第十七話 氷の熱
「けほっ、けほっ」
吉暉は咳を繰り返す。先ほどまではずっと肺に入っていた水を吐き出していた。
口元をぬぐいながら、岸から上がった。かろうじて生きていたスマートフォンで現在地を調べれば、どうやら沙流川という川に着水したらしい。
背後を見やる。崩れつつあったが、そこには赤い氷の造花があった。川の真ん中に咲くそれは、吉暉が着地の寸前に生み出したものであり、衝撃を和らげるため下方に放った霊力が形を為したものだった。
そのために切った指先は、すでに治癒している。氷の術は吉暉の血を媒介として発揮できる稜威であった。
咳が落ち着いて、深呼吸を繰り返す。胸に当てた手からは心臓の鼓動を感じた。
「……感謝すればいいのか」
吉暉が口にする。誰もいないはずの夜闇に、しかし返事はあった。
「いいえ、あなたは責めるべきね」
ぼうっ、と火を灯すように現れたのは白い少女だった。
衣服だけではない。肌も、髪も白い。唯一見せる色は、血で濡れたような瞳の赤だった。
彼女が身にまとっているのは、アイヌの衣装である。青と白を基調にしたその姿は美しいという他にない。アルビノの特徴もあって、余計に目を惹く。
だが、吉暉は彼女の正体を知っている。
かつて大通公園に現れ、暴れまわった冷凍怪獣シアンカムイ、その内に宿っていた少女だった。いかなる由縁があり、彼女が大蜥蜴の内部に収まったかは想像するしかない。
吉暉はシアンカムイから呪いを受けていた。心臓を凍結させてしまう呪いは、響子の術を用いて強制的に心臓を動かすことによって、共存関係にあった。
竜の生命力によって、あるいは彼女の執念によってか、悪霊ながら吉暉の憑神として未だ現世に止まっていた。
はあ、とため息をついた吉暉は、傍らに現れたフミキへと声をかける。
「助かった。ありがとう」
「だから、どうして!」
「別に責められるようなことしてないだろ」
「あなたの戦いの邪魔をした」
円盤の上で、吉暉の動きが鈍った。それはフミキが、心臓にて強く暴れたからだった。全身の血を司る器官でそのようにされてしまえば、吉暉は身動きがとれない。
「知ってるでしょう。ヨシツネは、私の……」
フミキの名が現れるのはアイヌの伝承だった。
祝津の村に住む、長の娘である。美貌で知られた彼女であったが、婚約者を持つ身ながら、別の男に恋をしてしまう。
その男こそが内地より現れた源義経である。
だがその結末は、悲恋に終わる。
義経が目指すは遥か先……サナトクマラとの関係が本当ならば、彼は人類の革新すら考えていたかもしれない。
立ち止まれなかったのだ。そして、彼の歩みにフミキは不要であった。
その果てに、フミキは悲しみ、狂い、海に身を投じたのだった。
「義経のことを愛してるから、そこにまだいるんだろ」
吉暉ははっきりと言う。フミキのことを一番知っているのは、二心同体である吉暉に他ならないのだから。
頷くこともしなかったフミキに、吉暉はさらに告げる。
「だったらいい。それがお前のできる戦い方なんだ……って思う」
もとより、呪いであるフミキが吉暉の邪魔をするのは道理というものだ。
それに対して、憤慨したのはフミキの方であった。
「なんでっ、あなたは、いつもそうなの!? 人の気持ちがわかってるようでわかってないし、わかってないようでわかってる! 恨み言のひとつもあるでしょう!?」
「恨み言を言ってお前がおとなしくなるようなやつじゃねえからだよ! 恨まれればさぞ楽だろうな!」
「な、な、ななっ、なんですって!?」
「それに、気づけよ。あいつはお前の知る義経じゃない」
えっ、という反応をするフミキに、吉暉は再びため息をついた。
「でも、あの気配は間違いなく私の知るヨシツネだった」
「気配に頼るのが妖の悪い癖だな」
いいや、本来であれば「気配」に勝る判断基準など存在しないのだ。動き方、霊力というものを正確に捉えられる妖ならばこそ、間違えるはずがない。
だが、吉暉から見れば違和感しかなかった。それは史実として語られた内容と、フミキの存在の両方を知るからだ。
スマートフォンで現在地を確認しながら、吉暉はまっすぐ森の中へと向かっていく。ふと、ハヨピラの方へと目を向ければ、円盤が木々の上から顔を見せているのが見えた。
時間がない。足早に道を進んでいった。
「……確かに、彼はいま神霊。元のヨシツネではないし、オキクルミとも一緒だし」
「お前の目は節穴か?」
「どういうこと?」
「まず、お前の知る義経はどんなやつなんだよ」
大方の予想はついているが、吉暉はあえて聞いた。伝承にのみ語られる過去の人物の言葉を聞くのすらありえない経験だが、歴史上の英雄の実像を知る者の言葉、という意味ならこの世で吉暉以外に経験したことのないことだろう。
「ヨシツネは……かっこいい」
「真面目にやれ」
「わかってる! あれは、顔もいいし、狩りも上手い。星や地勢にも詳しい。村の誰とも違って、私のことを……昼の間、外に出られないような女のことを褒めてくれた」
滔々と語るフミキの言葉に耳を傾けながら、吉暉は暗い夜道を歩いていく。
フミキの白い肌、髪は生まれつきのものなのだろう。アルビノの人間が紫外線に弱いのは、白人種が日光に弱いことからも想像ができる。
そんな彼女を日中に歩かせることをしなかったのは当然の判断だ。だが時として、人は生きるための選択に悩まされることがある。生きるためだった、死にたくなかったと言って行ったことに苦しむことがある。
何を責められることがあろうか、と言われても。吉暉にはそれがよくわかった。
フミキという女に巣食う陰の正体を見た気がした。
「そして伝え聞いていた倭人とも違っていた。倭人は誇りや、名誉を重んじ、正々堂々を謳うのだと言う。村の男たちを見ればなんとなく、その心の有り様を理解はできた。自分がどのような者であるかを声高にしなければいけないのだろうと。けれど、ヨシツネはそれを笑った」
「……そういうのが、わからなかったんだろうな、義経も」
ジンギス・カンとして、モンゴルを駆け抜けた彼の姿勢が、生来のものなのであれば理解はできる。
生きるか死ぬか、奪うか奪われるか。名声で敵の首は取れないのだ。
「だからこそ、あいつはお前の知る義経じゃない」
「そうか、あのヨシツネは名乗りをあげていた。それは私が出会ったヨシツネの作法じゃない。でも、あいつは一体誰なの?」
「さあ、そこまではわからない。だけど、俺の推論通りなのだとしたら」
吉暉は拳を握りしめる。
もし、あの義経の中にいるのが、まったくの別人なのだとしたら。
あるいは、「実際に生きた義経」と「己の知る義経」の間で悩む者ならば。
それはきっと己自身という獣と対峙するようなものだろう。
吉暉は右腕の包帯を緩めながら、その場所に立った。
「あの円盤のところに行くんじゃないの?」
フミキの疑問は尤もだろう。UFOが降り立ったのはほど近くにあるハヨピラ自然公園。吉暉が地図で確認した現在地は、少し外れにある場所だった。
「ここって」
「義経神社。あいつが祀られてるところだ」
吉暉はそう言う。よく知る神社とよく似た作りになっている社の前にいた。
ハンガンカムイなりし義経を祀る神社、というだけで正しいとされている歴史を信じる者からは笑われるだろう。しかし、現実として義経は、アイヌの神霊として現れたのだ。
この神社が彼にとって重要な地であることは、簡単に考えられる。
「これから地の利を奪う。戦の常道だろ?」
正面から戦っても勝てないのだから、ここで義経の神性を削ごうと吉暉は言った。
すなわち、土地からの繋がりを断とうと。
「正気? そんなの上手くいくはずがない。相手はアイヌの祖神を取り込んだ神霊で、あなたはその右腕を持っていても、心臓に私を宿していても、ただの人間でしかない。ただで済むはずがない!」
「やるしかないだろ」
「人ではなくなってしまうの。私がシアンカムイとなったように!」
悲痛な叫びだった。それは、フミキ自身が己のために言っているわけではないことを、吉暉はなんとなく察していた。
「……札幌で響子さんが人工龍脈を整えたときのことを覚えてるから、いける。なにも掌握しようというわけじゃない。ちょっと割り込むだけだから」
「それでも、だめだって」
「お前にできないなら、俺がやるしかない」
吉暉はそう言って、地面に右手をついた。猿神の手は、見えない流れを確かに感じる。温度とは違う熱が、地の下に走っている。
神社の多くは、こうした龍脈の上に造られていることが多いと吉暉は響子から習っていた。
深く、深く潜っていく。物質的な右手から離れたところに、神経が接続される感覚があった。
そして、その知覚が流れに触れたとき、全身から炎が吹き上げたのではないかと錯覚するほどの霊力が、吉暉の体内に溢れかえった。
汗が流れる。引き摺り込まれてしまう、と思うと同時に、万能感までもが身を焦がす。いまならば何でもできるのではないか。そう考えてしまうほどだった。
神とは、絶対者とは、このような感性の中に生きているのか。
権能を振るうとは、こういうことなのか。
吉暉を襲う熱を、冷ます者がいた。
意識が覚める。為すべきことを為せ、と声がする。
深く息を吐いた。夏であるにも関わらず、吐息は白に染まっている。
やがて、吉暉は手を地面から離す。辺りは風が吹き荒れたかのように騒がしかったが、一瞬で静寂を取り戻した。
そして、その吉暉の手を掴んでいるのはフミキだった。彼女は泣いていた。
「なんで泣いてるんだよ」
じっと、フミキは吉暉を睨みつける。そして目をそらせば、姿を消した。
それを見て、吉暉はつくづく女というものがわからなくなる。
ともあれ、龍脈への割り込みは完了した。どころか、吉暉はいま、龍脈から流れ込んでくる霊気によって、いままでで一番力が溢れている状態だと言っていいだろう。
だが、吉暉はそれを恐ろしく感じた。内側から溢れ出るものではないものが、己の手を伝って現れるということは、決定的な勘違いをしてしまいそうだった。
「いくらなんでも、気づかれただろうな」
目を向けた先はハヨピラだった。木々を越えた先に、義経や雪花たちがいる。
吉暉はまっすぐ、森の中へと飛び込んでいった。




