第三十二話 覚えておいて
携帯電話の普及とともに廃れていった電話ボックスであったが、街中ではぽつりぽつりと残っている。
在りし日は、そのあたりに……それこそ電話ボックスから、隣にある電話ボックスまで見えたというが、響子が世間で活動してからはそんな光景は見たこともなかった。
カムイシンタとの戦いから数日が経っていた。悲劇的事件があっても、誰もがみな、昨日の続きを生きていた。
響子は電話ボックスの中から外を眺める。夏休みも半ばであるから、中学生とおも荒れる人影が何人か見えた。
電話のダイヤルを押す。不規則な番号から繋がったのは、よくわからない企業だった。適当に相槌を打ってから、合言葉を告げる。
繋がった先の人物は、くぐもった声で応答する。
「私よ。元気かしら」
など、いつもならしない軽口が出てしまうのは、これが最後の電話になるからだろうか。
相手は八咫鴉の重鎮の誰かであるが、名前などは知らされていない。響子にとって親のような存在にあたるとも言えるものの、大した感情は抱いていなかった。
状況を報告せよ、と言葉がくる。
響子が持っていた情報はひとつだけだった。
「義経を殺したわ」
流れる沈黙の中で、響子は十円玉を追加で入れた。会話の時間が延長される。
「どうして、と言われても。だって、何も言わなかったじゃない」
ケーブルを指でいじりながら、また十円玉を追加する。
さて、財布にあとどれほどの十円玉を持っていただろうか。一枚か二枚か。百円玉は入れてなるものか、など小さな意地を張ってしまう。
「ひとまず、いまの仕事として処理させてもらったわ。あと、こっちが本題なのだけれど」
相手はこの国を指一本、言葉のひとつで自在に操る人物だ。何度も言葉を交わし、その一端を担っていただけに強大さを理解していたが、すでに響子にとっては瑣末なことであった。
あくまで世間話をするように、響子は電話口に告げる。
「あなたたちとは縁を切ることにしたわ。こっちで暮らそうと思って。もちろん、口外することはないわ。あなたたちがなにもしなければ、だけど」
それじゃあ、と電話を切ろうとする。
電話口から聞き捨てならない言葉が聞こえた。
生まれた時に、響子に与えられた真名だった。それは秘匿されたものである。
洋の東西を問わず、真名には魔力が込められている。迂闊に呼ぶことも、使うことも許されない。それが良くない者に知れ渡れば、己の恥部を晒したも同然である。
だが、響子はそれを微笑みで受け止める。終わらせようとした通話に、最後に一言だけ付け足した。
「私は咲楽井響子よ。覚えておいて」
がちゃり、と音を立てて電話を切った。
これで終わり、というわけがない。この国のどこにいたって八咫鴉の目から逃れることはできない。
いまいるこの場所も、地位も、すべて彼らの掌の上だ。
手出しをすれば存在を口外する、などと脅迫まがいのことを言ったが、実際は逆だ。少しの気まぐれで生かされているのか、それとも気まぐれで踏み潰されるのか。
電話ボックスを出る。大通公園の、新鮮な空気に満たされていた。
「それでも、なんとかなるか」
この始まりの場所を、守るためならば。自分はなんだってやるし、なんでもできる気がするのだ。
思った以上に、入れ込んでいる自分がいる。鶴喰雪花はやはり己の性癖に沿うものであった。組織がどうこうではなく、自分の在り方として彼女を気に入っている。
どうしようもないほどの独占欲があって、どうしようもないほど飢えていた。
もしそれに手出しをしようものならば……。
「キョーコ!」
名前を呼ばれる。背中にしがみついてきた重みを、じろりと見た。
国籍不明の少女、ヘラがにへらとだらしない笑みを浮かべてそこにいた。
「何よ、菜々実。盗み聞きなんて相変わらずいい趣味をしてるじゃない」
「馬鹿言わないでちょうだい。電話先の相手、ずっとこちらを見ていたわ。私でもちょっとだけ、盗み聞きするのを躊躇ったわ」
「結局してるんじゃないの」
呆れたように頭を抱える響子であったが、聞かれたものはどうしようもなかった。
むしろ、ヘラであったことがまだ救いであろう。組織は異世界の存在を知っていても、どのような世界があり、どのような存在がいるかを全て知ることは不可能なのだから。
ヘラの言うような天使が統べている世界もあれば、歴史上で失敗した反乱が成功してしまった世界もあるかもしれない。
もしかすると、怪獣などいない世界なども。
「ところであなた、カムイシンタのときからずっと姿を見せなかったじゃない。どこ行ってたのよ」
「だってぇ、あのUFOこわされちゃったしぃ。なんでほどほどにしてくれないのよ。鹵獲した方が後のためじゃない」
「私たちの都合は無視なのね」
響子がそう言ってヘラの頭を叩けば、あいたっ、と悲鳴をあげる。
拗ねてあちこちをフラフラするのは、いまに始まったことではない。むしろ普段からずっといるわけでない彼女の生態は謎のままであった。
「ねえ、相談があるのよ」
「なにかしら。貸し借りはもうなくなったはずよね」
「そう。だからこれはお願いだけれど……家に泊めてくれない?」
響子がそう言うと、ヘラにしては珍しく驚いた顔を浮かべる。
組織を抜けた以上、少なくとも彼らの力を借りて手にしたものは手放した方がいいだろう。
ひとつが気になれば、PIROでの籍や、学校のことなど問題は山積みのように思えたが、すぐにそれら奪おうとすれば、さすがに聡い人間は組織の暗躍に気づくだろう。
これからも駆け引きの日々であると思うと、日常もかつての戦いの日々と大差がないな、と思ってしまう。
ヘラはにんまりと笑うと胸を張って言った。
「悪いけれど、私に家はないわ」
「なんで偉そうなのよ、頼んで損したわ。というか、あなたもしかしてお風呂入ってない?」
「失礼ね。ちゃんと入ってるわよ。ヨシキの家で」
私にかかればちょちょいのちょい、と言ってヘラは空中に円を描く。
彼女にかかれば鍵のかかった空間だろうと、密閉された空間だろうと無意味である。
「まあ、あなたの頼みなら嫌がらないんじゃないかしら、あいつ」
「でしょうね」
「ねえ、キョーコ。少しはすっきりしたかしら」
ヘラがそう言う。じろり、と響子がヘラを見れば、普段の悪戯っ子のような笑みはどこへやら、本当の天使のような笑みを浮かべている。
「いいえ、最悪な気分よ」
裸を見られてもなんとも思わないのに、心を見透かされることがこんなにも恥ずかしいなんて。
特に自分を見ているその人の顔が思い浮かぶのは、本当に、最悪な気分だった。




