4、怪物
ジャン・ジャック・ゴルドー。
強欲の竜として孵化した男。元々は海を股にかける海賊だった。欲しい物を何でも手に入れようとして行って、手に入らないものを欲し続けて気が付けば全身が黄金の鱗に覆われていたという、これがお伽噺になるのなら「そうして竜になってしまって、自業自得でした」と教訓話にでもなっただろう人生。
ただ、最初に手に入れたかったものは、妹の薬だった。
目玉が出る程高いわけではなかった。
産まれたのは小さな港のある漁師町。そこで一日、魚が網にかかったのなら支払えるくらいの金額。これが、三日に一度は必要だった。
ジャンには寡黙な父と、優しい母。それに自分と病弱な妹の四人暮らし。日々の食事を少し切り詰めればなんとか妹の薬代を捻出できなくはなかった。
記憶ではジャンはいつも空腹だった。魚の骨を煮たスープだけは沢山あるし、塩も不自由はしなかったけれど、それだけではどうしても足りない。ただ、妹が咳をしながら「ごめんなさい」「ごめんなさい」と言う度に、どうしてお前が謝るんだと、たまらない気持ちになって、それが空腹よりもずっと堪えた。子供の自分でさえそうだったのだから、父母は自分以上だろうと思った。
ある年、海が赤くなった。時々あるのだと、漁師を長くやっている年寄たちは言っていた。
魚が獲れなくなった。
そして。
*
「……傲慢の。卿のそれはどういう感情なんだ?」
フン縛られたままでは移動もこちらの手間がかかるからと、強欲の竜の戒めは解かれて念のためにと黒竜の鱗で作られた杭が首に埋め込まれた。
何か余計なマネをすれば即座にジャンの首が破裂するという仕様。
監視の目的もあって、ジャンはイーサンの目の届く範囲に置かれた。
そうして目の前で繰り広げられるのは、剣を振るう貴族令嬢に熱心に戦い方と竜の力の制御の仕方を教える黒竜の姿である。
「……」
ジャンの問いにイーサンは視線を寄越すこともしない。
これがあの、傲慢に何もかも手に入れた皇帝なのかとジャンは若干がっかりする。
自分の生きた時代はイーサンより後だ。東の大陸の覇者となった巨大な帝国、その皇帝の伝説は子どものころから絵本や吟遊詩人が歌って聞かせてくれて、憧れたものだ。
それが今、大人しい従者のようなナリで女の言いなりになっている。
「それにそっちの、憤怒の竜になる予定の女も。思ったよりつまらなさそうだしな」
面白いかな、と思ったが、実際よく見てみれば、なんともつまらない気もしてくる。一時の上がったテンションが一気に下がったから妙に冷静になった、というのもあるのか。
ジャンはあの女を殺すために人の身を取り戻した。一時的に得た人の体。やりたい事は多くあると思ったが、これもやはり、冷静になってみれば、別になかった。
「……俺は、君たちの事情や、所謂……世界の秘密というものがよくわかっていないが……」
「……誰だ?」
ふと、ジャンの隣に男が腰かけた。
金の髪に緑がかった青い瞳の、どの時代にも女性が黄色い悲鳴を上げたくなるような美しい顔の青年だ。
エルフの船に切り花の娘、それに黒竜が乗っているという何の予測もできない搭乗者揃い。この顔の良い青年が王族だって別に驚きはないが、まぁ、王族がこんなところに護衛もつけずにいるわけがないだろうとジャンは自分の妄想を笑った。
「ウィリアムだ。君が切り花という……彼女、イヴェッタの、婚約者という立場になる」
「……それは、中々……気の毒だな」
品の良い青年だ。貴族かそれに近い身分であるのは間違いないだろう。
その青年が切り花の婚約者。当人が望んで、お互い恋愛の末でないことくらいジャンにもわかる。
男なら何もかも自分の思う通りにしたいだろうとジャンは思うので、自分の伴侶という最大の宝を自分の意思で決められなかったウィリアムに同情した。
「別に、私は彼女を疎んでいるわけじゃない。今は、私に何が出来るのか考えてる」
「止めておいた方がいいぞ。切り花なんてものに、ただの人間がかかわったってロクな事はない。俺の全身が鱗まみれになるって時、俺を助けようとしてくれた奴もいるが、良い死に方は出来なかった。当然だな。神の花を人に戻そうとするなんざ、不敬極まりないことだ。焼かれて死んでも、仕方ない」
あんたはそういう死に方は嫌だろうと言うと、ウィリアムも頷いた。
「その上、今後は俺だけじゃない。他の竜もあの女を狙ってくるぞ。死んでもらわないと次の切り花が産まれないからな。あの女が憤怒の竜になるのは難しいと、神々は判断した」
常なら早々に枯れ果てるだろうに、あの女の後見の神であるのが冥王ハデスだから、そうもいかないのだろう。
「その話だけは、私にも理解できた。その上で考えたのだが、つまり、君を殺しておけば、イヴェッタは「唯一」の切り花にならないんじゃないか?」
強欲の竜が死ねば、次の強欲の花がどこかに生まれる。
(あ、こいつ。この俺を殺す気で来たのか)
じっとジャンを観察する目。
これがどんな生き物なのか。竜というが、今は人の身。それがどこまで「人間」の枠の中に押し込められているのか探る眼差しの真剣さ。
「強欲の竜は孵化しやすい。人は欲の塊だからな。憤怒のあの女がいくら耐えても、その間に強欲の竜がまた孵化する。結局、孵化しないあの女が邪魔という状況に変わりはない」
他の竜が殺されようと、いずれ孵化する見込みは高い。だが、イヴェッタは生きている限り竜にならずにいる気なのだ。それなら、とにかくイヴェッタを始末しないことには始まらないと、それに変化はない。
が、そこまで考えて。
ぞわり、と悪寒。
この男のこの思考に、ではない。
例えば誰か。他の誰か。
……有り得ない話だが、そう。たとえば、この船。エルフの船だというが、なんだってエルフ。切り花にとって天敵たる種族が、切り花に協力しているのか。
例えば、そう。
有り得ない事だが、例えば、エルフの王族が。
エルフの……切り花を絶対的に葬っていた戦闘帝と呼ばれるエルフが、この男と同じ思考をしていたら、と、そんな悪寒。
現存する全ての竜をせっせせっせと、殺して行けば。何もかも一度全て、切り花からやり直させて、そこからまた、竜に孵化したとしても、殺してやり直し続ければ。
「……」
そこでジャンは、なぜ自分だけしかこの場にたどり着いていないのか違和感。
いや、だがまさか、たった数日で、神の守護を受けた竜が四体も消滅させられるはずがない。そんな怪物がこの世にいてたまるか、というのがジャンの思い。
「傲慢のあの黒竜が俺を殺していないのは何故だと思う?殺せないからだ。今、お前の目には俺が人間に見えるかもしれないが、見かけそのままの生き物じゃない。悪いが、お前程度の人間に俺は殺せないぞ」
「俺は顔だけでイヴェッタの夫に選ばれたような無能だ。そんな大それたことが出来ると過信はしない」
それは自分で言っていい話なのか。
諦めているのかと思い同情めいた目を向けるが、座っている顔の良い青年の目にはそう言った達観感はなかった。
「君自身で納得して死んでほしい」
「……は?」
「君は強欲の末に竜になり、今は神々のためにイヴェッタを殺そうとしているんだったな。その上で、君がどうすれば自分で死んでくれるのか教えてくれないか」
この男馬鹿なのか?
「なんで俺がそうしないといけないんだ?」
「私はルイーダ国の王族なんだが、王族などしていると、人が剣や病以外であっさり死ぬことがあるとよくわかる」
陰謀からの暗殺。名誉の死。服毒自殺。誇りから自ら、あるいは他人に命じられて自分の命を自分で終わらせる者がいることをウィリアムは示唆する。
「君の家族を人質にするのは難しそうだが、何かあるだろう。君が自分の何もかもを諦めて死んでくれるような、私が何を守ると約束すれば君は死んでくれるのか」
「……馬鹿なのか?俺は自分の欲望のためだけに生きて、竜になったんだぞ?」
「君は、イヴェッタを殺すのが惜しいと笑っていたな。君が竜になってから、どれ程経ったのか知らないが、その間に変わった世の中に興味があるとそう言った」
「戯言のようなものだ。別に、今冷静になってみれば、そう価値があるとは思っていない」
「だが君は、世に飽き世を疎んで竜になったわけじゃない」
ジャンは記憶を思い返してみる。
この船を襲った際に、このウィリアムとかいう男はただ狼狽えていただけだった。情けなく、狼狽して何をしていいのかわからない様子だった。
それが今、じっとじぃっと、ジャンの目を見て話し、探っている。
……王族の目だ。
強欲に生きたジャンは貴族、王族というものを見下してきたが、連中の持って生まれた傲慢さだけは気に入っていた。
連中はただ座っているだけで何もかも行える。
座っていれば領民が畑を耕し、税を納め、商売人は商いを行い、交易が産まれ、そして、邪魔だと思った存在は、座っているだけで、勝手に首を吊らせることができる。
そういう、特権。特化した、一種の能力。
ただの貴族でさえそうなのだ。それが王族ともなれば、規模は国中に及ぶ。
王の目が、お前は邪魔だから死んでくれと、そう求め。そしてそれはただの悪意でもない。
我欲。利己的な欲であれば並の人間が持つただの殺意でしかないが、王として見る目で射抜けば、それは「自分が死んだ方が良いのだろう」とそう、追い込んでくる。
「君は別に、世界が終わって欲しいわけじゃないだろう」
とんと、肩でも叩いてくるような親密さ。実際に叩いて来ているわけではない。ただ隣に座っているだけだ。それなのに、するりと、ジャンの心に入ってくる。蛇のような声。
ジャンの記憶が呼び起こされる。
幼い頃の記憶。
生まれ育った港町。
灯台のある岬には、今も妹の墓があるのだろうかと、そんな思い。
世界が消えてなくなれば、それらも消えるのかと、途端、惜しくなる欲。
「私であれば、叶えられる君の願いもあるだろう」
それはそうだ。
そりゃ、そうだ。
人の王であれば、土地一つ守ってやることなど造作もない。
しゅるりと容易く、心に入り込んでくるウィリアムの言葉。
妥協。納得。理解。
他人にそういう事をさせることが、悪魔的に上手い。
ジャンは溜息を吐いた。
仕方がないから、死んでやろうとそう思えてしまって、仕方ない。