ツミイロカプセル
真夜中の中学校は静まり返っていた。
明かりの消えた校舎に、人の気配はない。渡り廊下に貼られたポスターが、風にあおられて音もなくはためいている。
そんな中、校舎に挟まれた中庭には四人の若者が集まっていた。それぞれが手にする携帯照明の光が、暗闇の中で無軌道に揺れる。
「なあ……ほんとなのかよ、その話」
青いダウンジャケットを着た亮太が、金属製のシャベルを地面に突き立てて言った。日付が変わるころから降りだした雪に、地面はうっすら白ばんできている。
「ここにあいつの、――があるって?」
「うん」
うなずいたのは、みのりだ。ピーコートのポケットからスマートフォンを取り出し、呼び出したメール画面を亮太に見せる。
「『カプセルが開くとき、君たちの罪も暴かれるだろう』? なにこれ、気持ち悪っ」
横から覗き見た香奈は、両腕で自分の身体を掻き抱いた。栗色の巻き髪が、ファーつきコートの胸元で跳ねる。
「それにしても、誰なんだろうな。桜中出身で、みのりや俺のアドレスを知ってる奴っていうと――」
黒のトレンチコートを着た圭は眼鏡を指で押し上げたものの、すぐに「いや、違うな」と首を振った。
「そうだよ。これ、ほんとは私たちみんなに送られてたんじゃないかな。中学のときのアドレス宛てに」
「ああ、あたしと亮太はメアド変えてるから」
みのりの言葉に、香奈がポンと手を合わせる。
「じゃあこいつは、中学んときに全員ぶんのアドレス知ってたってことか? なんか気味わりいな」
みのりのスマホを片手に、亮太は眉をひそめた。ほかの三人も強張った表情で黙り込む。
「……まあいい。犯人捜しはあとにしよう」
圭は唇を歪めて笑うと、亮太の肩を叩いた。「だな。さっさと掘っちまわないと。――この木で合ってるか?」
「合ってるよ」
みのりは桜の若木につけられたプレートを懐中電灯で照らす。プレートには卒業年月日とクラスが記され、その日付は五年前の三月一日になっていた。
「疲れたら交代な」
亮太は腕まくりをして木の根元を掘りはじめる。中学卒業を控えた冬、彼らはクラスの全員でそこにタイムカプセルを埋めた。そのときの彼らは、まだ五人グループだった。
今ここにいない一人は、カプセルを埋めた直後に死んだ。通学路の途中にある橋から川に転落したのだ。橋の上には彼の乗っていた自転車が残されていたが、遺書らしきものはなかった。川の中から発見された携帯電話からも事件や自殺を示すようなデータは見つからず、けっきょく、彼の死は不幸な事故として処理された。
「ったく……なんなんだよ、今さら」
シャベルを操る亮太の口から、ぼやき声が漏れる。
「俺だって同じ気持ちさ。今年はサークルの新年会があるから、成人式だけ帰ってくるつもりだったのに」
圭は腕組みをして、ブーツの爪先をせわしなく動かしていた。
「でも、それじゃ間に合わない」
「カプセル開けるの、成人式の日だって言ってたもんねえ」
みのりと香奈が口々に言う。
みのりと圭のもとに届いたメールには、こう記されていた。
――タイムカプセルには海斗の遺書が入っている。カプセルが開くとき、君たちの罪も暴かれるだろう。
海斗――須崎海斗を連れてきたのは誰だっただろう。
少しずつ深くなっていく穴を見ながら、佐伯は思う。
佐伯は小学校時代の友人に誘われてグループに入ったが、海斗はグループの誰とも知り合いではなかったはずだ。もしかすると、悪ノリした誰かが面白半分に引き込んだのかもしれない。
海斗は中三男子にしては背が低く、体つきも華奢だった。成績は悪くなかったものの、五人の中では上位とはいえない。運動神経にいたっては壊滅的で、体育祭ではチームの足を引っ張るほどだった。
『うちには須崎がいるからなあ』
運動が得意なクラスメイトは、そんなあからさまな嫌みを言ったものだ。そのたびに佐伯たち四人は、強い口調で海斗をかばった。
『運動神経なんて、ある程度体格で決まるもんだろ。ちょっとガタイがいいからって威張んじゃねえよ』
『そうそう。中三にもなっていじめとか、マジダサいし』
綺麗すぎるほどの正論と、「いじめ」という語の強調。相手を黙らせるにはそれで充分だった。居合わせたクラスメイトは佐伯たちを正義とみなし、陰口を叩いた生徒に軽蔑のまなざしを向けた。当時の佐伯たちは、友情の手本のように見えていたのかもしれない。
きっとクラスメイトたちは、想像もしなかったのだろう。――本当のいじめは、まさにそのグループの中で行われていただなんて。
雪は粉雪へと変わった。白く塗り替えられた中庭に、シャベルの音と荒い息遣いが響く。携帯照明のスイッチはすでに全員切っていたが、雪明かりで辺りはぼんやり明るかった。
「代わってくれ」
圭は雪の上にシャベルを放り出すと、額の汗をぬぐった。花壇を囲むブロックに腰を下ろし、雪空を仰ぐ。
「んだよ、体力ねえなあ。さっき代わったばっかだろ」
「うるさいな……俺は頭脳派なんだよ」
「じゃあ、次、あたしやるね」
そう言って進み出たのは香奈だ。自分の胸の高さほどもあるシャベルを手にしたはいいが、地面に突き入れるなり、バランスを崩してたたらを踏む。
「重っ……! なにこれ、全然掘れないじゃん」
「手伝おうか?」
「ううん、大丈夫。あたしだけ楽するのも悪いし」
みのりの申し出を断り、香奈はシャベルを握り直した。シャベルの先端で、土を掘るというよりは削る要領で少しずつ穴を深くしていく。
「なあ、あのメールだけどさ」
乱れた呼吸が整ってきたところで、圭が口を開いた。彼の前髪には、解けた雪が滴となって貼りついている。
「あんなこと書ける奴っているか? そいつは、俺たちと海斗のことを知ってたってことだろ?」
「どこかからこっそり見てたとか?」
「いや、それはねえだろ」
「だよねえ、あたしらうまくやったもん。みんなにばれないようにさ」
香奈はシャベルを振りながら言った。投げ捨てられた土が、雪の上に黒い飛沫のように散る。
「ああ、俺だってそう思ってる。でもそうすると、おかしなことになるんだ。俺たち以外に知ってる奴がいないなら、メールを送ってきたのはいったい誰なんだ?」
圭は地面に目を落としたまま問いかけた。
「……海斗だったりして」
「馬鹿言うなよ」
香奈の呟きに、亮太は声を荒げる。
「あいつは死んだんだ。お前だって葬式に出ただろ」
「けど――」
「海斗じゃないよ」
言い争いは、みのりの一言で止まった。
「私たちの誰かが、他人のふりして送ったんじゃないかな」
みのりは右手の人差し指で唇をなぞりながら、視線を宙に巡らす。左手はコートのポケットに入れていた。
「え、嘘でしょ?」
「誰かって誰だよ」
「さあな」
みのりの代わりに圭が答える。
「ただ、そう考えれば辻褄は合うんだ。俺たちは全員、アドレスを交換してたからな。――自首するなら今のうちだぞ」
冗談めかして言うが、名乗り出る者はいなかった。お互いの顔に、ちらちらと目を走らせるばかりだ。
「そんな簡単にはいかないか」
眼鏡の奥の目を細め、圭は軽く息をつく。
「そういう圭が犯人って可能性もあるよね」
「ああ。そういうみのりが犯人って可能性もな」
「そっか。自分のスマホにもメール送ればいいんだもんね」
香奈が言った。
「パソコンとか使えば、簡単にできるんじゃない?」
「じゃあ、誰が犯人でもおかしくないってことじゃねえか」
亮太はスニーカーを履いた足で地面を蹴った。四人のあいだに、再び沈黙が下りる。
「……悪い、変なこと言ったな。忘れてくれ」
圭はパンと手を叩くと、頭の水滴を払って立ち上がった。
「今は仲間割れしてる場合じゃないからな。本当に海斗の遺書が入ってるとしたら、そのまま放っておくわけにはいかない」
「ああ……だよな。今さら裁判とか起こされても困るし」
「困るってレベルじゃないよ。あたし、今年就職なんだから」
美容系の専門学校に通う香奈は、口をとがらせて言う。
「じゃあ、次は私だね」
みのりは冷えきった両手をこすり合わせ、香奈からシャベルを受け取った。穴の周囲には、掘り出した土と雪とが重なり合って白黒のまだら模様ができている。
みのりはコートの袖をまくり上げると、ぎこちない手つきでシャベルを振るった。
佐伯たち五人は、学校ではいつも一緒といっていいくらいだった。休み時間や給食はもちろん、特別教室に移動するときでさえ五人でぞろぞろと動いた。くだらない話題で盛り上がったり、小突き合ったりしながら。
すれ違う教師にうるさいと注意されることもあったが、それはあくまで騒々しさを咎められたにすぎない。本当に咎められるべき「遊び」は、教師やほかの生徒の目の届かないところで行われていた。
『海斗、お前、お笑いの――に似てるよな』
周囲に人がいなくなったとたん、決まって話題は海斗のことになる。
『……似てないよ』
『いや、似てるって。ほら、あのネタあるだろ。いいからやってみてくれよ』
仲間にせがまれ、海斗はしぶしぶお笑い芸人の真似をしてみせる。照れたような笑みとともにそれが終わると、佐伯たちは待っていたとばかりに言葉を浴びせかけた。
『やっぱ似てねえわ』
『全然駄目だな』
『っていうか、恥ずかしくないの? そのレベルでみんなに見せようなんてさあ』
『そうそう。せめてもう少し練習してからにしてほしいよね』
顔を見合わせ、クスクスと嫌な笑いを漏らす。無理やりやらせたくせに、ずいぶんな反応だ。
それでも、海斗は怒ったりしなかった。ただ黙って、困ったような笑みを浮かべていた。――少なくとも、表面上は。
そしてまたほかの生徒が来ると、佐伯たちは瞬時に「仲良しグループ」に戻り、なにごともなかったかのように会話を続けた。
佐伯はこの「遊び」が嫌いだった。始まったとたん、友人の仮面を取っ払ったように態度を変える仲間たちも、文句一つ言わず、笑って嵐をやりすごそうとしている海斗も。
しかしなにより嫌だったのは、仲間を止めることもせず、いつの間にか「遊び」に加わっている自分自身だ。下手に口を出せば、次は自分が標的になるかもしれない。そう思った佐伯は、仲間とは逆に仮面で本心を覆い隠し、彼らと一緒になって海斗をからかった。仲間が放った言葉に手を叩いたり、仄暗い嘲笑を浮かべたりするたび、胸の底から黒いものが湧き上がってくるのを感じた。
――これは本当の自分じゃない。
そう強く意識していないと、黒い渦に呑まれてどうにかなってしまいそうだった。
唯一仮面を外したままでいられたのは、部活動の時間だ。海斗は写真部に所属していて、授業が終わるとカメラを手に教室を出ていった。美術部の幽霊部員だった佐伯は、そんな海斗についてよく校内をうろついたものだ。
二人でいるとき、海斗はほかの仲間のことをいっさい口にしなかった。父親のお古だという一眼レフをいじりながら話すのは、いつも写真のことばかりだ。
『県美術館でやってる写真展、すごくよかったよ。どこにでもある風景なのに、全体が輝いてる感じでさ』
興奮気味に語る海斗の顔は晴れ晴れとしていて、聞いている佐伯まで自然と笑みがこぼれた。
明日になれば、また「遊び」が始まる。それがわかっているからこそ、佐伯には二人きりの時間が貴重なものに感じられた。下校のチャイムが鳴るまで、自分は海斗の純粋な友人でいられる。「遊び」を止められない佐伯にとって、それはせめてもの罪滅ぼしだった。
「あいつが死んだとき、オレ、やばいと思ったんだよな」
カーゴパンツにまとわりつく雪を払って、亮太が言う。
「ばれないようにやったっつっても、本人が日記とかに書いてりゃアウトだろ」
「時期が時期だし、最悪、高校進学も駄目になってたかもね。……想像したくないけど」
息を切らしながら、みのりが答える。穴は深さ三十センチほどになろうとしていた。
「確かにそれは痛いな。でも、海斗としてはその程度の仕返しじゃ不満だったわけだ。どうせなら、そろそろ就職なんかが見えてくる二十歳あたりで爆発させてやろう、と」
言いながら、圭は顔の前で右手をパッと開いた。
「ねえ、遺書が見つかったら、あたしたち捕まるの?」
「バーカ。そうならないように掘り出してんだろ」
亮太は香奈の頭をニット帽の上から小突く。
「亮太の言う通りだ。遺書なんて燃やしてしまえばいい」
圭はジーンズのポケットからライターを出して火をつけた。眼鏡のレンズが、炎を反射してオレンジ色に染まる。
「五年前だって、俺たちのせいだなんて言う奴は誰もいなかったんだ。唯一の証拠が遺書なら、それを消してしまえばなんの証拠もなくなる」
「証拠がなけりゃ、捕まえようがないもんな」
「じゃあ、メール送ってきた人に感謝しないとね。わざわざ証拠を消すチャンスをくれたわけだから」
みのりは振り向き、かすかに笑った。花壇から腰を上げた亮太が、「代わる」とシャベルに手を伸ばす。亮太はザクザクと音をたてて、勢いよく土を掘り進めていった。
「馬鹿だよねえ、そいつ。成人式まで黙ってればよかったのに。海斗の遺書があるなんて言われて、あたしたちがほっとくわけないじゃん」
「当たり前だ」
香奈の言葉に、圭はうなずく。
「五年も昔のことで、今さらどうこう言われてたまるか。あんなのガキの遊びだろ」
「だよなあ。あれくらいで訴えられたら、むしろ俺たちのほうが被害者だっての。――お」
ボコン、という音と同時に、亮太が手を止める。
「やったか?」
圭は穴の底にLEDライトの光を向けた。土の中から覗いているのは、鈍色に光る金属製の容器だった。蓋には白い文字で、卒業年度とクラスが書かれている。
「そうそう、こんなだった。懐かしいなあ」
穴の中を覗き込み、香奈は目を細めた。
「んじゃ、ラストスパートといくか」
亮太はシャベルを容器に当てないよう、周囲の土を掻き分けるように取り除いていく。
タイムカプセルが開けられるのは時間の問題だった。
ドーム型の蓋のついた金属製の容器。今にも掘り出されようとしているそれを見ながら、佐伯はコートのポケットに手を入れた。指先に触れる、硬く冷えた感触。その小型のICレコーダーは、今夜四人が集まってからの会話をすべて録音している。
あのメールを送ったのは佐伯だ。アドレスを変えた仲間には届かなかったが、仲間の一人がみんなを電話で呼び集めてくれたおかげで、予定通り全員がそろった。
メールで海斗の遺書のことをほのめかしたのは、証拠隠滅の手助けをするためではない。佐伯は五年前のいじめを告発するためにここにやってきたのだ。
『じゃあ、また明日』
あの日、夕暮れの迫る教室で、海斗はいつも通りに微笑んだ。
『ん』
佐伯は軽くうなずき、ひらひらと手を振って別れた。――まさかそれが、最後になるなんて思わずに。
海斗の死は突然で、前触れらしきものはなにもなかった。それでも佐伯には、あれが事故だとは思えない。きっと、「遊び」という名のいじめに耐えきれなくなって自殺したのだ。そうでもなければ、中三にもなってうっかり川に落ちたりするものか。
それは確信といっていいくらいの思いだったが、口に出すことはどうしてもできなかった。誰かに話したところで、信じてもらえるとは思えなかったからだ。「遊び」の存在は巧妙に隠されていた。知っているのは、海斗も含めたグループの五人だけだっただろう。その証拠に、海斗が死んだとき、佐伯たちは警察からろくに事情も聞かれなかった。
そんな状況で、佐伯になにができただろう。自分のほかは誰一人、海斗へのいじめを認めない世界で。駄目もとで「遊び」のことを打ち明け、残り少ない中学生活を一人ぼっちで過ごすか、なにもなかったような顔をしてグループにとどまるか。――十五歳の佐伯は、後者を選んだ。
卒業式は苦い思い出しかない。それでも高校に進学し、さらに大学受験が近づいてくると、罪悪感は少しずつ薄らいでいった。隣県の大学に進学してからは、海斗のこともめったに思い出さなくなっていた。
記憶をよみがえらせてくれたのは、去年の暮れに届いた成人式の案内状だ。タイムカプセルを埋めたとき、海斗も確かに封筒のようなものを入れていた。封筒の中身が遺書だとすれば、海斗の死の真相を明らかにする大きな証拠になる。
カプセルを一人で掘り出さず、わざわざ全員を集めたのは、最後に彼らの思いを確かめたかったからだ。もし反省しているようだったら、場合によっては遺書を闇に葬ることも選択肢に入れていた。実際は見ての通り、まるで反省なんかしていないわけだが。
カプセルが開いたとたん、遺書を真っ先につかんで逃げるのは難しいだろう。佐伯はあまり足が速いほうではない。しかし、最悪、遺書を奪われたとしても、まだ打つ手はあった。ポケットの中のICレコーダーを、そっと握りしめる。このレコーダーに録音された会話は、いじめがあったことを示す証拠として使えるはずだ。いざとなったら、これを警察に持っていけばいい。
――そうすることで、佐伯自身も罪に問われることになるとしても。
「発掘完了、っと」
亮太はタイムカプセルを穴から出すと、蓋についた土を払って雪の上に置いた。ベルトに下げてあった万能ツールのドライバーで、蓋を留めつけているねじを順番に外していく。
「開けるぞ」
亮太が蓋を引き上げたとたん、カプセルを囲む全員の視線がいっせいに容器の中に注がれる。
小さめのゴミ箱ほどのカプセルは、手紙でいっぱいだった。柄入りの封筒に入ったものもあれば、ノートの切れ端を折り畳んでホチキスで留めただけのものもある。どれも目立つところに、出席番号と名前が書いてあった。
「わ、これあたしのだ」
色とりどりのシールで飾られた封筒を手に取り、香奈が歓声を上げる。
「馬鹿、いきなり脱線してんじゃねえよ」
「さっさと見つけないと、雪で濡れそうだな」
圭は手袋をした手で手紙を一束つかむと、ライトを当てて一つ一つ名前を確認していった。ほかの三人も、残りを手分けして見ていく。
紙の擦れ合う音がしばらく続いたあと、亮太が小さく叫んだ。
「あったぞ、須崎海斗」
ほら、と仲間に向けて白い封筒を差し出す。その表には黒いペンで海斗の名が記されていた。
「間違いない。海斗の字だ」
「じゃあ、この中に遺書が入ってるんだね」
圭とみのりは、唇を引き結んで封筒を見つめる。
「それにしては分厚くない? いったいどんだけ書いたんだっての」
封筒の端をつまみ、香奈が言った。
「確かに分厚いな。ほんとに遺書なのか?」
「貸してみろ」
圭は亮太の手から封筒をもぎ取ると、ピリピリと端を破きはじめた。
「遺書かどうかは、見てみればわかる。いいかげん冷えてきたし、さっさと片づけて帰るぞ」
そう言って、中身を封筒から引っ張り出す。つかみ損ねた数枚が、ひらりと舞って雪の上に落ちた。
「写真……?」
そのうちの一枚を拾い上げ、香奈が呟く。それは満開の桜を写した写真だった。右端には中学の校門が写り込んでいる。
「なんだよ、ただの風景写真じゃねえか。遺書はどうしたんだ?」
「今探してる」
圭は手袋を脱ぎ捨て、写真の裏を手早く見ては地面に放り出していく。
「ちょっと、汚したらまずいんじゃない?」
次々と宙に舞う写真を、みのりは順に拾い集めて重ねた。朝日に照り輝く校舎。誰もいない雨のグラウンド。焼却炉の周りに降り積もった落ち葉。夕暮れに朱く染まる渡り廊下。
どれも風景を中心とした構図で、ほとんどはこの中学校の校内で撮られたものだった。
写真を膝の上でまとめると、また新たに舞い落ちた一枚を拾い上げる。しかし、それを表に返した瞬間、みのりは息を呑んだ。
写っているのは、一人の女子生徒だ。紺色のセーラー服を着て、ショートヘアの前髪をピンで留めている。パンジーの花壇に座り込んだ彼女は、カメラのほうを見て微笑んでいた。
「……心配して損したな」
最後の一枚を無造作に投げ捨て、圭はフンと鼻を鳴らした。
「遺書なんてどこにもない。あのメールは、ただの悪戯だったんだろう」
「オレらはそれに、まんまと引っかかったってわけか」
「なんか馬鹿みたい。こんな夜中に、必死で穴掘りなんかしちゃってさ」
亮太と香奈も、自嘲ぎみに笑う。笑わなかったのは佐伯だけだった。
「どしたの? なんか面白いものでも写ってる?」
「え?」
背後から香奈に覗き込まれ、佐伯は顔を上げる。
「あっ、これみのりじゃん。なんでこんなの入れたんだろ」
「まさか、俺たちの写真もあるのか?」
圭に鋭い口調で問われ、佐伯は慌てて首を振る。
「人が写ってるのは、これだけみたい。たぶん、練習として撮ったんじゃないかな」
「そっか、あいつ写真部だったもんな。じゃあこれは、記念に入れただけか?」
「そんなとこだろう。いじめのことを知らせるつもりなら、少なくとも俺と亮太の写真は外せないはずだからな。――どうする? 念のため処分しとくか?」
圭はライターを出そうとするが、佐伯は「大丈夫」と断った。
「これは、自分で持って帰るから」
「だよねえ、さすがに燃やすのはねえ。海斗が撮ったにしては可愛く撮れてるし。もしかして、あいつみのりのこと好きだったんじゃない?」
香奈はきゃらきゃらと笑いながら、佐伯の肩を叩く。勝手な想像でひとしきり盛り上がると、今度はほかの生徒の手紙を物色しはじめた。
「封がしてあるやつは開けるなよ」
「わかってるってば。――あ、亮太の見っけ」
「おい、ちょっと待て! 勝手に見んな!」
遺書がないと知って安心したのだろう。圭と亮太も加わってにぎやかにじゃれ合うさまは、まるで中学時代に戻ったかのようだ。
佐伯は花壇の端に座り、海斗の遺した写真を眺めた。海斗が切り取った風景は、静けさの中に不思議な温かみが感じられた。レンズを通した海斗の視界には、いじめなんてものは映らなかったのだろうか。それとも、あえてほかのものに目を向けることで気を紛らせようとしていたのだろうか。
写真の中には、川を写したものが何枚かあった。少し画質が荒いから、携帯電話で撮ったのかもしれない。陽射しを受けてきらきらと輝く水面。入道雲を背に羽ばたく鳥の群れ。川向こうの山へと沈みゆく夕陽。どれも同じ場所から撮影したらしく、左端に橋の鉄骨が写り込んでいた。
「……もしかして」
佐伯は誰にともなく呟く。転落死したあの日、海斗は橋の上で写真を撮ろうとしていたのではないか。携帯電話を片手に欄干から身を乗り出す海斗の姿が、やけにはっきりと脳裏に浮かぶ。撮影に夢中になっているうちに、風にあおられるなりしてバランスを崩したのだとしたら。――あれは本当に、事故だったことになる。
佐伯は震える手で、一枚の写真をつかんだ。中学生の佐伯は、写真の中で曇りのない笑顔を浮かべていた。高校の部活で写真を少しかじった佐伯にはわかる。――これは心から気を許した相手に見せる顔だ。
粉雪が写真に舞い落ちては、じわりと解けて透明な水玉模様をつくる。そこにぽたりと、大粒の滴が落ちた。佐伯はにじんだ視界のまま写真を握りしめる。
海斗のことを、ずっとかわいそうだと思っていた。だから二人きりのときだけでも、本当の友達になってあげたつもりでいた。
けれど、違ったのだ。
海斗の存在に助けられていたのは、佐伯のほうだった。海斗がいたから、息苦しいグループの中でも孤独を感じずにすんだ。なのに仲間の前では、みんなと一緒に海斗を笑っていたなんて。
たぶん、自分は許されたかったのだろう。息を吐くと、苦い笑みが漏れた。
「ねえ、みのりもこっち来なよ」
香奈の呼ぶ声に、黙って首を振る。
レンズ越しの海斗の目は、なにもかも見透かしていたのかもしれない。
自分の罪が焼きついた写真を手に、佐伯は声を殺して泣いた。