第二話 浴衣の着方
降り注ぐシャワーが、咲楽井響子の熱くなった頭を冷やす。
何をしているんだろう、という戸惑い。この札幌に来てから、響子は自分の調子がわからなくなっていた。
物心がついたときから、任務を第一としてきた。日本の歴史の裏を牛耳る秘密結社八咫鴉の咒師として生み出されたのだ。
己をいかなる意図によって生み出したのかを知っても、結局のところ自分のやることは変わらない。
自分たちの信じる世を、乱す者を討つ。不都合なものを焼く。欲しいものは手にいれる。
そうやって生きていた自分に揺らぎが生まれている。
最初はわずかなものであった揺れは、収まるどころかより大きなものになっていく。
いったい、どこで歯車が狂ってしまったのだろうか。
そうしてふと思い起こす、葉沼吉暉と鶴喰雪花の姿がひどく忌々しい。雪花を愛しく思えば思うほど、吉暉が憎くて堪らなくなる。
北海道の原住民アイヌにおける女神の子孫である鶴喰雪花を、響子はひどく好いていた。
彼女にとって、文化の担い手である自負と、理想との距離感に苦しむ彼女は格好の餌である。
その感情が組織にとって植え込まれたものであるか、自身の内側より溢れるものであるかはわからない。その区別は、響子にとって不要なものであった。
一方で、響子にとって理解に苦しむのは吉暉の存在だった。あの二人の関係に、不可解なものを覚える。
「どうしたのかしらね」
この数ヶ月の、潜り込んだ先であるPIROとしての戦いを経て、家にいる一人の時間が時に苦しくなっていく。
調子が戻らない。自分になくて、吉暉が持っているものを雪花は求めている。そのことを理解しながら、正体は不明なままだ。
男であるとか、女であるとかではない。もっと根源的なものだ。
シャワーを浴びながら、額を鏡に押し付けた。はあ、とため息が漏れる。
組織からの指示もなく、かと言って自分自身に大きな野心があるわけでもない。はっきり言ってしまえば、自分の為すべきことがわからなくなっていたのだ。
雪花のように、吉暉のように、迷いながらも自分のやりたいことへと進んでいく姿が、響子にはまったくわからなかったのだ。
目を閉じれば、二人の背中が見える。鏡についた手に力が入り、握りしめた。
すると、洗面所に置いていたスマートフォンが鳴った。
(……忙しないわ、まったく)
シャワーを止めて、風呂場を出る。画面を見れば「鶴喰雪花」と表示されていた。素早く手の水滴をふき取ると、応答のボタンを押した。
「もしもし」
『お疲れ様です。響子さん、いま大丈夫ですか?』
「問題ないわ」
『声、こもってますけど』
「洗面所なの。いま移るから」
そう言うと足早にリビングへと向かう。ほどよく生活感の溢れる家具の上には古今東西の文献であふれている。
古くは伝承を伝えるものの、写本の、さらに写本。新しいものは最近出版されたばかりの小説などだ。
「それで、どうしたの?」
『今日の予定、覚えてるかなと思いまして』
「……昨日あれだけ言われたんだから、覚えてるわよ。七夕に合わせてお祭りに行くんでしょう」
八月七日、この日は七夕であった。内地では七月七日に行われるが、これは現在使用されている暦上の七夕である。北海道の多くの地域では旧暦の七夕の時期に合わせて七夕が行われるのだ。
元より、七夕自体は大陸から伝わった文化だ。日本で行われていた農耕の催事と合わせて行われるから旧暦である七月七日となった。暦が変わる際に、日付を見るか催事としての意味をとるかで、地域性が現れたのである。
札幌の大通公園はどの時期であっても祭りをしていることが有名であるが、いま行われている夏祭りは、シアンカムイが札幌で暴れ破壊を行ってから初めての祭りでもある。
そこへ遊びに行こう、というのが昨日の雪花からの提案だった。
吉暉やヘラがいることに渋ったが、雪花とともにいられるならばと二つ返事で頷いたのだ。
『浴衣は買ってくれました?』
雪花にそう言われると、響子は少し困った顔をする。以前、プールへともに遊びに行った際に、ろくに考えもせずに競泳水着を選んだことを指摘されたのだった。
その反省もあり、雪花は響子へと浴衣をきちんと買うように言われた。
「もちろんよ。見てみる?」
『え、見たいです!』
はしゃいで言う雪花に、響子は微笑みをこぼす。
ビデオ通話モードにしながらハンガーにかけられている浴衣をインカメラに映るようにスマートフォンを向ける。すると、スピーカーから感嘆の声が漏れた。
『うわ、うわ、画面越しで見ても綺麗ですね。もしかして、けっこういいやつ買いました?』
「どうせ買うならいいものをね」
やるときは凝り性になる響子は、買うものでも手を抜かない。雪花からお願いされたことでもあるから、徹底もしよう。
スマートフォンを自分へと向ける。画面いっぱいに雪花の顔が映し出される。
すると、かあっ、と雪花の顔が赤くなった。
『な、なんで裸なんですか!?』
そういえばまだ何も着ていないんだった、と雪花の言葉で響子は思い出す。
無頓着がすぎる、と雪花に言われて気づくような有様であるから、
濡れた髪は顔や身体に張り付いているし、インカメラの角度からして胸元まで見えていただろうか。
「シャワーを浴びてたからよ」
『電話は後でもよかったんですよ……?』
響子からすれば、雪花からの電話に勝る優先事項などそうない。
あわわ、と言っている雪花の様子がおかしくて、少しの間眺めていたかったが、いい加減に裸でいるわけにもいかないだろう。
バスタオルを手に取りながら、話を進める。
「そういえば、待ち合わせはどうするの?」
『あ、そ、そうですね。えっと、今日は私が仕事なんですけど、会議室が使えるのでそこで着替えませんか? 浴衣でこちらまで来るのも大変でしょうし、いかがです? よければ五時くらいに集合しましょう』
早口で言う雪花に、響子は頷く。その提案は響子としても歓迎したいところだった。
「ええ、それがいいわね」
『ふふっ、楽しみにしてます。じゃあ、私は出勤しますので。ありがとうございます』
「はい、また」
そう言って通話が切れる。画面には通話時間が表示されてた。
ふう、と吐き出される、先ほどとは違う質のため息。
ありきたりな一般人の日常、娯楽というものと縁遠かった響子は、こういうときにどうすればいいのかよくわからない。
けれども、あえて言うならば、悪くない気分だった。