第七話 門出
翌朝、燈は次々と現れる握り飯や乾物に戸惑っていた。
「女将さん、もう十分ですから!」
あれもこれもと風呂敷に包んでいく女将さんに燈は言うが、彼女は運び込む手を全く止めない。
「まだまだ、飛鴛越えるんなら全然足らないよ! ほら、これも持っておいき!」
そう言って真新しい草鞋や手製の脚絆を持ってきてくれる。昨日の今日で旅立つことを伝えたというのに、一体こんなものいつ用意したというのだろう。
不思議に思っていたら、見透かすように女将さんが笑った。
「うちは宿屋だからね。飛鴛越える人も結構いるんだよ。依月山に登る人は少ないけど、手前のお社に参る人もいるしね。その人のために用意してるのさ」
依月山に登ることも禁止されてるわけではないが、神域として篤く信仰されているため、汚さないように登るのを遠慮する風習がある。そのため、参拝者のための社が手前に設置されているのだ。
「旅は道連れ世は情け。人の門出には精一杯の餞をして送るのが宿屋の仕事であり、この世の人情ってもんだ。アンタも遠慮せず受け取っておきな」
そう言う女将さんの笑顔は、宿屋としての誇りに溢れている。燈も少し微笑んだ。きっと「長元坊」がどこよりも繁盛しているのは、握り飯よりも女将さんのこの人柄にあるのだろう。明るくて、元気で。この人を見ているだけで、どんな人でも明るい気持ちになれてしまう。過酷な旅に行く多くの人々が、燈と同じようにこの笑顔に勇気づけられてきたのに違いない。
(私も、女将さんみたいになりたいな)
誰かを、明るく勇気づけられる人に。下を向いている人に、前を向かせてあげられるように。そんな人に燈もなりたいと思う。
憧れの眼差しを向けていたら、女将さんが荷を詰める手を止めて突然振り返った。燈は驚いて肩を震わせたが、彼女は気にすることなく微笑む。
「燈、これが終わったら奥の部屋にきてくれるかい? 渡したいものがあるんだ」
燈は頷きながら不思議に思った。ここでは渡せないものがあるらしい。一体何があるというのだろう。
女将さんはそれ以上何も言わず、ただ、風呂敷に物を包む音が響くだけとなった。
*
一通り荷物が詰め終わった頃、燈は女将さんに言われた通り宿の奥の部屋に向かった。
「長元坊」の一番奥にある部屋は、今はあまり使われていない従業員の控え室だ。少し広めの板間の部屋で、四、五人くらいなら座って話ができる。手前の広間に直結しており、元々は宴会の時の舞手や楽師の控え室として使われていたらしい。
「最近は宴会も少ないし、呑めたら良しの馬鹿も多くてねえ。そもそも楽師や舞手なんて呼ばなくても勝手に踊りだすような輩ばかりだから使わなくなっちまったんだよ」
舞手が必要なのはお貴族様の宴だけだね。部屋で先に待っていた女将さんはそう言って豪快に笑った。
部屋には錫張りの姿見が用意されていた。女将さんは燈にその前に立つように言うと、漆塗の長持を引っ張りだした。
鈍く光る長持の中に入っていたのは、鮮やかな中紅花の袿だった。繊細な縫い取りは紙燭色の花七宝。全体的に淡い色使いだが、一目見ただけで上物と分かるような立派な品だった。
「燈に、これを着て欲しいと思ってね」
燈は目を丸くした。こんな高そうな衣、もらってしまっていいのだろうか。
「これ、頂いてしまっていいのですか?」
女将さんは丁寧に衣を広げながら、いいんだよと笑った。
「詠姫様にとっては、ちょっと慣れない色かもしれないけどね」
今度こそ燈はびっくりした。詠姫だということは言っていないはずだ。小さく息を呑み、暴れる心臓を押さえつけるように恐る恐る言う。
「どうして、私が詠姫だって……?」
「そりゃあ舞をしてて、天子様のことをしているっていうのなら察しがつくさ。宿に来た時の格好も足はドロドロだったけれど衣類は上等なものだったし、ここらでは見ないような世間知らずだったからね」
女将さんは笑うが、燈は戸惑いを隠せない。今にも逃げ出しそうな燈の肩を抑えて、女将さんは前を向いて、と優しく言った。
「大丈夫、燈が詠姫様だからって何もしないさ。もちろん誰にも言わない。何か知りたいことがあって燈は身分を隠しているんだろう? だったら気が済むまで探せばいい。それができるのが若者の特権だからね」
燈に衣を着せながら女将さんは言う。その声も手もとても優しい。燈はそこに、もう覚えていない母を感じた。
女将さんは袿の裾をつぼめ、胸元で上げると懸帯でしっかりと締める。それから小さな黄楊の櫛を取り出した。そっと燈の髪を梳きながら、女将さんの声が続く。
「探したいことがあるのなら、なんだって探せばいい。でも無茶だけはするんじゃないよ。アタシはそれだけが心配だね。燈は、誰も手伝ってあげられない大きな運命を背負っているようだから」
燈の長い髪が、優しい力で引っ張られる。心地よい感触に目を閉じながら、燈はその温かい言葉を聞いた。
旅の邪魔にならないように、衣と同じ色の紐で髪を丁寧に結わえる。それから、女将さんは景気づけるように燈の背を軽く叩いた。
「辛いことがあったらいつでもここにおいで。一緒に背負うことはできなくても、ひと時の休憩場所くらいにはなれるはずだから。燈の旅路が良いものであるように、アタシはいつでも祈っているよ」
振り返ると、誰よりも元気で、何よりも温かい笑顔がそこにあった。
その瞳を見つめて、有難い言葉を深く深く心に刻んでから、燈は元気よく頷いた。
「はい! いってきます」
*
旅支度を終えた燈と疾風を、宿屋の人とお客さんが外まで見送ってくれた。
「燈ちゃん、またいつでも来ていいからね」
「今度は舞も見せてちょうだいね」
「はい! みなさんもお元気で。またお手伝いさせてください!」
口々に旅の無事を祈る人々に、燈は終始笑顔で応える。
一方疾風は、最後まで男衆に囲まれていた。
「しっかり燈ちゃん捕まえておけよ」
「そんなんじゃねーよ!」
「とか言って照れてるじゃねーか。この若造め!」
疾風は相変わらずげんなりしているようだったが、その口元は僅かに緩んでいる。
そして、来る前はいなかった新たな仲間が旅に加わっていた。
「秋水もよろしくね」
燈が微笑んで鼻先を撫でたのは青毛の馬。女将さんが疾風に貸してくれた馬で、名を秋水という。疾風は馬貸しの方も手伝っていたらしく、秋水もよく懐いている。賢く大人しい馬で、燈もすぐに気に入った。山を登らせるわけにはいかないので途中の村に置いていくことになるが、それでも初めて乗る馬が楽しみで仕方がない。
「約束、一年早くなってしまったな」
男衆から開放された疾風が、燈にこっそり耳打ちした。からかうような明るい声。燈もふわっと微笑んだ。
「今回は依月山に行くためだけだもの。知らない場所全部に行く約束は終わってないわ」
そう言うと、疾風もそりゃそうだと笑った。それから秋水に跨り、燈を馬上に引っ張りあげる。
燈は最後にもう一度だけ振り返って、見送る人々に手を振った。
「ありがとうございました! このご恩は一生忘れません! どうかお元気で。また会いましょう!」
いつまでも響く人々の声を聞きながら、燈は疾風の背に腕を回した。秋水が勢いよく走り出す。
しっかりと捕まったまま、燈は疾風の背に額をつけて目を閉じた。瞼の裏に、見送ってくれた人々の笑顔が浮かび上がる。
(依月山で、何が分かるかは分からないけれど)
前へ。それだけが今の燈にできることだから、どんなことと出会っても、足元を見失わずにとにかく前へ。どこまでもどこまでも進んでいこう。知るべきことを知るために。そして、燈が決めるべき全ての道を、正しく選択するために。
秋晴れの下、鋭い風が道端の薄を揺らし、燈の背中を押すように一際強く駆けていった。