テンコウセイ
「はじめ゛マじデ。てンコ霆「譬。ぅせいの、タナカでず」
その転校生は異形であった。
ぷちぷちとした塩気のある白い粒が喉に落ちていく。
母の握ってくれた握り飯を噛みながら、俺は席に座っている転校生に視線を向けた。
黒い学ランを着た背中が静かに上下している。彼はのんびりとした動きで弁当を咀嚼し飲み込んでは、小さな溜息を吐いていた。席の周囲に彼の友人は座っていない。どころか、彼の席の近くには、誰もいない。
この教室に『転校生』という異物が現れたのは、三日前のことだった。
転校生が来る、という担任の言葉に朝の教室が沸いた。気怠い空気は一瞬で消え、男か女か、という話題で俺達は盛り上がる。しかしその喜びは数分どころか数十秒ももたず、教室に足を踏み入れた転校生本人によって潰された。
学ランを着た彼は、ペタペタと足音を鳴らして教壇に上がった。目を丸くした皆の視線を浴びて、彼はゆっくりとこちらに目を向ける。教室の全員が彼の顔を見た。彼の目がギョロリと大きく見開かれる。俺の隣の席の奴が、うっ、と呻いて顔をそむけた。
はじめまして。転校生の、田中です。
彼がそう言ったのだと認識したのは五秒後だった。彼の声は酷く歪んでいて、俺の耳にはざらついたノイズにしか聞こえなかったのだ。タナカくんは東京からやってきて……などと担任が説明するも、彼の不明瞭な声はけっして訛りだなどと言う次元のものではなかった。
どこかおかしな転校生。最初のうちは、それでも彼に話しかけようとする者もいた。
けれど転校生は普通じゃないのだ。声だけじゃない。その顔つきが、目の形が、皮膚の色が、体形が。異形であった。転校生は話しかけてきた者に歪な顔を向け、聞き取りにくい言葉のノイズを走らせて、すぐに俯く。転校生に話しかけようとするやつは、一日もたたずにいなくなった。
「あいつ、絶対人間じゃあないね」
隣の席に座る佐藤氏が言った。サバをろくに噛まず飲み込んだ彼は、箸の先で転校生を指して身震いをする。
「あんな顔の人間を見たことあるか? 多分あれは、妖怪のたぐいだ。今はかろうじて人間らしく見えるよう、化けているんだろうさ」
「妖怪? 妖怪が転校してくるだなんて、そんなの聞いたこともない」
「前代未聞の大事件だ。真の姿でいるところを写真に撮って新聞社に送ろうか。きっと報酬をたんまりもらえるぞ」
「テレビにも映るだろうか?」
「映ったとしても、この村では誰も見るまいよ。テレビなんて高級品をもっている村人がいたら、ぜひとも友人になりたいものだ」
俺は鼻先にくっついたシャケをぺろりと舐めて、佐藤の言葉に肩を竦めた。
俺達の会話は転校生に聞こえていない。聞こえていたとしても、彼は怒ることなどせず、もっくりとした泥みたいな視線をよこして、また静かに俯くだけなのだろうけれど。
転校して三日で孤立するというのはさぞ心細いだろうと思う。彼がまとうどんよりとした雰囲気は、そのせいでもあると思う。
「山田くんや、山田くんや」
佐藤が俺の名を呼ぶ。なんだい、と首を傾げれば彼はこう言った。
「私と君が、田中くんの学友になってやらないかい?」
「俺が? まさか。君はさっき自分が言っていたことを忘れたのか」
「だからさ」
「どういうことだ?」
「常に近くにいたほうがきっと、彼の真実の姿を撮る機会が多いだろう?」
喜々として声を弾ませる友人に、俺は諦めてかぶりを振った。彼は本気で転校生が妖怪の化けた姿なのだと思い込んでいる。
しかし俺は友人の誘いに頷いた。実際のところ、自分自身もまた、転校生が妖怪であるのだと薄々期待していたからだ。
思い立ったが吉日、と佐藤は弁当をかきこんで立ち上がる。俺も慌てて残りの握り飯を胃に流し込む。佐藤は机の迷路をかいくぐり、転校生くんや、と彼の肩を叩いた。驚きと不安に満ちた顔で転校生が振り返る。
彼は何やらヘンテコな石を持っていた。薄く平べったい、何やらぐにゃぐにゃした色が塗られた石である。
「や。なんだいそれは。石の板、不思議な色をしている。それは石板か何かい?」
「…………き、キミ゛タチ、何の用だぃ゛?」
「やあ、これは失敬」
友人になろうぜ。と、佐藤と俺は笑みを浮かべて彼に言った。
***
「ヤッダ! 繧上=縺、ヤッダ。僕ガ、市、いぢばん!」
波が岩にぶつかり高くあがった飛沫が、海面に揺れる僕達にふりかかる。俺と佐藤は田中よりも数秒遅くゴールの岩にタッチして、海面を叩いて悔しがった。
海に面したこの村で、水泳は大きな娯楽だった。幼少期から友人や父親と競争をして遊んでいる身としては、外部から来た転校生に負けるとは、なんとも悔しいことだった。
「すごいじゃないか。君は水泳が得意なんだネ」
「うン゛。ヨク、父ザンに、習っていルのさ」
「そういえば君のお父上は漁師だったなぁ」
田中の父親は漁師だ。以前、港を歩いているときに田中と共にいるのを見かけ、挨拶をしたことが一度だけある。
磯の香をぷぅんとまとった父親は、息子と仲良くしてくれ、とニコニコ笑って田中の頭を乱暴に撫でていた。横に並ぶと、二人の容貌は歴然としていた。父は俺達と同じ顔であるのに、息子はまるで違うのだ。
「君は父親と顔が似ていないんだね」
田中は小粒の目をぎょろっと剥いたあと、頬をくっと持ち上げるようにはにかむ。
「僕、父さンど血が繋がっデいなぃんだ」
「義理の親子ということかい?」
田中は頷く。なるほど、顔が似ていないわけだ。俺は納得した。
「僕ハ母の連レ子でね゛。父さんど母は、ぁる゛集会デ出会ったノサ」
「集会?」
「神様ヲ崇め゛る会サ」
神様を崇める会。
俺と佐藤は顔を見合わせて黙り込む。田中は俺達の反応を知ってか知らずか、ぐちゃぐちゃとした声で説明を続けた。
「其の神ハ始祖様だと親は言ぅのダ。繧ー繝ュ繝?せ繧ッな姿をした、ぞの神を、両親はとデモ崇拝してぃりゅんだ」
「…………へえ。では君もまた、その神を崇拝しているのだね」
しかし田中は首を横に振った。海水に濡れていた髪が太陽光に乾き、パリパリと音を立てる。
「僕ハ怖イ」
「何故?」
「ソノ神は嫌ィなんダ。ナンダカ、おぞマしぃ゛。きっとアレは邪神ダ」
だから僕は別の神を崇めている。そう言って田中は空中に十字を切った。
「僕は僕ノ神を崇めデイる。両親の崇メル神に負けぬよう、僕ノ神に祈るノダ。祈りヲ続ければ、神は僕を救ってグレ゛る……。お救いクダサイ。お救いクダサァーイ」
田中は口から唾を飛ばして神に祈った。そして俺達のぽかんとした顔にようやく気が付き、顔色を変える。変な話をした、忘れてくれ、と早口に田中は言った。
「僕の両親にば絶対コノ話ヲしな゛いでぐれ」
元々青白い肌が余計青ざめている。俺はじわりと胸に広がる恐怖を隠し、作り笑顔を張り付けた。
神様を崇める。という行為は俺達にとってなんだか奇妙なものであるのだ。この村でも地蔵が立ち、親や祖父母の世代は「仏様」を敬って、祈りの言葉を捧げて過ごしている。しかし俺達のような子供世代は、神を崇める、という行為に何の思いも抱かない。むしろほんの少しの羞恥心を抱く。だから同じ世代である田中が神を崇め、また別の神を嫌っている、というのが少し可笑しく、少し気味が悪かった。
しかし両親の崇めている神を否定する、という行為が恐ろしいものであることは分かる。俺も今年の正月、仏に祈りの言葉を捧げる両親の横で「祈るのが恥ずかしい」と告げたことがある。あのときの拳骨の痛みと怒鳴り声は今も記憶に鮮明だ。「おれも昔はお前と同じだった。でも大人になると変わるものさ」と父は言って、それからまた祈りの言葉を捧げていた。
「可哀想な田中くん! 大丈夫。私達がその邪神から君を守ってあげよう」
「そうさ。我らが村の仏にも祈ろうじゃないか。邪神を倒す手助けをしていただこう」
「アァー。仏よ、仏よ。ドウカ田中くんをお救いたまえェーッ」
「アァー。お救いたまェー」
佐藤と俺は波の向こうに裏返った声を投げ、適当に手を打った。きょとんとした目でそれを見た田中は、アハアハと濁った声で笑う。
「君達はいい~人ダ。僕、最初は君達のゴドがこぁくて怖くてたまらなガったんだ」
浜辺に戻ったときに田中はそう言った。鞄から取り出した石板をすべすべと撫でながら。
「僕は君達ト違ヴ。ダカラ、君達がこぁかった。受け入レられ゛ないと思づて……」
「まさか。私達が君をいたぶるわけがないだろう。仏にまで祈ってあげたというのに」
田中は微笑んだ。俺達はアハアハと声をそろえて笑う。彼と友人になった本当の理由を言えるわけがないのである。
「ところで、君の両親が崇める神とはどれほどおぞましいんだい」
佐藤の言葉に、田中はニチャリと口をもごつかせて記憶を手繰る。浜辺に落ちていた貝殻を拾い、濡れた黒い砂の上に絵を描く。両親が信ずる神と、自身が信ずる神の姿を。
最初は何気なく見ていた俺と佐藤の目が、大きく見開かれた。ザンザンと泡立つ波の音が遠くに聞こえた。
「こンな姿ダよ」
俺と佐藤は、田中に気付かれないようにそっとお互いの目を見つめた。彼の顔は青くなっている。きっと俺の顔も同じ色をしている。
田中の両親が崇めている神は、村の仏像と同じ顔をしており。
田中が崇めている神は、俺達が見たことのないくらいおぞましい顔をした化け物だったのだ。
「ア」
突然彼があげた声に、俺達は大げさなくらい驚いた。彼は石板を手にしたまま、ポカンと目を丸くして海の向こうを見つめた。
どうしたのだい。と俺は声を震わせて聞いた。ナンデモナイ、と彼は歪な声で答えた。
ニヤニヤと笑う彼の横顔がいやに不気味に見えた。
「大変なことになったぞッ」
佐藤は頭を抱えて、ブルブルと肩を震わせていた。夕暮れの学舎は燃えるような赤に染まっていた。赤い光に頬を照らされながらも、佐藤はスッカリ青い顔をしていた。
この間見たおぞましい神の姿が俺達の頭から消えないのである。改めて思ってみれば、その神の顔は田中の顔と似ているような気がした。
「田中氏は気が違っている。彼の信ずる神こそが邪神であるのだ。しかし彼はその神こそが救いの光だと疑わない。ア、ア。どうしたものか」
佐藤の頬に浮かんでいた大量の汗がぽたりと手の甲に落ちた。ぬるついたそれは皮膚の上を流れ、床に吸い込まれていく。
田中と交流をするなかで、俺達は彼のことや彼の両親について知るようになった。
彼の父親は元々この村の出だったらしい。この村で生まれたものはあまり外に出ることはないが、仕事の都合上東京に出たらしいのだ。そこで配偶者を得、三人の家族になった。その後故郷であるこの村に戻ってきた、ということだった。
彼がアンナことを言うものだから。その両親はどこかおかしい人なのではないかと思ったものだった。しかしそんなことはない。彼の父親は評判のいい漁師であり、彼の母親も顔の造形こそは田中氏に似て不細工であったものの、俺達ににこやかに微笑んでくれるよき人であった。ただ熱い信仰心を持つ方々なだけであった。
両親は邪神を崇めている? とんでもない。彼らが崇めている神は、俺の祖父母が毎日熱心に祈りを捧げる仏であり、父母がたまに掃除をしている神棚で見る仏であり、俺や佐藤や他の学友達が大晦日や正月に祈っている仏であり。
つまるところ。邪神を信じているのは田中の方であった。
「落ち着きたまえよ佐藤くん」
「こ、こ、これが落ち着いてなどいられるかぁ」
佐藤は泡を食って立ち上がった。緊張でねばついた汗がにとにとと光る。
「彼は言っていた。僕は祈り続けていると。祈り続けていれば、神は僕を救うのだと」
「ウン。確かに」
「ならば彼の祈りによって本当に邪神が現れるかもしれない」
「こ、この村が本当に邪神に襲われてしまうと?」
「彼は真の妖怪であったのだ。それも、私達が想像していたよりもより恐ろしい。真の姿を見るために共にいるなどと悠長なことをしている場合ではなかった」
そんな馬鹿な、と一蹴しようとして俺は口を閉ざした。熱心に仏に祈る親や祖父母の姿を思い出したからだ。この村でも昔から、仏に祈りを捧げることで豊漁の恩恵を得ることができている、などと考えている年配の者は多かった。
お救いクダサイ、と海に祈っていた田中の声が記憶によみがえる。あまりに必死な声だった。ぶつぶつと鳥肌が立つような、必死で躍起で信に祈っている声だった。お救いクダサァーイ、お救いクダサァーイ、お救いクダサァーイ…………。
「止めなければなるまい」
己の声が酷く強張っているのが分かった。
そうだ。止めなければなるまい。邪神が現れることを、彼の祈りを、止めなければならない。
どうやって。と佐藤が声を震わせた。どうすればよいかと頭をしっちゃかめっちゃかにかき回し、一つの答えを引きずり出す。そうだ。古くより、妖怪の倒し方など決まっている。
「殺すのだ。俺達があの醜悪な妖怪を殺し、この村を守るのだよ」
***
田中は海にいた。高い岩の上に座る彼の背中が、暗い空の下にぼんやりと見えていた。
俺と佐藤はそうっと足音を立てずに彼に近付いた。距離が縮まるにつれ、そちらから、何やら小さな声が聞こえてくる。まるで誰かと話しているような声だ。
「神への信仰を゛忘れでハナリません。神は必ズあなだのごどをォ救いくだざりゅでしょう」
「サァーッ。次の繝九Η繝シ繧ケでず。今年ハ魚が大量にトレるため、タクサンの船が沖にニニニニ」
「元号が変わ゛りマす。元号゛が変わりマス。次の元号はァー……」
田中くん。と声をかけると、彼は勢いよくこちらに振り返った。凄まじい形相がこちらを向く。ひ、と佐藤が息を飲んだ。
田中はそこにいるのが俺達だと分かると、慌てたように微笑んだ。
「やァ゛君達か」
「やぁ我らが友。こんな所で、何をしているんだい?」
「海を見デイるのサ」
「もう日が暮れる。この辺りは街灯が少ないから、早く帰った方がいい」
「アァ、ソぅダネ……」
「今ここに、誰かいたのかな?」
田中はじっとりとした目で俺を睨んだ。固まる俺に、彼は黙って首を横に振る。
岩の周りに他の人影はない。彼は一人、己の心とお喋りを楽しんでいただろうか。いや、しかし彼は嘘をついているのではないか。本当は今ここに、確かに誰かがいたのではないだろうか。
もしや、神とか。
ゾッと顔から血の気が引いた。
「ア。お前゛」
不意に声がした。草が生えた大地の上へ、誰かが立っている。しっとりとした美しい着物の上に乗った歪な顔が、田中によく似た女性であった。
「こん゛な所にいダの。帰゛りを今ガ今カと待ってイダノ゛に……」
下駄に砂が入らぬよう慎重に歩いてきたその女は、彼の手元を見て、アッと声をあげた。下駄で砂を弾きながら早足でやってきたその人は、岩に縋り彼に手を伸ばす。
「い゛けなイわ、いげなぃわッ。それに触レデはダメだと、言ったワ!」
「ワ、分かったよ、母サ゛ン。ゴメンヨ」
「オガジな琴を、じていナいでしようね? 救いを求メダ? イイエ。無理よネ。力がナイノダモノ……」
慌てふためく女の姿と、力、という奇妙な言葉に俺は首を傾げた。しかしそこで田中を見てみれば、彼が何かを握っていることに気が付いた。石板である。
救いを求める。力。石板。神。
不意に女が俺と佐藤を見た。田中と同じ黒々とした異様な眼球に見つめられ、舌の根が突っ張った。
「アナタ達ワ゛……」
「か、彼の友人であります」
友人、という言葉に女はほっとしたように溜息を吐いた。息子をよろしくお願いいたします、と彼女は深々頭を下げる。
「この子ハ頑固なトコロガありマすので……。どうぞ、親シク……よろしュう……」
「は。勿論でございます」
「何カおかしな事ヲしてい゛たら、ぜひ、止メていだだきだいのデス」
「は?」
着物の生地が女の動きに合わせてこすれ、シャリ、と冷たい音を立てた。吐息を吐くようにか細い声で、女は奇妙な願いを俺達に伝えた。田中は岩の上でぼうっと海の向こうを眺めており、女の行動には気が付いていない。
帰リまスよ、と女が言った。田中は岩から滑り降り、母親を置いてそそくさと行ってしまう。自身も立ち去ろうとした女を佐藤が慌てて呼び止めた。
「お待ちください。おかしなこととは何でしょう。やはり彼は、この村を嫌っているのでしょうか」
「気ヅイテおられ゛たノですね……。ええ、あの子は、コノ村を受け入レルことはできなかったノデス」
「もしや。彼が持っているあの石板に、秘密があるのでしょうか」
「セキバン…………」
女は口を閉ざし、薄く顎を引いた。小さな肯定であった。
「アノ石板には、今、力は宿ってイナい。シカシひとたび力が宿れ゛ば、あレ゛は、彼を救ウモノになる」
「彼を救う力…………」
「コノ村には幸い、力を宿すこ゛とのデキル場所がナイ。シカシ、万一の可能性もアりましゅ」
「そ、そうなればこの村はどうなるのです」
「おそら゛ぐ、コレマ゛デの平穏は消エルでしょう」
ザァ、と波がつま先を撫でた。白く濁った泡がぶつぶつと足の裏をくすぐっていく。
俺の顔はきっと、この泡のように真っ白になっているに違いない。
日頃から彼が手にしている石板。あれはおそらく、邪神を降ろす媒体となるものなのだ。その『力』というものが宿れば、すぐにでも田中は邪神を召喚するに違いない。
……落ち着け。彼の母君は、今の石板には力がないのだと言っている。まだ神を降ろすことはできないはずだ。
「だカら゛。アの子が石板に話しかケでいだら止めてイタダきたいのです。ソレコソ、石板に力ガ宿ッた証ナノデ……」
「エッ!」
どうサレマシタ、と女は目を丸くした。俺と佐藤は慌てて首を振った。
「なんでも。なんでもないのです」
なんでもないわけがない。
さきほど彼は、石板に話しかけていたのだから。
田中は海にいた。高い岩の上に座る彼の背中が、暗い空の下にぼんやりと見えていた。
俺と佐藤はそうっと足音を立てずに彼に近付いた。距離が縮まるにつれ、そちらから、何やら小さな声が聞こえてくる。まるで誰かと話しているような声だ。
「神ヲ信じなさい。神を信じナサイ。アナタハ必ず救わレ゛ル゛」
「サァーッ。次の繝九Η繝シ繧ケでず。××県の浜辺ニ、巨大なタコの怪物ガアアアアア」
「元号が変わ゛りマす。元号゛が変わりマス。次の元号はァー……」
今度は声をかけなかった。
田中は水泳競争をした日以来、よく海に来ている。海が好きなのだろうかと思ったが、違う。きっとこの海こそが、石板に力を宿すことのできる場所なのだ。
今は真夜中であった。村中の誰もが寝静まった丑の刻である。そのような時間にも関わらず、彼は海にいた。
「ア、ア。助ケテクダサイ。僕゛は、モウ、限界なノだ。気が狂゛ってシまう。聞イでクダサイマシ。僕の父ハ、母ハ……ココは……」
田中は石板に向かって唾を飛ばして叫んでいた。
と、石板を見て、俺は声をあげてしまいそうになるのを必死でこらえた。
石板が、ぼぅと光っている!
真っ暗な景色のなかで、太陽のように、ビカビカと光っている!
「妖怪め!」
俺と佐藤は一気に飛びかかった。田中が悲鳴をあげて岩から落ちた。
ザブンと黒い波が彼をさらう。俺達はそれを追いかけて海に飛び込んだ。目を白黒させた田中は、俺達の姿を見てハッと目を見開く。
「君達、何ヲす゛るッ」
「君の思い通りにさせるものか。この村を邪神に襲わせなどしない」
死ね妖怪め、と声を張って手にしていた包丁を振り上げる。田中はサッと顔色を変え、俺達とは逆の方へ進んだ。つまりは沖へと。ザブザブと波をかき分けて彼は進む。俺と佐藤も包丁を持って彼を追いかける。
「キ、キ、君達は狂ッてイル」
「何を言うか。気が違うのは、田中、君の方だ」
違ウ、と田中は泳ぎながら叫んだ。
「オカシイのは君達ダ。オゾマシイのは村の方ダ。何故、君達ハそんなイビツな顔をシテイル。何故、肌が青イ。村中が生臭イ゛魚の死臭でツツマレテいる。まるで、魚の村ダ!」
彼は何を言っているのだろう。
生まれたときには不気味な赤い肌が、成長と共に綺麗な青緑色になっていくのは普通のことであろう。年を取るにつれて、皮膚がたるみ、首にエラが生まれるのは当然のことであろう。香しい魚の香りが村中にあふれているのは当然のことであろう。
田中の黄色い肌色も、頭にワサワサと生えすぎた髪も、瞼がついた小さな目も、高く伸びた鼻や耳も。どう見たって歪な顔をしているのは彼の方なのに。
「テレビも、ネットも、繋ガラナカッタ。電波がなイのは、連絡を絶ツためだ。辛うじて海だけが繋ガル。きっど隣島の電波ガ流れてキテイルのだ。近くニ、普通の島ガアルのだッ」
田中は波を掻き分けてみるみるうちに遠くまで泳いでいく。お救いクダサァイ、と彼は悲鳴のような声で助けを求めた。
「神様、どうかお救いクダサイ。僕を、人間ノ世界に帰ジデくださぃ」
「仏よ。我らが仏。悪しき邪神を呼び出そうとする田中を逃がしてはなりませぬ。どうかお力を、どうか」
俺と佐藤は声を合わせて仏に祈った。父や母や祖父母が口にする祈りの言葉を、このときはじめて、真剣に叫んだ。
「いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ!」
突如目の前に高い波があがった。数メートルもの高さがある波は、俺達三人をまとめて食らった。
あっけなく波に飲まれてしまう。海の中に沈もうかというそのとき、田中の手から離れた石板がポーンと空を飛び、声をあげた。
「…………エーッ、元号が変ワりマした。元号が変わりマ゛ジた。新シい元号は、令和。令和でアリマス。令和でアリマス…………」
元号とはなんであろうか。
そんなことを思いながら、俺は海に飲み込まれた。
口から吐き出す泡が上にのぼっていく。夜の海はどこまでも暗く、僅か数センチ先すらも見えない。田中の姿も、佐藤の姿も、見つけることができなかった。
ぬるりとした何かが腕に触れた。
雷が体を撃つ。心臓が恐ろしく跳ね上がり、口からこぼれそうになった。
今自分の体に触れたものが、己の体長の数倍も大きな分厚い唇であると、瞬間的に理解したのだ。
何も見えない。けれど、すぐ目の前にとんでもないものがいると理解した。
圧倒的な存在感がそこにあった。
ゴーッ、と海面からモーターのような音がした。突如、眩い光が水中を照らす。
「アッ!」
目の前に、仏がいた。
俺達と似た姿をした、美しく巨大な存在が、泥濘のような目を俺に向けていた。その巨大な口を開けて今にも俺を食らおうとしていた。赤い口内にびっしりと生えた臼のような歯。そこに見知った学生服の切れ端が挟まっているのが見えた。
仏像でしか見たことのない仏が、そこにいたのである。
仏は光を浴びた瞬間、大きく顔を引いて、口を閉ざした。
くるりと踵を返し、海の底へと潜っていく。長い尾が水を叩き、生まれた衝撃波が簡単に俺の体を水面へと吹き飛ばす。
「オゥイ。オゥイ。助げてェ。神さマァ゛。タズケテェ」
田中の声が聞こえた。ぐわぐわと揺れる頭を押さえて、俺は眩しく光るものを見た。
ゴーッ。と機械の音がする。すぐそこに小さな漁船が止まっていた。
田中と似た歪な顔をした漁師が、驚いた顔で俺達を見つめていた。
***
「山田さん、山田さん」
俺は目を開けた。
白い部屋である。布団も、天井も、床も、全てが白い。そんな部屋に俺は横たわっていた。
看護師がこちらを覗き込んでいる。化け物じみた顔を間近に見て、俺は思わずうなって顔をそむけた。気に障ったのか、食事のお時間です、と冷たく言い放った看護師は盆を置いたかと思うと、鼻をつまんで足早に部屋を去った。
盆の上に、白い飯と焼いた獣の肉が乗っている。ぷぅんとした臭いが鼻をつき、思わず胃液を吐き出しそうになった。肉は嫌いだ。魚がいい。海に潜り取ったばかりの魚をつるつると喉に流し込めたらどれだけ美味だろうか……。
生臭い肉をしかめっ面で噛む。親も村も失った今、俺を生かす食事はここでしか得ることができないのだ。
枕元に置かれたテレビから音が聞こえる。付けたまま眠ってしまったのだろう。
あれだけ憧れていたテレビというものは、思っていた以上に奇天烈なものであった。小さな箱の中で人間が動いている。看護師が言うにはリモコンというもので操ることができ、様々な人間の姿を生み出すことができるのだという。
しかしバングミを変えたとて、出てくる人間はほとんど同じ人物であった。
どこにでも、田中がいるのだ。
「本当に神様がきてくれた! と思いました」
彼はそんな言葉をひっきりなしに繰り返す。スタジオ、と呼ばれる場所で、大勢の人間に向け、見たことがないほどの眩い笑みを浮かべている。
「僕の母さんは怪しい宗教にはまっていました。だ、だ、ダンゴ? ダン……? とかいうよく分からない不気味な化け物を神様だって崇めて。母は集会であの男と出会ったんです。新しい父親だなんて思いたくなかった。あんな化け物。
でももっと最悪なのは引っ越してあの村に着いたときでした。だって、皆父親と同じような顔をしていたのですもの! 近所の人も、学校の生徒も、皆化け物……。後から知ったんですけど、どうもあの村の人達は、その変な神様の末裔らしいんです。そりゃ、あんな気持ち悪い姿にもなりますよ!
僕はどうしてもあの村が受け入れられなかった。いつも脱出の機会を伺っていたんです。話しかけてきた化け物と友達になったフリをして、普通の子供を演じて、できるだけ注目されないように過ごした。こっそり脱出する方法を探していた。
唯一の救いはスマホでした。はい、このスマホです。カバーは自作なんですよ。好きな色を塗って作った自分だけのスマホカバー。ネットに繋がらなくても写真を見返したりするだけで落ち着いて……はい、あの村には電波が届きませんでした。テレビもネットも何にもない。だからか村全体が妙に古臭いんですよ。発展して、外部と関わりを持つことを恐れていたんでしょうね。そりゃそうだ。あんな化け物村、外に知られたら終わりですよ。
電話も通じない場所だっだから母も無理矢理スマホを取り上げることはなかった。使っているところを見たら、怒ってきましたけどね。警察に連絡するんじゃないのかって疑って疑って……。
でもある日海辺で電波が通じたんですよ! 多分あの村で、あの場所だけが電波が通じる場所なんです。近くの島とか船からか分かんないですけど。もう本当に嬉しくて嬉しくて! ……警察? 勿論すぐ電話しましたよ! でも支離滅裂なことを言ってしまったからか、薬をやった奴のイタズラだって思われちゃって。しばらくは落ち込んで動画なんかを見て過ごしていたんですけれど、そうだ、動画を取ってアップすれば信じてもらえるはずだ、って考えました。
ま、その動画を取ろうとする前に友達に殺されかけまして。必死に泳いで逃げたら運よく漁船に拾われて。はい、そうです。そこからはご存じの通りです。村の存在が知れて、村人全員が逮捕や病院行きになって、僕はようやく脱出できた!
ずっと神様に祈っていました。父さんや母さんが邪神に祈っているのなら、僕も神様に祈って救ってもらおうって。いや、神様って本当にいるのかもしれませんね。漁船に助けられたとき、漁師さんが神様に思えましたもん」
「田中さん、お話ありがとうございます。さて皆さん。お聞きになったでしょうか。令和を迎えたこの時代に存在した、恐ろしい化け物の村! 本日はその村で恐怖を体験したこちらの田中さんをお迎えして、この村の怪奇に迫りたいと思います。本日のコメンテーターはこちらの…………」
どのバングミを見たって、現れる人間は全て異形の形をしている。
肌は黄色く乾燥している。目は顔の横ではなく正面に付いている。エラもなければ触手もない。不気味な姿…………。
いや。この世界で異質なのは己の方だと、もう分かっているのだ。
「ォれ菫コ縺ッは」
ボソリ、と言葉を吐く。
「ニんゲ、縺ォ繧薙£繧ナノダ」
俺にとっては。聞きなれた己の声こそが「正常」であった。
「俺はニ゛ン゛ゲンなのダ!」
大声が廊下に響く。看護師らしい足音がバタバタと近付いてくる。
たとえ、村の外が令和という時代を刻んでいても。テレビがあって、ネットというものがあって、村人の何倍もの人間が住んでいて、そのほとんどが田中と同じ顔をしていても。俺と同じ顔をした者がどこにもいなくても。
「山田さん? 大丈夫ですか、山田さん?」
看護師が数人部屋に入ってくる。その顔は、やっぱり不気味で、おぞましかった。
正常であるのは俺なのだ。
異質であるのは彼らの方なのだ。
俺は唾を飛ばして祈りを捧げた。看護師に止められようが構わず暴れ、祈りの言葉を繰り返した。
「いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ!」
どうかお救いください仏よ。我らが神よ。あなたの子の願いを叶えてくださいませ。
海に、帰りたい。
俺はそう願ってやまなかった。