11、嘘だらけの人生
誰の視線も感じないのは、あの卒業式の後のパーティから屋敷へ戻る途中、その、馬車の中で以来だった。
イヴェッタはあの時、馬車の窓の硝子に映った自分がどんな顔をしていたのか、覚えている。
「……」
落下して、下層部らしい場所に叩きつけられて、暫く。イヴェッタはゆっくりと立ち上がった。骨が砕けた気もするし、内臓がぐしゃぐしゃになった気もするが、こうして普通に立てている。大したことはなかったのだろう。立ち上がって、壁に手を当てる。完全に真っ暗だ。目が少しでも慣れれば周囲の形くらいわかるだろうか。
人の視線を感じない。イヴェッタは口元に笑みを浮かべた。誰もいない。屋敷から飛び出した後も、きっと誰かしらはついてきているかもしれないと、視線を感じていた。けれど、今はそれもない。
誰もいない。誰も、いない。人の目がないということは、見られていないということだ。
暗闇の中でイヴェッタは自分の顔に手を当てる。今、私はどんな顔をしているのだろう。そんなことを考えていると、少し目が慣れてきた。離れた場所に光苔でも生えているのか、ほんのりと見えるものがある。
「……あら、棺?」
てっきり自分は床に叩きつけられたと思っていたのだが、どうやら、棺のようなものの上に落下していたらしい。ぬるぬるしているのは自分の血だろう。壁際にぴったりと付けられた棺。石、にしてはつるつるとしている。イヴェッタが落下したことで、蓋の部分が割れて、血が中に流れ込んでいた。
「……」
絶対、ろくでもないものしか入っていないだろう。とうの昔に放棄された迷宮遺跡。その最下層らしい場所にある棺。
ダーウェや他の目があれば、のほほんと「あら、何かしら」とにこにこ笑って棺に手をかけたが、今のイヴェッタにそんなことをする理由はない。
ごしごしと自分の顔にべっとりとついた血を拭い、棺から離れる。イルミレアがなぜ自分を突き飛ばしたのか考えた。恨まれる覚えはないが、恨まれる覚えがあって報復されることは少ないものだ。
組合長補佐サフィールは悪役だと自身を考えているようだけれど、善良な人間が境遇から狡猾にならねばならなかった者は悪役ではない。サフィールは上位の冒険者を雇うに正当な金額、更には少し上乗せして十分すぎる金額を提示し、二人を雇ってくれたはず。
それであるのに、イルミレアが、言ってしまえば「裏切った」のはどういうわけか。
考えられる理由。
サフィールより、上位の存在がイルミレアを買収している、と考えるのが自然だ。ここでイヴェッタを亡き者に。あるいは妨害する。心当たりはいくつかあるが、現状最も可能性が高いのは、メロディナを聖女としたい者たちだろう。サフィール。冒険者組合の組合長補佐という立場の人間が態々口を利いた冒険者にちょっかいをかけられる、のは、組合長本人くらいなもの。
名は、確かバルトルと言ったか。そういえば、市場でクレメンスと共に去って行った男性の名もそんな名だったと記憶している。
「これは珍しい。」
「え」
ガタン、と音がした。
イヴェッタは棺の方から音がしたこと、そして、誰かの視線を感じた。警戒する、再び仮面を、という間もなく、体が硬く冷たい床に押し倒された。
「……」
薄明りの中、目が合う。長い、煌めく白銀の髪が天幕のようにイヴェッタの視界を遮った。
「神の切り花が、よくもまだ人の形を保てている」
いつのまにか、首筋には剣が突きつけられていた。腰に鞘がある。帯刀していた、男。誰だ。混乱する。仮面を被ろうにも、視界が遮られる。自分を見つめている金の目が確かにあるのに、神々の視線を感じない。
自分を組み敷き、見下ろす男。長い耳、白い肌。人間種ではない。長命な種族である、エルフの特徴に似ているが、悪魔だって耳は長いらしい。
首に痛みを感じた。剣が押され、首が僅かに切られていく。じわじわと、このまま刃を食い込ませるつもりか。イヴェッタは苛立った。その瞬間、閉鎖された迷宮遺跡であるはずの空間に、無数の雷鳴が轟き、男を狙うように雷の槍が降り注ぐ。
「邪魔をするな」
が、恐るべき勢いの数々はそれらが正しく男の体を八つ裂きにすることなく、男のただ一言で霧散した。
男は風が吹いた程度の感慨しか抱かず、自身の体の下で身を固くしているイヴェッタを見下ろす。
傲慢、尊大。自分を腐乱死体でも見るような目で見る金の目。イヴェッタは見知らずの得体の知れない生き物にそのような目を向けられる覚えはない。ぐいっと、両腕を張って男を押しのけると意外にも、男はあっさりイヴェッタの上から退いた。
「わたくしを知っているのですか」
切り花、という意味はわからない。が、時折耳にした。自分に聞かせたくない単語なのだろうというのは察していたので、聞こえないふりをしていた単語の一つだ。
男は軽く腕を振る。周囲が僅かに明るくなった。互いの顔くらいはわかる。長い、白銀の髪に、長身の、耳の長い男。顔立ちは恐ろしいくらいに整っている。イヴェッタはこれまで、これほど美しい顔を見たことがなかった。人外のものだろうと確信する。おおよそ、人間が持てる美しさを凌駕している。
男は長く、ゆったりとした白い衣をまとっていたがその衣は血で汚れていた。イヴェッタの血だろう。真新しい血は空気に触れて黒く変色していく。棺に腰かけ、男は目を細めた。
「そなたのことなど知らぬ。が、切り花なら我らが怨敵、我らが宿敵、我らが天敵。なれば殺す。で、あるが……」
淡々と語っていたが、男はふと、迷うように言葉を途切れさせ、口元に手をあてた。
「人の形を保っているのは初めて見た。見たところ、鱗もない」
「ありませんよ、そんなもの」
イヴェッタは否定した。魚ではあるまいし、鱗などない。この会話の最中、ドンドン、と、周囲から雷の槍や、火の玉が男に降り注いでいるのだが、男は軽く腕を振り、それらを全て弾いている。
少し考えるように沈黙し、男はゆっくりと立ち上がると再び剣を抜いた。
「が、切り花であるゆえ、殺すべきであろう」
「いえ、困りますがそんなの」
よくわからないが、その「念のために殺しておこう」程度で殺害されてはたまらない。イヴェッタは顔を引きつらせた。視線、この得体の知れない男が自分を見ているのに、イヴェッタは自分がちっとも仮面を被れないことが不気味だった。嫌なものは嫌だと、言えている。やはり、この男は人間ではないのだ。
「なぜ困る。そなた、人間種であろう。人間種は瞬きの間に老いて死ぬ。多少早まって何か問題があるのか」
「問題しかなくないですか。まだ十八歳なので、六十歳まで生きるとしてまだ人生の半分も生きていませんけど!?」
「些事であろう」
十八年も六十年も一瞬だ、とおっしゃる。イヴェッタは顔を引きつらせた。
「困ります」
「なぜ困る」
「家族が悲しみます」
「ハッ」
自分が死んだら、家族が悲しむとイヴェッタは知っていた。国外追放処分になったのも、親不孝と言えば親不孝だが、神殿で飼い殺しにされるより、両親はマシだと考えてくれるとわかっていた。
本気で言ったのに、男はなぜだか、馬鹿にするように鼻で笑う。美しい顔の男が、眉を寄せて、目を歪め、口元を引いて笑うのは、ゾッとする寒気のする美しさがあった。
「家族」
「そうです、家族です。両親や兄たちはわたくしを愛して、今も心配してくれています。わたくしがここで無残に死ねば、家族は嘆き悲しむでしょう。わたくしはそれを考えるだけで、辛いのです」
これは本心だった。自分が自暴自棄にならない理由。楽しく過ごさなければならないと思う理由。家族が、それを望んでいるからだ。どこか遠い地でもいい、のんびりと、おだやかに健やかに、笑って過ごしていて欲しいと、家族が願って望んでくれている愛情を知っているからだ。
イヴェッタは真剣に答えた。が、男は嗤う。おぞましいというような目をしながら笑って、ぐいっと、首を掴んで引き寄せた。
「そなたのようなもの、家族とやらが本気で慈しんでいたと思うのか」





