第十五話 神の揺り籠
「源義経……!」
響子が、彼女にしては珍しく、声が震えていた。
その名に橘以外の全員が響子の方へと振り向く。
途端に顔をしかめると、ため息をついた。
「式神がやられたわ。でも間違いなく聞き取った。あのUFOの主人は義経。……蝦夷の地では、ハンガンカムイと呼んだ方がいいかしら?」
「そんな!」
声をあげたのは雪花である。反論をしようとしたところを、しかし響子に止められる。
「いいえ、私が見た義経は間違いなく、オキクルミと習合した姿だったわ。雪花ちゃんだって、知らないはずがないでしょう」
「それはそうですけど……」
言い淀む雪花に、磯野は首を傾げた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。おかしいだろ。なんで義経が北海道にいるんだよ」
磯野の知る義経の知識は、源平合戦の際に活躍し、そして岩手の平泉にて没したという程度であった。そしてそれは、おおよその一般人と変わらない程度の知識であると理解している。
「知らないの? 義経北行伝説」
「知らんわ」
「うっそ、歴史オカルトの定番でしょ」
さも当たり前のように、怜は言った。顔色はだいぶよくなってきていて、思考も正常に戻りつつあった。
最も、興味があることに反応するのを堪えられないあたりは、まだ酔っているだろうか。
「武将のことになると熱くなるな」
「あ、怜姉、もしかして歴女ってやつ?」
「そこまででもないし、戦国武将ってわけじゃないから、本当に詳しくはないけれどね。えっと、義経の北行というのは……」
一一八九年に、源義経は平泉の衣川にて自刃したとされている。その末路は、兄との対立によって追い詰められた末に、味方であったはずの奥州藤原氏に裏切られてのものであった。
だが、人々はその悲劇の英雄を愛した。それが悲劇だったからこそ、かもしれない。
いずれにせよ、義経は、言うなれば愛されたのだ。
彼の末路はそんな悲しいものであってほしくない、というほどに。
あるいは、歴史の影もあっただろう。神話伝承への介入は、政治の常套手段であった。
義経は衣川を逃げ延び、北へと向かっていく。陸奥を越え、津軽海峡を越えて蝦夷へと渡り、そこで多くのアイヌの女性と恋愛話があり、造船や農耕などの技術を伝えた。
やがて彼は大陸へと渡り、ジンギス・カンとなった、という話もある。
「にわかには信じられないんだが」
この日、この言葉を言ったのは何度目かわからない。磯野は怜の顔を見た。当の怜も自分の説明した内容をどれほど信じればいいかわからず、困惑した顔を浮かべている。
「そしてそれは、事実なのよ」
「えっ」
響子の言葉に、磯野と怜、そして千歳までもが声をあげた。
それに答えたのは雪花だった。
「義経は、確かにこの北海道にやってきました。そして、彼はオキクルミカムイと習合したのです」
雪花が語るに、オキクルミというアイヌの祖神がいた。彼はアイヌの持つ神話群の中でも格別の存在であり、地上における最初の神として数多の英雄譚を残す一方で、神々の知識を人々に伝える預言者、あるいは創造神としての側面を持っているのだという。
そして、知識を伝えた、という伝承が義経のものと重なり、江戸時代末期にはオキクルミを義経とする話が、新井白石からも語られるほどであった。
「まったく忌まわしいことに……時に事実以上に、語られている嘘の方が真実となります」
「でも、これが本当なら、俺たちの知ってる歴史ってなんなんですか。嘘ばっかりで、何を信じればいいかわからない」
磯野の言葉は、ある意味でこの事件の核心を突いている。
そう、歴史を揺るがす事柄なのだ。雪花や響子からすれば、何が本当のことであるかを理解しているが、磯野や、あるいは吉暉の目からすれば、恐るべき事実なのである。
いままで習ってきた、教えられてきたことはすべて嘘なのではないか。
ずっと信じていた世界が、その実、誰かが見せていた、誰かにとって都合のいいまやかしに過ぎず。
一枚布をめくった向こう側には、いともたやすく信じていたものを揺るがすものが存在する。
「怪獣が現れるこんな世界で、何を信じるっていうの」
磯野の言葉に、怜は痛烈に返す。その言葉は、その場にいる誰もが……怪異と戦い続けてきた誰もが沈黙するしかなかった。
「あー、もう! そんなこと言ってる場合じゃ、なくて!」
しかし、その沈黙を破ったのは千歳だった。そしてそれに同意したのは響子である。
「ひとまず考えるべきは、相手が義経であるということ。彼は脅威よ。あなたたちの知る逸話のすべてが本当のことだと思って、立ち向かうべきだわ」
「天狗の術、ですね」
「その通り。日本の歴史は長くあるけれど、戦で天狗の術を使った馬鹿は彼くらいでしょうね」
古い流れを汲む術者である響子からして、義経への評価はそのようだった。
「それに、義経が相手の大将であるならば、あのUFOについても推測できるわ。北行伝説に現れる、竜飛崎の竜馬でしょう」
「竜馬って、馬にも竜にも見えないけれど」
「あのままの姿、というのは考えづらい。本当の姿が別にあるのかもしれないわ」
言いながら、響子は自分のロングソックスに指をかけ、それを勢いよく下ろして脱ぎ去った。
そのまま胸のリボンも外し、第二ボタンまで外した。
途端、響子の体に刺青が走る。それは経典の一部を書き写したものであった。
曼荼羅紋、と呼ばれる、響子のみが保有する独自の術式である。『耳なし芳一』に語られるように体に経文を刻み込むものであり、類するものとしてタイにおけるサクヤンなどが挙げられるだろう。
この刺青を出すのは、響子もいよいよ本気で挑まざるを得ない、ということでもあった。
その光景を目の当たりにした磯野がぎょっとした顔をする。磯野の視線を意にも介さない響子は、ふっと笑うのみにとどめた。
「なに見てんの」
と磯野に声をかけたのは怜だった。
「うっわ、女子高生に見惚れてる。やらしい。ちばちゃんに言っちゃおう」
「勘弁してくれ」
酔っ払った同期に呆れながらも、調子を取り戻しつつある彼女を見て安心する。
怜と響子を見比べれば、怜の方が二歳は年上であるはずなのに、大人っぽさでは響子に軍配があがるな、などと磯野は不埒なことを考える。
「そういえば、葉沼くんはどうなった?」
思い出し、磯野は言う。雪花も声を聞いて助手席からわずかに視線を後方に向けた。
響子は目を閉じると、代わりに口を開く。
「……気配がない。あいつ、振り落とされたわ」
車内で響子がつぶやく。それに愕然としたのは磯野だった。
「振り落とされたって、UFOって雲の上にあるんですよね? 葉沼くんは大丈夫なんですか!?」
自分でも信じがたいことを言っている自覚はあったが、いまは彼らに従うしかないと覚悟を決めていた。
雲の上、というならば、おそらく地上から二千メートルは離れているだろうか。スカイダイビングにも等しいその高さからの落下は死を意味する。
昼間に会ったばかりの彼であったが、悪い印象を持っていなかった。むしろPIROという組織において、怜を除けば彼は最も信頼に足る人物でもある。
「ぱいせんは、大丈夫です。いつだって帰ってきてくれるんですから」
雪花がそう言った。車の最後尾にいる磯野からは、雪花の表情はうかがえない。
声音に先ほどのような、明るい感情はなかった。
「雪花、指揮を頼む」
橘はそう言う。この中にあって最年少であっても、北海道支局にいる退魔士のリーダーは彼女なのである。
頷いた雪花は、声を張り上げる。
「これより目標Aをカムイシンタと呼称します」
カムイシンタ、アイヌの言葉で『神の揺り籠』を意味する。
この名をつけたということが、雪花のUFOに対する、あるいは義経に対する想いの表れとも言えるだろう。
「彼がハンガンカムイならば、向かう先はハヨピラでしょう。かの地はオキクルミが降り立った場所ですから」
「聖地、というところか」
雪花の言葉を受けて、磯野が言った。この分野に疎い磯野であっても、聖なる地として崇められる場所であれば、神様が力を発揮しやすいだろうことは容易に想像ができた。
「よし、そうしたらこれからハヨピラに向かうとしよう。車を飛ばす。いくぞ!」
橘はそう言うと、アクセルを踏んだ。時速はすでに法定速度を超えている。
雪花はそれから振り返ることをしなかった。アイヌとしてハンガンカムイに対して思うことも強いだろう。それとも、彼女が想いを馳せるのは頼りない先輩のことだろうか。
その様子を、怜と千歳は不安げに眺めるのであった。




