第三話 逃亡
天子様が殺害された。その噂を聞いてすぐ、疾風は燈の部屋に飛び込んだ。
「燈!」
燈は簡素な単衣の寝巻きのまま。だが、噂はどこからか聞いたのだろう。華奢な肩をがたがたと震わせ、揺れる瞳で疾風を見上げた。
「疾風……。天子様が、亡くなられたって……。どうして……?」
疾風はぐっと奥歯を噛み締めた。燈の疑問には答えられないし、理由を探る暇もない。周囲を素早く見渡して誰もいないのを確認すると、今のうちにと小刻みに震える燈の腕をとった。
「とりあえず逃げるぞ!」
未だ戸惑うばかりの燈の手を引き、家の外へ。神苑の周囲はもう、人々の足音と叫び声で溢れていた。恐らく、そのほとんどは「詠姫」を探す人のものだろう。
詠姫は次の天子を承認する権限がある。もう、次期天子を決める争いは始まっている。本来ならば天羽が荒れるのを避けるためにも、燈がすぐにでもどちらかの皇子を天子へ承認するべきだ。
だが、と疾風は心の中で呟いた。だが、今の状態の燈に次期天子を決めさせるべきではない。疾風に手を引かれる燈は、酷く顔色が悪く目も虚ろ。天子様と会うのを何よりも楽しみにしていた燈に、彼を亡くして呆然としている状態のまま見ず知らずの皇子のどちらかを次期天子へと選ばせるなんて、そんなことできるはずがない。
(それに、天子様が殺害された状況もおかしい)
風の噂程度だが、聞いたところ、天子様は愛刀を手にしていたにも関わらず、一切抵抗した様子もなく殺害されていたらしい。いくら寝込みを襲ったものとはいえ、疾風が一度も勝てたことがない相手だ。そんな人が、刀を持った状態で遅れをとるだろうか。
詳しく調べたいところだが時間がない。それよりもまずは、燈をどこか落ち着けるところへ連れて行くのが先だろう。後のことはそれから考えたらいい。
神苑は木々が立ち並ぶ小さな森のようになっている。家と門を直接繋ぐ道を避け、葉を落とし始めたばかりの太い大木の間を縫うように走り抜ける。行き交う人から燈を隠しながら、何とか神苑の外に出ることができた。
神苑の外は、もう瑞希の街の中心だ。連日往来の激しい場所ではあるが、騒動が市井にも伝わっているのか日が昇ったばかりにも関わらず多くの人でごった返している。疾風は燈を連れてその賑わいの中に飛び込んだ。
「燈、大丈夫か?」
人の波に紛れながら、疾風が燈の様子を伺う。返事は無かったが、ちょっと顔を上げてこちらを見てくれた。その不安げな瞳を慰めるように、握る手に力を込める。
「心配するな。落ち着ける場所を探すから、もう少しだけ我慢してくれ」
そう声を掛けて、疾風は再び駆け出した。追っ手を気にしながらとにかく宮城から離れるように、遠くへ。
駆けて、駆けて。ようやくたどり着いたのは、瑞希の端に位置する宿場町だった。
疾風は周囲を警戒して視線を左右に移した。と、その時、燈が何かに蹴躓いたように崩れ落ちた。
「燈!」
慌てて助け起こす。燈は疾風の手を借りてよろよろと立ち上がった。その足元を見て、疾風は息を呑んだ。燈は自力で立ってはいたが、その足元は真っ赤だ。それもそのはず、燈は草履も履いていない。バタバタしていたせいもあるが、裸足のままここまで走らせてしまったのだ。
胸を突き抜けるような苦い後悔が疾風を襲う。だが、もう遅い。今は一刻も早く落ち着いて休める場所を探さなくては。
(どこかに落ち着いて休める場所はないか? どこか……!)
祈るような思いで辺りを見渡すが、どこも慌ただしく人が行きかい、ボロボロになった二人の子供の様子なんか気にも留めない。かと言って路地裏や建物の陰に入れる隙間もなく、仕方なく疾風は再び別の場所へ移動しようとした。
その時、疾風の真後ろから困ったような女性の声が聞こえてきた。
「一体なんなんだい、この騒ぎは! 人手が足らなさすぎて全然商売にならないよ!」
振り返ると、一軒の宿屋の前に恰幅のよい中年の女性が立っていた。
宿屋は他のものと比べて一回り大きい。どうやら、一階を出店にして馬貸しと日持ちのする食料の販売も兼ねているらしい。店主らしい女性は、灰汁色の小袖に素鼠の褶だつものを締め、白髪混じりの短い焦げ茶の髪を適当に纏めて結っている。困りながらも力強さを失わない野太い声に、疾風は一も二もなく飛びついた。
「おばさん! 俺が店を手伝うから、この子をどこかで休ませてくれないか?」
女性は疾風と燈を上から下まで眺めまわすと、ぱんっと手を打った。
「早くお入り! それからアタシのことは『女将さん』と呼びな!」
疾風は一瞬きょとんとしたが、すぐにぱっと目を輝かせた。
「ありがとう、女将さん!」
こうして、疾風と燈はひとまず一夜の宿を得ることができたのであった。
*
女将さんは、燈のために従業員用の小さな部屋を貸してくれた。
何とか一人寝られるぐらいの狭い部屋だが十分だろう。すぐ隣に、同じ造りの疾風の部屋も用意してくれたのだから感謝しなくてはならない。
疾風は敷布を敷いた部屋にそっと燈を座らせた。足の手当をするために水盥をもらえないか聞こうと部屋を出たところ、盥と布切れを持った女将さんと鉢合わせた。
「連れのお嬢ちゃんにこれが必要なんだろ? 持っていっておやり」
「あ、ありがとう」
慌てて礼を言うと、女将さんが意味深に口角を上げた。
「あんた、えらいあの嬢ちゃんにぞっこんなんだね」
疾風も笑った。いつものにやっとした笑顔で、どこか誇らしげに。
「当たり前だろ、女将さん。燈は正真正銘、俺の『明かり』なんだからさ」