第五話 夕星
ブラヴァツキー夫人、とホワイトボードに書き込んでいく柳井。吉暉は、なるほどと頷いた。
「帝国主義の時代ですね。だから、インドとも関係してくる」
「話が早くて助かるよ」
応答する吉暉に柳井は笑顔で応じる。教え甲斐のある相手だと思ったのだろう。磯野の目から見ても、嬉しそうだった。
「磯野、あんたぜんぜんわかってないでしょ?」
「まったくわからない」
「わたしも」
「お前もかよ。なんでトゲのある言い方したんだよ」
磯野と怜がそんなやりとりをするが、慣れている柳井はお構いなく話を続ける。
「そう、世界は繋がったんだ。すると、キリスト教のみではない、優れた思想や哲学があることが多くの人に知られるところとなった」
「いや、でも人類はどこにでもいて、それぞれ文化を持ってるんだから当然じゃないですか?」
磯野の尤もな言葉に、柳井は頷く。
「現代の視点ではその通り。だが、そうじゃないという時代もあったんだ。それこそが帝国主義時代だ。自分たち以外を未開の地だと呼んでね。そしてここは、転換点でもある」
柳井はそう言うと、ホワイトボードに書かれているブラヴァツキー夫人の名をペン先で叩いた。
「優れた哲学者が古今東西に現れたということを指して彼女は、こう考えたんだ。預言者……神の言葉の代弁者、あるいは宇宙の真理を知る者が時代に適応した形で言葉を発し、そこから宗教が成り立ったのではないか、とね」
反応は皆、似たようなものであった。言っている本人である柳井でさえ、困ったように笑っていた。
「当時のヨーロッパは科学が発展する一方で、未知の存在への興味関心が高まったんだ。未だ明かされぬもの、理解のできないものとして彼らには、仏教やヒンドゥー教が魅力的に見えたんだろう。尤も、理解のできない哲学や理念も多く、誤解を多分に孕んでいるけどな。そして、そういた宗教の中に登場する賢人たちを指してブラヴァツキー夫人はこう名付けたんだ」
きゅっ、と高い音を立てて『マハトマ』とホワイトボードに書き出された。
「偉大な魂、を意味するが、こういった真理に近づいた思想を持つ者、あるいは魂を目指そうというのが、近代神智学の教えのひとつだ。ああ、ようやくサナトクマラの説明ができるな」
ここからが本題だと知るや、磯野と怜は露骨にげんなりとした顔をする。それを目ざとく見た柳井は、咳払いをする。
「ここからはお前らも好きな話題だからな」
一言添えて、彼はホワイトボードに『サナトクマラ』と書き足した。
「このサナトクマラこそが、地球の創造主から遣わされたマハトマの頂点に立つ人物なんだ。一八五○万年前に地球に降り立ったと言われる金星からの使者だ。話ではゴビ砂漠にシャンバラというを築いたと言われている」
「聞いたことあるような」
「理想都市、楽園のことです」
怜の言葉にすかさず吉暉が補足する。なるほど、と怜は頷いたが、その実態は想像できないでいた。
「神智学ではこの存在を、スカンダ、ルシファー、アフラ=マズダと同一視されている。いずれも金星や、金星が示す夜明けを彷彿させる存在だな」
「えっと、宇宙人ってことであってますか? いまのところ金星人みたいなイメージしかないですけど……その宇宙人を見て、神様や天使を思い描いた、という風に言ってるんです?」
「その通りだ磯野。それに、彼らは有り体に言ってしまえば金星人だろうな。この宇宙空間を自在に移動できるとなれば、少なくとも現行人類よりも遥かな知恵者だろう」
磯野の言葉に柳井は頷く。あまりに力づくな解釈であるが、それでいまのところは意味が通じる。
「このサナトクマラという人物の目的は未だ動物である魂を真に人間にさせるということだ」
「真人間ってこと?」
「一八五○万年前なんだから、類人猿くらいだろ」
怜の疑問に磯野がツッコミを入れる。己の無知を指摘した磯野に、ばつが悪くなった怜は唇を尖らせて黙り込んだ。
「磯野の解釈が正しいだろう。尤も、類人猿どころか、ヒト科とテナガザル科が分かれた頃だ。これはブラヴァツキー夫人が活動してから、だいぶ経ってから語られたことだからな」
「確かに、そうすると合点がいきますね。神を通じて人類の救済を促す言葉を残す預言者と、サナトクマラの関係性は」
うんうん、と頷く吉暉を、磯野は奇妙なものを見たような目をしてしまう。怪談のようなオカルト話を笑うことはできない時世であるが、世界や宇宙というスケールの話になると、やはり疑わしくなってしまう。
それを笑い飛ばしてこそのオカルトであるが、吉暉は真に受けているのではないかと少し不安になる。
「彼らが語ったことのすべての真偽を知ることはできないけどな。だが、日本でもサナトクマラに接触しただろう歴史上の人物がいる」
「え、戦国武将ですか?」
「怜、お前……」
目を輝かせる怜を、磯野は冷ややかな目で見る。歴女とは違う意味で興味があるのだろう、ということは想像に難くなく、想像したくもなかった。
「惜しいな。確かに武将ではある」
武将の名前を柳井はホワイトボードに書き記す。
誰もが知る人物であった。その名を呼んだのは、吉暉だった。
「源義経」
悲劇の英雄として日本一の知名度を誇る人物だった。
「一九四九年、京都の鞍馬寺は天台宗を改め、天台宗系の宗教鞍馬弘教を始めるんだ。この教えは、太古より伝えられているらしい護法魔王尊という存在を祀るものではあるが、これが多分に近代神智学に影響を受けている。護法魔王尊の逸話も多分にサナトクマラと重なるところがあるからな」
「な、なるほど……仮にその二つが同一の存在なら、源義経も会っていたかもしれない、ということですね」
「源義経は確か、鞍馬寺で修行してて、天狗にいろいろ習ったんですよね」
得意げに怜が語る。磯野も知っていたが、後から便乗していると怜に思われるのは面倒だった。
「その天狗がサナトクマラやその眷属ということもあるかもしれない」
柳井はそう結論づける。あくまで妄想の域での話だ、という仮定をして。
一方の、教えられる立場であった吉暉は、サナトクマラの話を聞いていたとき以上の真剣さを見せている。
むしろその表情は鬼気迫ると言った方がいいだろう。胸に手を当てて少し考えると、小さな声で言った。
「サナトクマラ、ゴビ砂漠、モンゴル……義経」
ぶつぶつと言う吉暉を怜は肘でつつく。我に返った吉暉は気まずそうな表情を浮かべると、頭を下げる。
「ありがとうございます、柳井さん。勉強になりました」
「こんなことでよければな。俺も久しぶりに話し甲斐のある話題だったよ」
そう言うと柳井は、壁にかかった時計を見る。釣られて吉暉も時間を確認すると、あっと声をあげた。その様子を見た怜が、声をかける。
「何かこのあとあるの? あ、もしかして」
「狸小路の祭に行こうと話してたんです。PIROのメンバーで。制服のままだとさすがにまずいかと思って早めに帰ろうかと思ってました」
吉暉が言うと、怜は顔を明るくする。
「実はオカ研も、大通公園のビアガーデン行く予定なんだよね。わたしはこっちが先に出てた話だから優先しちゃったけど、近いんだしよかったら顔だけでも出してよ」
いいですよね、と怜は会長である柳井に聞くと、彼は笑顔で頷いた。
「高校生だから、夜遅くまで出歩かないようにな」
「ウチもちばちゃんと綾乃ちゃんもいるから、ね?」
ちらりと吉暉に目配せをする怜に、吉暉は曖昧に微笑んだ。
「すみません、お先に失礼します」
礼儀正しく吉暉が礼をすると、右手でドアを開け部室を出て行く。
足音が遠ざかり、代わりに外から聞こえるのは演劇部の練習の声だった。
「ちょっと千尋に似てるか?」
「それ、わたしも思った」
磯野が言うと、怜は同意をする。数ヶ月と一緒にいる仲である怜が言うなら、その直感は外れではないのだろう。
「どうかな、気質としては榛名に近そうだが」
「飲み込みいいですもんね」
それだけじゃないがな、柳井は言うが、何かに気づいたように怜の方を向いた。
「そういえば葉沼くんは、右手の怪我は平気なのか?」
「え、どういうことですか?」
柳井の言葉に首を傾げたのは磯野だった。
「包帯を巻いていただろ。火傷か何かだと思ったんだが……」
「な、なんのことです?」
怜はそっぽを向いてそう言った。
何もごまかせていないが、これ以上は踏み込むべきではないと、柳井は黙りこくったのだった。