36、信仰
案内された神殿の奥。普段であれば多くの信者が祈りを奉げるための大広間は、呻き声と啜り泣き、汚臭と血臭に溢れる場所だった。
この街で最も神に近い場所だからと、重傷者、既に助からぬと判断された者はここへ連れてこられた。せめて少しでも心が慰められるようにと、せめてもの配慮。(あるいは、まとめて葬儀を行う時の、遺体を運び込む手間を考えて)
体が潰れた者。欠損したもの。胸に大きく穴が開いた者など、その凄惨たる有様は上げればきりがない。
「……」
イヴェッタはこれまでルイーダ国にて、多少の治療の心得はあった。しかしルイーダ国で戦争が起きたのはイヴェッタの生まれる前。イヴェッタの世代は戦争も、また大きな災害や疫病が発生することもなく「豊かな時代」と呼ばれた。その反面、美術や音楽などといった芸術の発展する時代となり、イヴェッタが外国の書物を多く目にすることが出来ていたのも、その恩恵である。
そのイヴェッタ。これほどの怪我人を目にしたことはない。あまりにむごい有様。
連れてきた神官はしまった、と思った。乳母日傘で育ったような細い腰の娘。いくら妙に強い治療魔法を使うからとて、何の前置きもなしにこのような場所に連れて来て気絶でもされてはたまらない。
見れば顔を蒼白にし、体を震わせている。気付け薬を取りに行かねばならないか、と倒れる前に神官が動こうとして、一歩、強くイヴェッタが足を踏み出した。
「止めてください」
膝を突き、祈りの言葉をイヴェッタが口にしようとした瞬間。イヴェッタの肩を強く掴む者がいた。
「ク、クレメンス様?」
領主ご子息、クレメンス様。神官は目を見開く。
「クレメンス様」
イヴェッタも驚き、名を呼ぶ。息を切らしながら、駆けつけてきたクレメンスは膝を突く。人の傷を悉く癒す女が神殿に行ったという話を聞きつけたクレメンスは、ここまで一人急ぎ駆けてきた。連れていた騎士達は街の避難や救助活動に行かせている。護衛として残った騎士は一人、慌てて追いついてきた。
「お止めください。もう、どうか。止めてください」
クレメンスはイヴェッタの祈りを止める。
「……」
イヴェッタは自分の肩を掴み、項垂れる青年をじっと見つめた。
「この街に、我々に、もうこれ以上、貴方の奇跡はいりません。貴方の奇跡は、我々には重すぎる。人の領域を遥かに超えた力を受けても、我々にはそれに見合う振る舞いができないのです」
街中に起きた異変。死んだ人間。この短時間に、ありとあらゆる悲劇をクレメンスは見てきた。潰された親友の残骸。狂気の中で叫んだ言葉を聞いた者から、クレメンスはこの街に、自分たちに何が起きたのかをおぼろげながら把握した。
全てはこの、おぞましき聖なる女の力がきっかけだ。
ルゴの街に降った奇跡。
誰もが喜び、口を開けて有り難くその砂糖菓子のような奇跡を受け取った。
けれど、予想もしなかった過分な菓子は人の身を蝕んだ。これまで抑えていた人の欲望、漂泊の上に成り立っていた平穏を崩した。
「……奇跡さえ、降らなければ」
こんなことにはならなかった。
クレメンスは唇を噛みしめ、イヴェッタを見つめる。美しい菫色の瞳の、令嬢。
「どうかこれ以上、何もせず。この街を去ってください」
「いや、坊ちゃん……アンタ……何言ってんだい?」
懇願するクレメンスにイヴェッタが何も言えずにいると、頭上から声がかかった。
ラルチェだ。ルゴの街をイヴェッタがダーウェたちと散策した時に、屋台でパイナップルを売っていた女性。
血塗れで、片腕をだらりと力なく垂らし、立っている。
活気があり表情の豊かだった女性の顔は、涙と汚れでぐちゃぐちゃになっていた。片腕に抱いているのは、人の頭。男性のものだ。共に屋台をやっていた夫。魔物に食われ、頭しか残らなかったものを、ラルチェはずっと抱いて離さなかった。
「……アンタ、名前は?」
「イヴェッタと申します」
「そう、イヴェッタさん。アンタ、助けられるんだろう?」
ラルチェはイヴェッタに膝を突いた。イヴェッタは顔を顰める。いかに神々とて、死者を蘇らせはしない。冥王様の元へ送られた魂は、そのまま冥王様の財産だ。人の身で、かの方の財産を強請ろうなどとは、あまりにも過ぎた願いだ。
「……旦那のことじゃない。アタシもわかってる。でもまだ、生きてる連中が、ここにはまだ、多くいるんだ。アンタは助けられる。なら、助けておくれ」
「ラルチェさん!」
イヴェッタに頭を下げたラルチェを、クレメンスが非難するように名を呼んだ。
この街を治める立場にある者と、ただの住民では物の見方が違うのは仕方ない。だから己が諫めねばならないのだと声を上げると、ラルチェが強く、クレメンスを睨み付けた。
「坊ちゃん、アタシはね。旦那が僅かの間でも、再び両足で歩けてよかったよ。あの人、治った途端調子に乗って、アタシを抱き上げようとなんかして。いい歳して恥ずかしいったらありゃしなかった。でもね、坊ちゃん。アタシは、旦那は、嬉しかったよ」
ラルチェの夫。少し前に街を襲った他国の兵との闘いで片脚を失った。気丈に振る舞う夫婦だったが、心に何も抱えていないわけではなかった。けれど、その重く苦しい感情が、わずかの間だったが消えた。それを齎したのが、イヴェッタだとラルチェは知り、今深い感謝を抱いている。
「ラルチェさん……過ぎた奇跡は、毒のようなものだ。この街を治める領主の一族として、私は、」
「今助かる命を見殺しにして何が領主だ。ごらん、坊ちゃん。クレメンス坊ちゃん、ごらんよ。今この場にいる連中、皆、全員、放っておけば死ぬ。アタシだって、そうだ」
ラルチェは抱いている夫の頭を少しずらした。ドクドク、と胸の下に穴が開いている。立っているのもやっとだろう重傷で、ここまで歩いてきたのは彼女の意地だった。
「坊ちゃんの言う通りだとして、また、奇跡が降って、何かあるとして。それを防いで助かる命があったとして、それに、ここの連中は含まれない。坊ちゃんが救おうとしている命に、アタシらは含まれてない」
「……」
「イヴェッタさん。アタシはいい。旦那が待ってるだろうから、アタシはこのまま助からなくていい。だけどね、ごらん、あっちにいるのは先月結婚したばかりの粉屋の息子。あっちは女手一つで娘を育てた花屋。子どもを産んだばかりの若い女に、息子を庇って魔物に食われたじぃさんもいる。ここにいる連中皆、皆、このままだと死んじまうんだ」
「…………」
「あんたの奇跡が災いになったと、坊ちゃんは言ったがね。そんなもの、何一つあんたの所為じゃない。性根の腐った連中はどこにだっている。ちょっと得をしたときに、それを悪いように利用する連中は、放っておいても悪さをしたよ。それを、アンタが何かしたからだと責めるなんて、そりゃあ道理が違うだろうよ」
ラルチェはこの場所に来るまでに、色々な噂や憶測を聞いていた。判じるに、聖女だと言われたメロディナや、それを担ぎ上げたバルトルが何かしでかしたのだろう。バルトルは良い子だったが、昔からあの子を知る大人。善良な善人だったと太鼓判は押せない。なんぞいつかやらかす危うさを、街の大人たちは「しかしまぁ、立場も責任も得たのだから大丈夫だろう」とそう判じ、良い面を強く評価した。
「……わたくしが、助けられなかったら?」
「うん?」
「わたくしの力は、魔法ではありません。技術ではありません。わたくしは神に祈るだけ。神様が、応えてくださらなかったら……」
あなた達は、死んでしまうと、イヴェッタの声は震えていた。
その問いかけにラルチェは少し目を見開く。驚き、何を言っているのだろ、この娘は、というような顏をし、そして、困ったように眉を寄せて微笑んだ。
「ばかだねぇ、この子は。その時はその時さ。そりゃ、出来れば助けて欲しいけど……神様に祈ってくれる、十分だよ。あんたの声は、誰より神様に届くんだろ?言っておくれよ、神様に。あぁ、そうだなぁ、アタシは……旦那と天国でまたパイナップルでも焼いて売るから、食べに来てくださいね、とでも言っておくれ」
「……」
この時イヴェッタは、ラルチェの言葉にただただ驚いた。
これまでイヴェッタは自分の心の赴くままに祈りを奉げ、神に話しかけてきた。
ルイーダ国にいる頃、神殿で手伝いをしたことはあるが、大神官様も他の方々も、イヴェッタに祈る事や願いを求めたことはない。
イヴェッタが誰かの為に祈ることは、そうしたかったからだ。自主的に心から願いや祈りが湧き、そしてそのまま両手を合わせ膝をついてきた。
「……」
祈ってくれ、と乞われた。
その事が、イヴェッタには驚きだった。
じぃっとラルチェを見つめ、目をぱちりとさせる。
クレメンスが何か喚いていたが、動ける者、神官たちによって押さえつけられる。
「……」
イヴェッタは考えた。これまで一度も考えたことがないことを、たくさん考えた。
祈りや、神は、何のためにあるのだろう。
祈りや、神は、誰のためにあるのだろう。
イヴェッタにとって、神々はそこにあるのが当然の存在。祈り応えてくださる存在。けれど、けれど、それは全ての人にとって同じではなかった。公正に公平に、ではなかった。
王族の妻になるはずだった己を振り返る。
この力を、この祈りを国のために使うことを求められていた。国を統治するものが正しく管理しようとされたのだろう。クレメンスの言うように、危うき事態を起こしかねない祈りの言葉を、分別のある人間がきちんと制御する「べき」だと、ルイーダ国の王族も、そのように考えたのだ。
(ヴィスタ様は私に祈るなと)
もう祈るな。何も願うな。お前の望みを何一つ心からわかせるなと、そう言われたのだったか。心臓を貫く感触に、流れる血に怯えながら言われた言葉は、イヴェッタは祈らずにはいられない性質だったから、それは蓋をしていたが、しかし、その言葉は楔となって、ある種の制限をかけてはいた。
(わたくしの声は、わたくしの祈りは)
イヴェッタは立ち上がり、歩き出した。大広間の中心に。呻く人の間をゆっくりと歩き、立ち止まって、そして再び膝を突く。両手を合わせ、目を伏せた。
じっと、人の視線を感じる。イヴェッタが自分たちのために祈ってくれるのかと期待する目を受けながら、イヴェッタは口を開いた。
「祈りましょう。わたくしは、あなた方の祈りが、神に届くように祈ります」
「……わしらの声は小さい。きっと、届かないよ」
「ただの人間の言葉など、神官さまとは違う」
「いいえ、いいえ。違います。届きます。聞いてくださいます。どうか皆さん、目を閉じて。祈ってください」
そう、この美しい娘に言われたのなら、仕方ない。怪我人たちは苦笑した。共に祈ろうと言われて、この神に近いとされる神殿の中。まぁ、もう腕も動かないし、目を閉じて、祈るくらいはやってみようと、そういう気になった。
魔力のあるお貴族様ではない。特別な力のある選ばれた人間でもない。けれど、祈るくらいなら、誰にでもできることだった。
頭から血を流す老人は、孫の無事を祈った。逃げる時に逸れてしまったが、襲ってきた魔物は自分の方にきたから、上手く逃げられただろうか。
子を失った女は、子が天国へ行けるようにと祈った。自分ももう長くはないけれど、あの子の名前や笑顔をきちんと思い出せる一番の人間は自分だろうから、思い出せる限りの思い出を浮かべて祈った。
ラルチェは祈った。夫のこと、そしてイヴェッタのことを祈った。神様、あの子。あの女の子。随分と、幼い。心が幼い。守ってくださっているのだろうけれど、このままじゃ危ういよ、心配だ。誰か良いひとが、あの子の夫にでもなってくれればねぇ、と、それはラルチェの価値感ゆえのことだったが、案じる心からのもの。
その時のことを、その場にいた住民は後に振り返る。
あれはまさに、まさしく、神に祈りが……自分の祈りが通じたと、実感した瞬間だった。
元々信仰心はそれなりにあった。生まれてから神に祈る習慣はあったが、それは朝起きて顔を洗うのが当然であるように、住民にとっては当たり前のことで、そして、その祈りに応えがないことも、当然のことだった。なぜ神に祈るのかと言われれば、そういうものだから、という程度。
偉い神官様や神子様、それに貴族の人ならいざ知らず、自分たちのような下々の人間の声が神様に届くなんてことを、夢見るようなことはしない。
それがあの時、イヴェッタという、あの美しい娘。この街の人間ではないと直ぐにわかる程、動きの美しい娘が共に祈ってくれた。その時に、胸に宿った暖かなぬくもり。目を閉じれば、暗闇ではなく、淡い光の中にいるような感覚。
実感した。震える程、歓喜した。
今、神さまが自分の言葉に耳を傾けてくださっているという、確かな感覚があったのだ。
神の存在を疑ったことはないとはいえ、実感できた時に溢れ出る歓喜。
見ていてくださっている。自分のような者を、今、神様は見てくださっているのか。
そう感じた住人が、次に湧き出た感情はただひたすらに、神への感謝だった。不思議なもので、あれほど「この怪我を、傷を治してください」と願っていたのに、それが消え失せる。ただただ、ありがたい。感謝を、神に伝えた。
そして、どうか聞いてくださるのであれば、苦しんでいる街の人間をお救いくださいと、そう願った。自分のことではない。他人のこと。自分は神の存在を感じられただけで十分だと、そう思った。
そして次に、この歓喜を抱かせてくれたイヴェッタという娘の幸福を願った。クレメンス様が何か言っていたのは、この住人の耳にも聞こえていた。過ぎた宝が身を亡ぼす、というのは確かに理解できる。だがこれは、あの娘の齎す奇跡は、そのような悪しきものではない。
害悪と罵る者が今後も出てくるかもしれないと、住人はそれを不憫に思った。それであるので、どうか、全知全能の神々よ、どうか貴方様の神子をお守りください、とそう願った。
沈黙が降りた。痛みに呻き続けた声も、今は静かに祈り、呼吸が嘘のように楽になっていた。厳粛な静寂。
その中に、イヴェッタが神に祈る声が響く。
「―――かく、ありますように」
そう、最後に結んだその時に、示し合わせたものではないというのに、この場の祈る者の口から同時に漏れた言葉。
「エレメン」
どれほど練習を重ねても、これほど自然に同時に、多くの人の言葉が重なることはないだろう。それほど自然に、同時に出た言葉。
イヴェッタの足元から、複雑な結界陣が現れ頭上から光の粒が降った。
そして、重傷だった人の傷は癒え、欠けた体すら元に戻る奇跡が再び降りた。





