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第二十六話 吉野山

 距離をとった義経は、現れた赤い氷の壁を見つめる。

 彼の目からしてその力は突如として発現したものであった。先ほどまでの吉暉が振るっていた獣……猿神の霊力とは明らかに力の性質が異なっている。

 だが、種が割れてしまえば理解もできる。あれこそが義経が感じていた女の気配によるもの。いかなる発動プロセスかは不明であるが、女妖の氷雪能力であることは想定できた。

 吉暉もまた義経と同じように、この土地へと接続している。術の発動速度がずば抜けて早いのはそのためだろう。

 だが、彼我の実力は十分に開いている。

 義経は自身の記憶を振り返る。幾度となく強大な敵と相対してきた。武蔵坊弁慶、木曾義仲、平知盛……。

 そしてもうひとつの記憶においては、オキクルミカムイとの戦いを含めた神々と戦い、大陸では当時の名だたる英雄たちと対決し、そして配下にも加えていった。

 それと比べれば、小さな敵だ。

 にも関わらず、義経は吉暉から目を離すことはできない。

 果たしてその感情が、自分の内側にある「この世界」の記憶によるものなのか、それとも別のものなのかわからない。


「……もはや、生かしておけぬ」


 義経は号令をかける。宙に浮遊した岩が吉暉へとめがけて飛来していく。

 完全なる不意打ちだった。飛び退いた方向からも角度を変え、死角にいるはずだった。

 だが、義経は見た。赤い瞳が、術を行使するよりも早く、義経を捉えていたことを。

 放った岩の弾丸は七つだ。それはすべて別の方向から吉暉へと向かっていく。

 避けることは不可能だ。受け止めるためには足を止めなければならない。戦いの経験の浅いことを見抜いている義経は、その未熟さにつけ込んだ。

 一方の吉暉は、義経へと猛進していく。義経が持つ歩法には及ばずとも、獣の本能から森の中であってもほとんど速度を落とすことはない。

 それを罵ろうと義経は口を開くが、次には吉暉の狙いを理解する。

 その右目から流れる血涙が雫となって宙に浮いた。花弁のような氷の膜を生み出す。

 氷の花弁は、吉暉へと迫る岩の弾丸を次々に防いだ。一度防げば氷も岩も砕けていくが、吉暉は花弁を何枚も生み出していく。

 その脚はまったく衰えることなく、義経へと向かってきていた。花園を踏みしだいているかのようだと、義経は思う。しかしその花は、大紅蓮地獄に咲く蓮である。

 義経は刀を抜き、次の命令を下す。雷の剣の顕現である。手数よりも、速度と威力を重視する一撃だった。オキクルミカムイの権能に、天狗として山中の木気を練り込むことで効率化を図ったその術を、吉暉に向けて放つ。

 対する吉暉は、花弁を前面に展開し、雷を正面から受け止める。

 やはり、吉暉は義経より先手をとっている。後の先と、武術では言うが、後から動きながら先んじて手を打っている。

 光と氷が激突する。生まれたエネルギーが散り散りになり、夜の森を照らしていく。

 必殺を誇る一撃でさえ、仕留めることができない。義経が見切りをつけるのは早かった。吉暉の持つ氷の防御を突破することから、その懐に潜り込むことへと目標を変更する。

 雷を放った刀を振り払い、一気に吉暉へと近づいていく。光を受けるために足を止めた吉暉の目前に迫る。

 振りかざした刃は、まっすぐ首へと伸びる。洗練された武が為せる静かな一刀が向かっていく。

 それさえ、受け止められる。義経の前に現れたのは雪花だった。

 見れば、その手に握られているのは雷の神の宿る短刀ではない。アイヌに伝わる男用の小刀である。

 ただの小刀ではなかった。義経の預かり知らぬことであるが、これはかつて白龍権現と名乗り猛威を振るっていたシアンカムイを討ち取った際に用いられ、竜殺しの霊格を得たものである。今様において名を《夷虵斬エゾノハバキリ》という。

 擬神器に代わり雪花へ力を与えているのは、彼女に宿る憑神である狼の神(ホロケウカムイ)だった。狼の気によって、雪花の膂力が上昇し、義経の刀を弾いた。

 甲高い音とともに、刀が折れる。先ほどの雷を放ったとき、赤熱化し弱っていたところへの一撃で、耐久度に限界がきたのだ。


「おのれっ!」


 義経はそこで一度退いた。大きな一歩だった。縮地と呼ばれる、天狗、ひいては仙人の技である。

 厳密には、龍脈へと己の肉体を溶かし、離れた場所に出現させるという、生身の肉体ではできない芸当だ。

 だが、今度は義経の前に吉暉が現れた。ここで義経は己の失策を知る。吉暉は自身と義経がいる領域に限定して、龍脈を支配しているのだ。極めて小さな点であったが、それは明らかに義経の隙となり得た。

 足取りがわかれば、迫るのは簡単だ。彼は一度見ている技を模倣する。すなわち、『壇ノ浦の八艘跳び』だ。


「き、さまぁっ!」

「うおおおおおおっ!」


 吉暉の咆哮が響く。

 瞠目とともに、義経は懐から小刀を抜いた。鞍馬寺から旅立った際に手にし、衣川で自刃するまでずっと共にあった守り刀を、ここぞというときで抜き放つ。

 過たず胸めがけて突く。

 血が滴った。だが、それは心臓から流れるものではない。吉暉はあろうことか、左手の甲が貫かれながらも刃を受け止めたのだ。

 対して、腹に鈍い痛みが走る。猿神の宿った右腕は、義経の腹を打ち抜いたのだ。

 仮初めの肉体でありながら、義経の口から血が流れる。

 二人は同時に膝をついた。互いの瞳を見つめ合う。

 義経は見る。吉暉の瞳は、茶色がかった左目も、赤色の右目も、同じ感情を浮かべているように見えた。


「惚れた女に手を出されて、腹が立ったか」


 義経の問いに、吉暉は悲しそうな顔を浮かべる。

 それは、吉暉という人物と二度の戦いを経て思ったことである。

 個人の勝ちではなく、大局的な勝ちへの姿勢を見せていた吉暉が、最後という最後に、己のために勝利を欲しているように見えた。

 雪が降り始めた。夏の真ん中であるというのに、異常な状況であるが、龍脈の支配者に天候が応えているのだとすれば、もはや義経はこの地の主ではない。


「お前だから、俺は……」

「それは、お前の中にいる女のためか」


 吉暉は首を横に振った。

 ああ、わかっている。この男はそういう人物ではない。

 それは義経が初めて得た感情だった。共感と、理解と拒絶だ。

 だが、聞かなければならない。義経は言葉を待った。


「自分と決着をつけられないやつに負けるのは、嫌だったんだ」


 それはとびきりの一撃だった。

 惚れた女に手を出したのが、よりにもよって誰よりも情けない男であったことに、吉暉はもう一度戦ったのだ。

 女を守るだけではなく、勝たねばならぬと執念を燃やしたのはそのためである。

 奇しくも、互いに己とは異なる者を身の内に宿す者同士だった。

 義経は納得した。

 その納得こそが完膚なきまでの敗北であった。

 するり、と小刀を握る手が落ちた。


「我が首の代わりに、この刀を持っていくがいい」


 思えば、生前も守り刀である《今剣》を抜いたときはすでに負けていたなと、笑みをこぼす。

 吉暉は左腕からその小刀を抜いた。その刀身を濡らす血が凍てつき、割れて崩れ去る。元の姿を戻した霊刀を鞘へと納め、立ち上がった。


「ぱいせん、ご無事ですか!?」


 雪を踏み分けて、雪花が現れる。解けた髪はそのままに、回収してきたのか両手には別々の小刀を握っている。

 吉暉は義経に背を向けて雪花と向き合った。

 この光景を、いつかも見たように義経は思う。

 いまだに選択を迷っている。当時の自分は本当に正しいことをできたかと。

 吉暉は、雪花の顔を見ると大きく息を吸って、吐き出すのと一緒に言葉を紡いだ。


「鶴喰、行こう。……一緒に」


 そう言って、左手を差し出した。

 猿神の力で傷はふさがっているものの、血で汚れてしまっていることに気づき、引っ込めようとする。

 それよりも先に、雪花がその手をつかんだ。


「もう、何を当たり前のことを言ってるんですか。みなさんはまだ戦ってるんですから、早く合流しますよ」

「なっ、お前なあ」

「休んでる暇なんてないんです」


 そう言って、雪花に連れられる形で吉暉は去っていく。みしり、と雪を踏む音と、言い合いをする声が遠くへと消えていった。


「は、はははっ」


 後ろ姿を見て、義経は朗らかに笑った。

 身体が消えゆくの感じながら、木々の上にある星々を思う。これだけ冷えて澄んだ空気であれば、星降る空も見えるだろうと義経は思った。

 この世に蘇り、暴虐を尽くしたが得られたものはなかった。しかし、ひとつだけ得た安心があった。

 人は未だ、月にさえ自由に行くことができないでいる。

 しかし八百年も経てば、小さいながらも偉大な一歩が踏み出せるものだ、と。

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