第三十話 パージ
少しだけ時間は遡る。
吉暉の背中を磯野は眺めていた。肩で息をする彼は、氷の手裏剣の大投擲を行なった直後だった。
「ちょ、ちょっと、大丈夫なの」
何度か仕事を共にこなしたことがある怜でさえ、不安な顔を浮かべている。よほどの事態であることを磯野は察した。
「……もしかして、血の使いすぎ?」
怜が問えば、吉暉は頷く。
先ほどの盾然り、吉暉の能力は血を代償にしているのだろうと、磯野は見当をつける。
だが、それでも吉暉は立っていた。一歩も動かないまま、まるで何かを待っているように。
それはカムイシンタの動きなのか、それとも雪花たちが無事に帰ってくることをなのかはわからない。
ただ、彼は一切の諦めを抱いていないことだけがうかがえた。
「いまどういう状況なの?」
「ここからじゃよく見えませんが……隙がないんです。こちらとしては接近して破壊したいところですけど、手数が足りなくて」
「見るからに硬そうだもんね」
磯野は怜と吉暉の会話をしている様子を眺める。眺めるしか、ない。
(俺は、どうすれば)
ふと、無力な自分のことを考えてしまう。
いまできることを最大限にやるしかない。なら、いまの自分は何をするべきか。
何もしないをするべき、ということは理解している。
大人しく橘が戻ってくるのを待つべきだろう。
ここから離れてしまえば、吉暉の庇護下から出てしまう。
(だけど、このまま、ここにいるのは正しいことなのか)
手にある重みを思い出す。握られた黒い鉄の塊は、とても小さな力であると橘は言った。
怪獣と戦うにはあまりに心もとなく、しかし個人が持つには大きすぎる力であるように思う。
引き金を引けば、人間の肉も骨も容易く貫通する威力のある弾丸が発射される。
確かに、これは力だ。
「自殺用、って言われなかっただけマシか」
「……磯野?」
怜の不安げな声を聞きながら、磯野は拳銃を高く掲げる。
狙いはまっすぐ、暴れる銀の竜馬に向けて。
引き金を引くのと同時、乾いた銃声が響いた。想像以上の反動に右腕が痺れる。腕も上にあがってしまい、狙い通りに撃てやしなかった。
「なにやってんの!」
怜の声は悲鳴のようだった。吉暉も珍しく、驚いた顔を浮かべている。それは音に対してというより、磯野の行動に対してだった。
磯野はもう一回、発砲する。今度は思ったよりも低く狙いをつける。
「バカ、撃ったってどうしようもないでしょ! 当たるわけもないし、当たったって効かないんだから!」
「こっちに気づくかもしれないだろ!」
「襲われたらどうするの!」
「こっちを狙わないように、みんな頑張ってるせいで最後の一手が打てないなら!」
最後まで言わずに、磯野はもう一発撃った。
その言葉の意味を理解した怜は、髪をわしゃわしゃと掻きむしりながら、磯野の隣に立った。
「葉沼くん、この拳銃はなに!?」
「自衛隊採用のP220です。退魔士用に術が施されているはず。装弾数はたぶん、最初に込められていたのも入れて十発!」
そう叫ぶ吉暉は、包帯を払って立ち上がった。
「怜、どういうことだ」
「素人に教えてあげるっていうの! 左手は拳銃の底につけて。両足は肩幅くらい広げて」
「なんで撃ち方知ってるんだよ」
「ハワイで父親に習ったのよ」
「おまえ海外に行ったことないだろ!」
「いいから!」
そう言って怜は、磯野の背中に回って、腕を合わせる。彼女の体と伸ばした手に合わせるようにして、正しい構えになおされる。
「撃って!」
磯野は再び発砲する。先ほどよりもずっと反動は軽くなる。音で耳が痛くなるが、そんなことはこの状況では些細なことだった。
「続けて!」
「当たらねえぞ!」
「当たらなくていい!」
「前向きか後ろ向きかわからねえな!」
「もしかして胸の話してる!?」
「するわけねえだろ!」
微塵も気にならなかった、と口にしてしまえば逆上待った無しなので、磯野は黙っていることにした。
カチリ、と引き金が軽くなった。それが弾を撃ち尽くしたためであると気づくのに少しの間を要したが、その間に顔を上げる。
銀の竜が、磯野を見ていた。
首の向きからして、吉暉や怜にも視線を向けているはずなのだ。
しかし、磯野ははっきりと感じた。その目が捉えてるのは自分自身であるということを。
なぜ、と思わずにはいられない。無論、銃を撃ったからに決まっている。だが、それでも磯野は、カムイシンタを疑ってしまう。
怪獣だと言うなら……札幌を襲った白竜と同じならば、人のことなんて意に介さないでもいいはずだ。
小さな存在など無視してしまえばいいのに、カムイシンタは確かに磯野を見ている。
それはカムイシンタが、生物ではなく兵器としての思考をしていることを示していた。
「やああああああっ!」
千歳の声が響いた。その手に握られた擬神器が冷気を纏っていく。
遠距離からの大投擲。投げられた擬神器は周囲の水分を集め、氷の銛を形成する。
青い氷はカムイシンタの眼に突き立てられる。
装甲の唯一覆っていない部位、それが目であった。数多いる生物のいずれもが目を覆う鎧を持たない。その部位こそ最も敏感な外部の情報を得る装置なのだ。最大の能力を発揮するためには、薄い膜で覆うしかない。
それは機械であっても同じことだ。
瞬間、吉暉の姿が磯野と怜の前から消える。
吉暉は、手に巻いた包帯を氷の槍へと巻きつけると手繰るようにしてカムイシンタに接近した。
槍の上にしっかりした足取りで立つ。滑るようにして頭部にたどり着くと、口の中へと潜り込む。
そこは残された頭脳であった。吉暉ひとりが潜り込んでも十分以上の広さがある。外見以上の空間に違和感を抱きながらも、その中心に立った。
『何故』
声が聞こえる。それは吉暉であるから聞こえた声だった。
人とは異なる言葉であるのか、音域であるのか、あるいは神に通ずる第六感を通しているのか。
『人が』『獣が』『何故そこにいる』『そんなことは許されない』
吉暉はそれを聞きながら腕を振るう。頭の中を駆け抜けながら、端にあるケーブルから抜き取っていく。
首を落とす一撃はない。しかし、中に潜り込めば機械はいともたやすく破壊できる。
『やめろ』『人類は』『進化は』
「もう、黙れよ」
言葉を無視する。機械の言葉だ、と割り切った。
だが、自らの生存を第一とし命乞いをする姿は、何よりも機械的なように思えた。
何をするにしても論理的だ。彼らは生きるため、人間の感情を揺さぶろうとしているのだ。
やがて悲鳴になっていく。吉暉にはそれが歌声のようにも聞こえた。
頭部の中を荒らし続けているうちに、吉暉は浮遊感を覚える。
首が落下しているのだ。不要になったユニットをパージする機能を有しているらしく、損傷の増えた最後の頭部さえ切り離される。
吉暉は転がるように口から飛び出る。落下していく頭部から、離れていく胴体を見た。
それは首が落ちているだけではない。胴体が浮かび上がっているのだ。
虫のような羽を広げている。極彩色に輝くそれが、ハウリングしているような音を立てていた。
逃してはならない。吉暉は手を伸ばす。しかしすでに身体は、空中へと跳べるほどの力を残していない。
そんな吉暉の目に一筋の炎が映った。
「響子さん!」
とっさに叫んだ名前は、その炎の正体だった。




