかった。けれど、イヴェッタが神々を想う心と、ノートルが神へ信仰する心は、異なるように思えた。
「フラウ・ノートル様」
(わたくし、竜になるのですって。切り花は、枯れずにいると、竜になって、人を焼くのですって)
(ノートル様、ノートル様。わたくし、嫌です。竜になど、なりたくありません。わたくしを竜にしたいだなんて、神さまの言葉を聞いてしまったら、わたくしの心から、信仰が消えたら。その時は、わたくしを燃やしてくださいますか)
口には出さなかった。礼儀正しく、服の裾を持ちあげて、頭を下げる。
「助けてくださって、ありがとうございました。わたくしは、やらねばならぬことがありますので、ここで失礼します」
「ご令嬢、貴方に」
去ろうとしたイヴェッタに、ノートルが声をかける。立ち止まり、イヴェッタは振り返った。
「?」
「神の御加護があらんことを」
印を胸の前で切って、祈ったノートルに、イヴェッタは微笑んだ。
「わたくし、そう言われたのは初めてですわ」
礼を言って、そしてまた歩き出す。
ギュスタヴィア様に、話をしに行かなければならない。
Twitterでイヴェッタさんとノートル卿の絵を描いたので、予定より早めにこのエピソードを。





