閑話:一方その頃、スピア伯爵夫人は
スピア伯爵夫人、トルステは平凡な女だった。
裕福な地方貴族の娘として生まれ、何不自由なく育った幼年期。多くのルイーダ国貴族の娘がそうであるように、王都の貴族の子の通う学校で学び、卒業後は在学中に親の決めた婚約者ゼーゼマンと結婚した。
優しい夫に、子どもが三人。
上に男の子が二人と、一番下は女の子。有能であり人当たりのよい長男イワンに、やや楽天家な所はあるが要領の良い次男マルタ。臆病だが心根の優しい末娘。
最初に嫡男、次にそのスペア。子育てが落ち着いてから、他所に嫁がせて家門を広げるためのしっかりとした教育を授けられる女児を設けられたことは、子のことで悩むことの多い貴族の女としては「上出来」だと、夫人たちの集まりで冷酷に評されたことがある。
「本当に、羨ましい限りですわ。次から次に。やはり田舎の出の方は、慣れていらっしゃるのね」
末の子を孕んだ時に参加した、優美で優雅な女性たちの集まり。お茶を飲んだり、ピアノを演奏したり、詩を吟じたり。ホホホ、と笑い合う声の優しい空間で交わされる言葉は毒があり、柔らかな微笑みの裏には鋭い棘があった。女というものは一人一人はけして悪辣なわけではないというのに、少人数であればさほど濁りもしないのに、いくらか集まると互いに毒を垂れ流さずにはいられないらしい。
妬みや嫉み、他人が授かった幸福を自分が得られないと、不公平に感じる。そういう女たちの中に入り込み、トルステは他人の悪意に気付かない性質だった。
「まぁ、ありがとうございます」
田舎は子どもが多いので、子育て経験の豊かな乳母や産婆には困ったことがない。そのことを褒められたのだとトルステは微笑む。自分が家畜や、夜のことしか娯楽のない地であると揶揄られたとは思わない。
他人の毒も悪意も棘も、穏やかで善良な気質の伯爵夫人の身に突き刺さることがなかった。それであるので、愛し気に夫人の撫でるその胎にも、当然、他人の悪意は浸み込まない。
そうして生まれた子がイヴェッタ。
美しい女の子。
神に愛された子、愛でられるために存在する“切り花”なんだという話。
だが、そんなことはトルステにはどうでもいいことだった。可愛い子。大切な娘。たくさんの幸せがこの子の上に振りますように、と願って祈って、愛してきた。
他人を妬まず羨まず、毒も吐かない。
ただちょっと、儚げな微笑みを浮かべて、じっと隅に座って、ただ他人の記憶に自分が残らないことだけを願っているような臆病な子。
「あんたの子の所為で……!うちの子は!!」
その子が、他人を不幸にしていると、トルステは、呼びつけられた宮殿で、大勢の夫人たち。子を持つ母親に面罵された。
*
娘の悲しい追放事件から一月ほど。スピア伯爵は領地に戻った。元々、娘の卒業式、その後予定されていた娘の結婚式に参加する為に領地から王都の伯爵家屋敷へ来ていただけ。
当然トルステも共に行くはずだったが、イヴェッタのことで相談があるから、王都を離れる前に王宮に来てくれと手紙が来た。王妃スカーレット様からのもの。
もしや、聡明な王妃様であらせられるから、娘の追放を解いてくださるのかもしれない。トルステは無邪気に喜んだ。屋敷の者たちも、王族の、それもお優しいと評判の王妃様に悪意があるなどと考える者はいない。
皆が、愛してやまないお嬢さまのために、奥様、がんばってくださいね。お気をつけて。ドレスはこれがよろしいでしょう。お土産はどうします?王宮に招かれるなんてどれくらいぶりでしょう。だ、なんだと、和気あいあい。イヴェッタが家を出てから沈み込んでいたトルステや、使用人たちであったから尚更、明るい未来への希望と、華やかな話題に喜んだ。
普段、ちょっとのんびりしている奥様であるトルステも、自分が娘のために「しっかり」しなければと、頷いた。
「この王都にて、奇病が流行っていることはお前も知っていますね」
ひときわ豪華な椅子に腰かけ、立ち上がることのない豪奢な女性。豊かな金髪に青い瞳。女性らしい肉付きの体、第二王子の母であり、国王テオの妃であるスカーレット王妃殿下その人。同世代であるので同じ学び舎に通ったことのある相手だが、当時にしても公爵家のご令嬢であらせられたスカーレットは、トルステにとっては遥か雲の上の存在。
王妃様のいらっしゃる部屋にと通されたトルステが、部屋に入るなり、数人の貴婦人たちに囲まれ、突き飛ばされ、頬を打たれるのを黙って見ていた王妃殿下。
ひとしきりの暴力の後に、茫然とするトルステが床から身を起こせないでいるのを冷たい目で見下ろし、口を開いた。
「全てお前の娘、イヴェッタの仕業です。この女性たちは皆、お前の娘により子を呪われた被害者。お前の娘と同じ歳の子の母です」
「……」
トルステは何が起きたのかわからず、ただ目を丸くする。引きちぎられたネックレスに、引っ張られ崩された髪。ドレスのレースやボタンなど手に取れる物は容赦なく剥がされた。
殴られたことより、屋敷の者たちが「奥様にお似合いですよ」と用意し整えてくれた姿が見るも無残になったと、そのことをトルステは悲しんだ。
ボタボタと、鼻や口から血が滴り、「卑しい女の血で宮殿の床を汚すな」と更に叱責が降りかかる。
「……」
驚いて何も言えずにいる凡人を、王妃スカーレットは冷ややかに眺め続けた。
これまで恐れられてきた女。
平凡な顔で、神に愛される娘を孕んだしたたかな女。
あのおぞましいお茶会後、この女が高位貴族の女たちの集まりに呼ばれることはなくなった。何があって、我が身に、家族に不幸が降り注ぐかわかりやしない。しかし、媚びを売り、御機嫌伺などしたくない。
気高い貴族の女たちは、誰もがこの、無能で無邪気なだけの女に頭を下げなければならないことを嫌がった。疎まれ、避けられているとも知らず、トルステ・スピア伯爵夫人は自分がもっとも幸せな女だという顔で今日まで生きて来たのだろう。
「娘の仕業、でございますか?おそれながら、王妃様。それは、誤解です」
トルステは血を滴らせ、痛みで瞳をにじませながら、緩やかに首を振る。
「誤解?お前はこの者の子どもたちが、今も死ぬ事も出来ぬ苦しみの中にいることを知らぬのですか。知っていて、我が子を庇うのですか」
「いいえ、いいえ。王妃様。王都で、娘と同じ歳の貴族のご子息、ご息女の身に起きた不幸については存じております。けれど、それと娘は、無関係でございます」
この場に集められた女たちが声を張り上げた。罵声。よくもぬけぬけと。血と糞尿を垂れ流し苦しむ我が子を持つ女たちの悲鳴まじりの暴言は鋭く、必死だった。
口々に、罵り、そして王妃が一言許せば八つ裂きにしてやるという殺意と敵意。これまで、この女に関わる事を、高位貴族の女の誰もが恐れていた。
が、あの少女。マリエラという、元公爵令嬢。復讐心だけで第三王子やその側近たちを骨抜きにした狡猾な女の、神へ挑むような言葉。無傷で生還した姿。
居合わせた者、その話を人づてに聞いた者たちが、どれほど勇気づけられたことか。
神々の天罰は、下らない。
怒り、悲しみ、拳を振り上げても良いのだと、マリエラの姿が高位貴族の女たちを鼓舞した。
嵐の風のように飛び交う罵声を、軽く手を上げてスカーレットは止めた。
「水の大神殿、ツィッシア・グレゴリー大神官様があの奇病は呪いであるとお認めになられたのですよ。それも間違いだと言うのですか。スピア伯爵夫人」
「はい。わたくしの娘イヴェッタは、他人を憎み呪うようなことはいたしません。あの子は誰かを不幸にしたいと望むような子ではありません」
「ハッ。よくも、そんなことを」
これは、周囲の女たちの言葉ではない。王妃の口から、堪えきれず漏れた言葉だった。
喉の奥を引き攣らせ、スカーレットは片手で顔を覆い、表情を隠す。よくも、そんなことを。言えたものだ。
「大方、自分が追放されたことへの腹いせでしょう。あの娘が少し心で願えば何でも思い通りになることを、知らぬお前ではないでしょう」
トルステをこうして捕らえ、子が呪われたことで苦しみ、誰を憎んで良いのか、イヴェッタが国から出たばかりにその対象がなく苦しむ母親たちに宛てがう。これで一時は、彼女たちの不満も抑えられる。
表向きは、娘イヴェッタの犯した罪を償うために自ら王妃の側に仕えることを望んだとすれば、あの頭の弱いスピア伯爵もうるさくは言わないだろう。
「王妃様、なぜ……嘘をつかれるのです?」
ずるずると、髪を掴まれ、引きずられていくトルステは、不思議そうに、王妃に視線を投げた。
「あれは、病でしょう?なぜ、大神官様も、呪いだなどと……」
愚かな女の世迷い事。誰も気にはしない。





