幕間四 春愁
春は朧。けれど八津原は、霞も少なくからりと乾いていることが多い。
八津原の端、天羽の守護たる西家の屋敷は海に面したところにある。堀と高い塀に囲まれた屋敷は、長い年月を偲ばせながらも未だ頑健で、行き交う武人で朝夕変わりない賑わいを見せていた。
そんな賑わいとは少し離れた場所、屋敷の裏手にある母屋に、西の御方は座している。
黄昏と夜の境、西の果ての空が一際強く茜に燃える時間。宵の風は、馥郁たる花の香と潮の香りを纏い、淡蘇芳の袿に流れる彼女の艶やかな髪を柔らかく揺らす。騒がしい兵の声も街の活気も深い海の轟きに紛れ、遥か遠くに揺らいで聞こえる。母屋ではただ、釣灯篭の仄かな灯火だけが儚げに揺れていた。
寄せては返す波濤のざわめきに耳を傾けながら、西の御方は物思いに沈んでいた。
考えるのは、海を隔てた向こうの大陸、睹河原のこと。小国がひしめき合う中の一国に、「琳」と呼ばれる国がある。東海岸に面したこの国は数ある国々の中でも中堅に位置し、その地理的な特性上、古くから天羽と交流が深かった。
しかし現在、琳は王が逆臣に襲われ、異国の民が侵攻して酷く荒れているという。長らく琳と交流し、その交易で栄えてきた八津原ではもう大分前から民衆の間に不安が蔓延していた。
(天羽は琳の知識に学び、琳の技術を取り入れて発展した国。この八津原の状況は、後の天羽全体の縮図であろう)
いずれ、天羽全域が八津原と同じように不安に包まれる。もしかしたら、何かしらの暴動が起きるかもしれない。西家はそれを危惧し、とにかく一刻も早く寅彦を天子にして全権を集中させるために急いできた。その結果詠姫の足取りをつかみ、彼女自身は捕まえ損なったものの、天子様殺害の犯人を見つけて息子の名声を上げることに成功した。
このまま全てのことが上手く運ぶかに思えたが、東家が瑞希で暴動を起こしたことによって一時撤退をせざるに得なくなってしまった。
東家が天羽でしたことを思うと怒りがこみ上げてくる。西の御方は、激情を堪えるように強く歯を食いしばった。
あろうことか東家は、瑞希での暴動を西家のせいにするために部下に武人の格好をさせたのだ。武人は野蛮だろうと決めつけて。
武人とは、決して野蛮な者ではない。荒くれだっただけの者を武人とは呼べない。常に己を律し、日頃から鍛錬を積む武人は、一本の柱のように確固たる信念をもつ。無駄な争いは避け、必要な時にしかその力を振るわない。
彼らは好戦的で興奮して見えて、本当は誰よりも冷静な男たちだ。そんな武人の家に生まれたことを西の御方は誇りに思ってきたし、寅彦もそうであるようにと育ててきた。武人は野蛮とは程遠い、誇りに溢れた人物であると。
むしろ落ちぶれているのは貴族の方だろうと、西の御方は考える。貴族は一族の利益しか考えない。彼らは頭が固く、自分達のことばかり考えて天羽の周囲の情勢を見ようとしない。常に権勢を得ることに必死で、そのためなら狡いことでも何でもする。伝統だ雅だと唱える者に碌な者はいないと彼女は思う。
「貴族らは睹河原から一番遠いところに住んでおる。赤木は水も豊富でろくに貧困に喘いだことも、民衆が暴動を起こしたこともない。安穏と暮らす彼らには、国が荒れることの恐ろしさが分かっておらんのじゃ」
憎々しげに呟いた時、本殿に渡した廊下の方から足音が聞こえてきた。床板が軋む音が、母屋の前で控えめな気配を伴って止まる。
「母上、ただ今参りました」
「寅彦か」
声を聞いた西の御方は、母屋の中に息子を呼び招いた。侍女が用意した茵にどっかりと腰を下ろした寅彦は、背筋を正して母の方を見る。侍女が母屋を出ていくのを見届けた西の御方は、文机の上に一枚の文書を置いた。
ごくごく簡素な料紙は、西家の密偵のもの。西の御方は、濃い墨で書かれた一文を指し示した。
「この文書は二日前に密偵が渡してきたものじゃが、内容は分かっておるな?」
西の御方の問いに、寅彦はすぐに頷いた。
「はい。近日中に、兄上と詠姫様が会談するとの話を聞いております」
寅彦の返事に、西の御方は会心の笑みを返した。息子が東家の皇子を未だ兄と呼び慕うことは多少気に食わないものの、概ね正解だ。
二日前、東の御方の息子辰彦が、どういう方法を使ったのか詠姫を発見・接触し、会談をするという話を入手した。このままだと、詠姫が辰彦を天子と認めてしまう。それを危惧した西の御方は会談の日時を調べ、こうして寅彦を呼び出したのだ。
西の御方は、寅彦に向き直ると単刀直入に言った。
「寅彦、詠姫様と辰彦様の会談にお前も参加せよ。辰彦様が天子になるのを阻止するのじゃ」
この言葉に、寅彦はすぐに頷くかに思われた。が、彼は思案するように目を伏せ、西の御方から視線を外した。
「どうしたのじゃ、寅彦?」
西の御方が訝しげに首を傾げる。寅彦は僅かに視線をさまよわせると、ひとつ息を吐いて母に向き直り、懐から一枚の紙を取り出して差し出してきた。
「実は昼間、八津原を巡回する兵士から噂を聞きまして……」
「詠姫の付き人が、依月山の資料を調査するじゃと?」
受け取った檀の懐紙に書かれた内容を見て、西の御方は鋭く目を細めた。
記された日は、丁度詠姫と辰彦が会談をするとされる前日の夜。明らかな挑発か罠であった。
「寅彦、まさかお前依月山に行こうと思っているのではあるまいな? このようなもの、東家が流した噂にきまっておろう」
「罠かは、行ってみなければわかりませぬ」
西の御方は一笑したが、寅彦の眼差しは本気であった。彼は、さらに言葉を連ねて説得しようとする。
「付き人殿がいなければ、その足で会談の場所に向かえば良いのです。幸い、あの場所には右翼平原からしか通れない近道があります。俺なら、馬で全速力で向かえば一日とかからないでしょう」
西の御方は寅彦の話を聞きながら、心の中で首を傾げた。彼は大変素直で、少しやんちゃが過ぎるところはあるものの、今まで一度として親の意見に歯向かうようなことはなかった。そんな彼がここまで食い下がるとは。
「寅彦、そこまでして付き人に会ってどうするつもりじゃ?」
西の御方の問いに、寅彦は僅かに目を見開いた。が、すぐに真剣な眼差しに戻した。彼の強い眼光が母の瞳を真っ直ぐに射抜く。
「……話をします。付き人は武芸に秀でると聞きますから、武人の話も通じやすいでしょう。上手く会話すれば、こちらの味方にできるかもしれません」
寅彦の意見を聞き、西の御方は虚空を見上げた。正直なことを言うと、罠の可能性はかなり高いし、会談の方に行ってほしい気持ちもある。しかし、寅彦の意見は理にかなっている。それに、息子がこんなに言うのであれば行かせてやりたいという気持ちもある。
暫くして、西の御方は僅かに嘆息した。不安げな顔をする寅彦に向き直る。
「良いじゃろう。依月山に向かうことを許す」
瞬間、張り詰めていた寅彦の表情が一気に揺らいだ。子供のような喜色満面の笑みを浮かべ、慌てて頭を下げる。
「ありがとうございます、母上!」
いそいそと立ち去る寅彦を見ながら、西の御方は心の内に燻る小さな訝しみを拭えずにいた。
ここ最近、寅彦は柄になく物思いに耽っていることが多かった。大方、王位争いのことを考えているのだろうと考えていた。が、今回の意思の固さから察するに、息子が何かそれ以上のことを隠しているように思えて仕方がないのだ。
(できることなら、寅彦の全てを知りたいのじゃが……)
母に言いにくいことがあるのは仕方がないとはいえ、一抹の寂しさと憂いを感じてしまう。
すっかり陽の沈んだ夜空を見上げ、西の御方は暫し瞼を閉じた。
「これが、春の愁いというものであろうか」
そっと囁いた声は、すぐに宵闇の静寂にとけていく。
閉じた御簾の向こう、膨らみかけた望月が灯火を落とした屋敷を見つめていた。
 





