第三話 オープンキャンパス
平岸街道沿いにある私立大学は吉暉からして、少なくとも学生食堂の評価は高かった。
一人暮らしの身としてはやはり、食堂は評価の大きなポイントだろう。自炊することもできなくないが、やはり毎日は厳しくもあるし、お金さえ出せば相応の食事が保障されるのであるに越したことはない。
「やっぱ高校とはちげーな!」
とはしゃいでいるのは近石栄司だった。吉暉の同級生である彼はこの日、オープンキャンパスへとともに訪れていた。
二人が通う市立独鹿第一高等学校は、札幌市内でも有数の進学校であり、大学進学については高校一年生から強く意識させられる。
このオープンキャンパスも、教師たちに課された夏休みの宿題の一貫であった。
生徒の間でも、空気感はまちまちだった。すでに塾通いをしている者もいれば、まだ一年生だし、と油断しきっている者もいる。近石のように、意識はしているものの力を抜いている、というのが吉暉から見て程よく思えた。尤も、その吉暉は大学受験などまったく意識していなかったのだが。
「思った以上の成果だったわ。ついてきてくれてありがとな」
近石はそう言う。吉暉は、おう、とだけ答える。
多くのクラスメイトが国立大学のオープンキャンパスで済ませよう、と考える一方で熱心に取り組む近石は、少し異様だった。
曰く、多くの学校を見ておきたい、夏休みの宿題を熱心にやっていくことで推薦入学を狙っていく、ということらしい。
吉暉はその熱意を受けて、やはり考えている人なのだ、といつもはうるさいクラスメイトへわずかに尊敬の眼差しを向けた。
なお、吉暉は昨晩の仕事の疲れから、話を半分も聞けていなかった。
「じゃあ、お駄賃くれ」
「やるか! お前はバイトしてんだから、俺から無心するんじゃねえよ」
「それはそれ、これはこれ。さあ、さあ」
「お前だって宿題はここ一箇所で済ませるつもりなんだろ。だったら連れ出した俺に感謝するんだな!」
めんどくさがりを見抜かれて、吉暉は笑顔で誤魔化すしかなかった。
誘われなければ、あまり考えずにどこか一校を選んでいただろう。そのときに真っ先に候補にあがるのは、それでも怜の通っているこの大学だっただろうが。
「思ったより授業が充実してるんだな。ほら、あの講座とか外部から人を呼んだりしてさ」
と思い出したように語る近石の言葉を聞きながら、吉暉は食事を進めていく。
大学、という場所は遠いもののように吉暉には思えたが、実際に訪れれば意外と気軽にやってこられる場所なのだな、と周囲を見渡して思う。
いまいるのは、サークルやオープンキャンパスの手伝いでやってきた学生か、高校生たちである。それでも近石ほどの熱意がある人はいないように吉暉には思えた。
「午後はどうするんだ? 多村たちと首都圏にある大学の説明会行こうと思うんだけど、よかったらどう?」
「悪い、俺は用事があるから」
詳細は言わないでおくのが吉だろう、と吉暉は判断する。
そうかそうか、と近石は頷いた。こういうときにきちんと声をかけてくれる、その配慮の行き届く性格に吉暉は好感を覚えている。
彼といて心地よいのは、断ったときにすぐに引いてくれることもあった。PIROで働いている吉暉は、やむなく誘いを断ることも少なくない。男子のクラスメイトからの窓口となりつつある近石には、感謝している部分も多くあった。
そういえば、と吉暉は話題を変えた。
「近石は法律を学びたかったんだっけ」
「まあな。知識は腐らないだろうし。弁護士とか、具体的には考えてないけど」
「向いてるんじゃないか」
吉暉は近石の成績を思い出す。理系科目は軒並み平均を超えているし、文系科目は学年でも五位以内という好成績を修めている彼は、クラスでも頭脳派だ。
それに真面目で、よく人を見ている。正しいことは正しいと言える人でもある。そしてそれをひけらかさない。
少し照れる近石であったが、一方で真剣な顔を浮かべる。
「葉沼はどうなんだ? 大学行って、やりたいこととかあるのか?」
「やりたいこと……花に関わる仕事かなあ」
「やっぱ実家の花屋を継ぎたいのか?」
吉暉は自分の家を思い浮かべ、その花屋の店先に立つ自分を想像する。
幼い頃から思い描いており、いまもそれが幸せであることを疑っていない。
一方で、きちんと将来を見据えている近石や、アイヌの末裔として文化を担おうとする雪花などを見ていると、それだけが幸せでないようにも考える。
あと一歩、夢を見てもいいんじゃないか、と思えるほどに二人の姿は眩しかったのだ。
「魚を扱うのは魚屋だけじゃなくて寿司屋とか、漁師だっているわけだし、花もそうなのかね」
「……確かに」
自分の考えの甘さに、吉暉は少し落ち込む。
猿神に憑かれてしまったこと、心臓に竜の呪いがかかっていること、PIROのことなど、いろんなことがのし掛かっていて手一杯だったのは事実だ。
未来のことなんて他人事のようにさえ感じていた。まるで想像ができない。決まった道などないはずなのに、どこかで自分の行き先を見定めてしまったような気がしていた。
途端に道は失われ、残されたのは人と獣との綱渡りだ。
一歩さえ踏み外してしまえば、戻ってこられないという感覚だけがあった。
それでも、近石の言うことはとても正しい。
(俺は葉沼吉暉として生きるのだから)
そうやく、そのように思えるようになった。
勇気を持って一歩だけ踏み出すのも、悪くない。
「花で……花で世界を見せるのが好きなんだよな」
「お、おう。ずいぶん壮大な話だな」
「小さな世界なんだよ。そこに異世界があるだけで部屋の空気は変わるし、もしその花で笑顔になってくれる人がいるなら、それがいいかな」
ほー、と近石は感心したように口を開いた。
珍しく饒舌に語ってしまい、吉暉は恥ずかしくなる。
もちろん花を好むのは、語った理由だけではない。花を見ているときに見える景色や、花を選ぶときの高揚、そして花にハサミを入れていく緊張感は、何にも代えがたい体験だった。
その先に、誰かを感動させるものが出来上がるのであるのだと吉暉は信じている。
「よっ、お待たせ」
声がした方を、吉暉と近石は振り向く。
そこにいたのはこの大学の女子学生である、千代田怜だった。頷いて挨拶をする吉暉とは対照的に、近石はぼうぜんとする。
「葉沼くんの友達? こんにちは」
怜がにこやかに挨拶をする。営業スマイルというやつだろう、PIROの事務室にいる彼女はおおよそこういう雰囲気である。
吉暉も認めるところである、見目の良い彼女の笑顔に当てられて、近石は明らかに挙動不審だった。
「こ、こんちは!」
と挨拶をすれば、近石は吉暉の方を睨みつけてくる。
向こうで待ってるよ、と怜は言って去っていく。くすくすと笑っているのを見ると、面白がっているようだった。確かに、怜に男友達といるところを見られたのは初めてのことかもしれない。
「誰なんだ?」
そっと声を潜めて近石が言う。その目は好奇心に染まっていた。
「バイト先の人だよ。この大学に通ってる」
「お前のバイト先、美人ばっかりじゃねえか」
「確かに……」
「はっ倒してやろうか」
怒りを向けてくる近石の視線を吉暉は躱す。
「ってか、用事ってあの人のことか!」
「そうだけど」
「うっわ、ずるい。女子大生と遊んでたって柊さんに言ってやるからな」
「それは勘弁してくれ」
本当に、何を言われてしまうかわかったもんじゃない、と吉暉は名前の出てきた女友達を思い浮かべて苦笑いを浮かべた。