(1)
幽霊に関する案件を扱う店・霊能堂に雇われてから数日。神楽は早くも、ここでの仕事がいかほどに大変なのかを理解し始めていた。
「ふわあ……ふう」
神楽は窓際で風に当たりながら、大きな欠伸を一つする。
そして、この数日の間でこなしてきた仕事のことをぼんやりと思い返した。
「こんなことを毎日してたら、寝不足にもなるわ。少しだけど、勇さんの職業病の原因がわかったかも」
神楽は主に、幽霊退治として霊能堂に舞い込んできた仕事の中で、話を聞いてやれば成仏しそうな案件ばかりを担当している。
一応、幽霊を生きている人間と同じように見る力を持つ神楽などとは比にならないほど強い霊能力を身に宿す勇が、除霊の力を持たなくても安全に遂行できそうなものだけを見極めてくれているため危険が及ぶことこそなかったが、その仕事をする時間帯がつらい。
まれに真っ昼間から化けて出てくれる人間に優しい(?)者もいるが、幽霊の活動時間というのは深夜であるのが基本。いくら話を聞くだけでいい仕事とはいえ、普段は布団の中でぬくぬくと寝ているはずの時間に依頼先まで向かってひたすらに相づちを打ったり、それ相応の受け答えをしたりするのは案外体力を消耗するものである。正直、幽霊達が未練を晴らして満足そうに成仏していく姿を見られなければ、やりがいを感じられずに投げ出したくなるかもしれない。
「私、役に立ててるのかな」
重くなりつつあるまぶたをどうにか持ち上げながら、自費で購入した栄養ドリンクを口に含む。
平日は取りこぼしの単位を稼ぐために大学へ通う傍らで仕事に取り組み、土日祝日も霊能堂に最低でも顔は出すというハードスケジュールをこなす身体に、さわやかな酸味がじわっと染み込んでいく。
神楽は少しでも霊能堂に貢献するため、一刻も早く仕事の要領を掴みたくて仕方がなかった。労働法基準法など、あえて脳内から抹消している始末だ。
「……ところで。勇さんはさっきから何をやってるのかしら」
ひと時の休息に安らぎを覚えつつある中で、気になって仕方ないものがある。それは、先程からソファーに腰かけたまま何かをブツブツと唱えている勇である。
彼の前には瞳を潤ませたサラリーマン風の男が突っ立っている。つい先程まで栄養ドリンクを買いに出かけていた神楽から見れば、ある意味シュールな光景だった。
多分、依頼を受けてこんなことをやっているのだろうが……。そういえば、今日は日曜日。遥がずっと霊能堂にいたはず。
事情を把握すべく、神楽は一部始終を見ていたと思われる、私服姿の遥に声をかけてみることにした。
「あの、遥ちゃん。勇さんって、さっきから何をやってるの?」
「ふんふんふん♪」
「……」
しかし、遥は応答に反応すらせず、部屋の隅で鼻歌を歌っている。
よく見てみると耳にイヤホンをつけており、携帯音楽プレーヤーで自分の世界に入り込んでいるようだ。すっかり上機嫌のご様子で、完全に陶酔しきっている。
「あのー。お願いだから、ちょっとだけいいかな?」
「るるっ。るるー」
めげずに再び声をかけてみたが、無反応。
だが、気になってしまった以上、心理的にどうしようもない。神楽は引き下がることなく、さらに強く呼びかけてみることにした。
「遥ちゃん? ねえ、聞こえてるよね?」
「どぅるるるー。るるー」
「お願いだから、話を聞いて。ねえ!」
「らららー。らーらー」
「遥ちゃん! 遥ちゃんったらちょっ……」
「さっきから遥、遥ってうるさいな! 仕事の邪魔だ。集中できないから静かにしててくれ!」
まずいことに、音楽に酔いしれている遥よりも先に、勇の方に言葉が届いてしまったようだ。
集中とやらが途切れてしまったらしく、ブツブツ唱えていたものをピタリと止めて神楽のことを睨みつけている。
「休憩だったら、おとなしくやっていてくれ。頼むから」
「……ご、ごめんなさい」
「わかったならいい。はあ。もう一度唱えなおしだ」
神楽が反省したのを見届けると、勇は目を閉じて再び何かを唱え始めた。
「ん? 今、誰か何か言った?」
勇の一喝が聞こえたのか、遥はようやくイヤホンを取り外して陶酔から覚めてくれた。
神楽にとってはまさしく不幸中の幸い。怒鳴られ損にならずに済んだ。
「よかった、やっと聞こえたのね。ちょっと気になることがあって」
「え? 神楽ちゃん、あたしが聞いてた音楽が気になるの?」
「あ、いや、私が気になってるのはそういうことじゃなくて」
「あたしが聞いてたのはね、あの超カッコいいスーパーウルトラアイドルの、柴谷リョーヤの最新シングル『君のお金で乾杯』。もう、めちゃめちゃいい曲なんだから! なけなしのお小遣いを投資しただけの価値はあるわね。お兄ちゃんったら、あたしの成績がこれ以上落ちたら困るからって、よそでのバイトは禁止だって言うし。ひどいよねー」
すみません。そんなこと、一度も尋ねた覚えはありませんが。
勝手に好きなことをペラペラと語る遥を前に、神楽は呆気にとられるより他はなかった。
二人が全くかみ合わない会話を繰り広げていると、その間に勇の様子に変化が見られた。
何かを唱えるのをやめたかと思うと目をカッと見開き、天井の方を見上げる。その顔からは表情が失われ、どこか虚ろなようにも思えた。
「え? い、勇さん?」
「あ、声かけちゃ駄目。いいところなんだから」
異常な状態に陥った勇が心配になり、駆け寄ろうとした神楽のことを遥が制した。
何故だかよくわからないが、音楽を聞いていた時よりもいささか興奮しているように見える。
「そうそう。私、アレについて聞きたかったの。勇さん、さっきから一体何をしてるの?」
「え、アレ? アレはどう見たって、口寄せじゃない」
「口寄せ?」
確か、霊媒師やイタコなどが自らの肉体に霊を憑依させ、霊の言葉を代わりに語ることだっただろうか。以前、霊能堂での仕事の話をされた際にもちらっとだけ触れられていたような気がする。
「お兄ちゃんの口寄せ、すごいんだよ。もう、オカルト好きにはたまらないの! まあ、あたしには幽霊が乗り移るところは見えないんだけど。そこだけ惜しいなあ……」
「うーん……惜しいのか、惜しくないのかよくわからないけど」
では、現在目に映っているアレは、間違いなく本物ということでしょうか。
神楽は狭い室内を舞う、青白い火の玉を見ながら少しばかり混乱していた。
薄くぼんやりと輝きを放つさまは見る人によっては、もしかしたら美しいと思うかもしれない。だが、神楽は人の姿をしていない幽霊を見た経験がほぼ皆無に等しいため、どこか恐ろしいものにも感じられた。
「人じゃないのも、一応見えることがあるんだ……」
「ん? 神楽ちゃん。もしかして、何か見えてるの?」
「う、うん。まあ……あっ!」
宙をフラフラと舞っていたかと思うと、人魂は徐々に勇の元へと引き寄せられ、その身体に入り込んでいった。
完全に収まりきるのと同時に、今まで虚ろだった勇の目に再び感情が宿る。とうとう、霊が憑依したらしい。
「……達夫?」
勇の身体を借りた何者かが、正面で自身を見据えている男をじっと見つめた。
口調がやや女々しくなっているところから判断すると、この霊は女性だろうか。
「理香? 理香なのか?」
依頼人のサラリーマン……達夫が半信半疑といった様子で問う。
すると幽霊は「この話し方を聞いてわかんないの? 私に対するあんたの愛は、この程度だったわけ?」と非常に冷たい切り返しを披露した。
普通は「そんな冷たく言わなくたって……」と不満には思わずにはいられなさそうなものであるが、彼は一味違った。
「あ……あ……ま、間違いない。理香だ。理香―っ!」
達夫は急に、滝にも負けない勢いで目から涙をボロボロとこぼし、全身をガタガタと震わせた。そして何を思ったか、いきなり幽霊をとっ捕まえてガバッと強く抱きしめた。
「理香ああああっー!」
「きゃっ! ちょ、ちょっとやめてよ。これ、あくまでも霊媒師さんの身体なんだからっ」
「そんなのどうだっていい! 理香ーっ!」
「いい加減にしなさい!」
「ぐえっ」
理香としては軽く跳ねのけたつもりであったのだろうが、彼女が自覚している通り、今は勇の肉体を借りている身である。
振り上げられた勇の拳がこめかみにクリーンヒットした達夫は、床に倒れ伏してしまった。
「うう、痛い。痛いよお……」
「あんたってさ、どこまで頼りないのよ。こんなんだからさ、私は心配でいつまでも成仏できないのよね」
「え?」
理香からの思いがけない一言に、達夫は目をぱちくりとさせる。どうにか身体を起こしながら、間の抜けた声で続けた。
「き、君はとっくに天国に行ったんじゃなかったのか」
「毎日私の仏壇の前で泣き崩れてる駄目亭主を置いて、あの世なんかに行けるもんですか。あんたがそんなだから、子供達もずっと暗い顔したままなのよ」
なるほど。この二人は、夫婦だったのか。
神楽が状況を飲み込み始めている間にも、理香は仁王立ちをしたまま次々にまくし立てる。
「見えてないとは思うけど、私はあんたと子供達のことをずっと見守ってるのよ? だからさ、そろそろ元気出してよ。あんたと子供達が泣いてるところを見せられるの、結構つらいんだからさ」
「で、でも……やっぱり悲しいから、涙が止ま……」
「ああもう! 少しは男らしくシャキッとしなさいよ! ここは嘘でも日本男児らしく、ビシッと『はいっ!』って言いなさいよ!」
「は、はいっ!」
薄々わかってはいたことではあるが、ここの家庭はなかなかのカカア天下だったらしい。姿は勇そのものなのに、先程から彼が肝っ玉母ちゃんにしか見えなくて仕方がない。
「ふう、これだけ言わせてもらえれば充分かしらね。いい? 私の言いたいことがミクロでも理解できたんだったら、こんな口寄せだとかいう未練タラタラな行為には二度と手を出さないこと。わかったわね?」
「で、でも……やっぱり寂しくなる時だって」
「ここは嘘でも?」
「は……はいっ!」
「それでいいのよ。じゃ、さよなら。達夫……」
どこか弱々しい敬礼を見届けると、理香の魂は勇の身体を離れ、いずこへと飛び去って行った。成仏した様子がなかったことから判断するに、彼女は宣言通り家族達を見守り続けることにしたのだろう。
「ううっ……理香……俺、俺……うわああっ」
亡き妻からの激励に、達夫は歓喜か慟哭か判別しがたい叫びを上げると、高揚のあまり霊能堂を飛び出していった。
それとほぼ同時に、膝をついたままうつむいていた勇が意識を取り戻した。
「何なんだ、ここの夫婦は。今回の口寄せは、一段と疲れたんだが」
あの感情むき出しの女言葉から一転、すっかりいつものぶっきら棒な口調に戻っている。これならば、例え口寄せのために引き寄せられた人魂を目視できなくても、この霊媒師を信じる人は信じるだろう。
「疲れて当然だと思うよ。だって、飛びついてきたお客さんを殴ったり、怒鳴ったりしてたもの」
「まあ、それもそうだけどな」
遥の言葉に同意しながら、少しふらつきながらも立ち上がる。
その口振りからすると、勇は霊に憑依されている間もある程度の自我は保っているらしい。
「やっぱり口寄せは体力を消耗するな。もう少し料金を高めにしてもいいくらいだ」
以前、神楽は霊能堂での仕事がどのくらいの料金を支払われて行われているのかを尋ねたことがあった。幽霊退治の方は時と場合によってまちまちであるようだが、口寄せの料金はわりと高額である。それこそ、毎日のように口寄せの仕事が舞い込めば、霊能堂の財政難が解消されるのではないかと思われるくらいの料金設定であった。
しかしここで、神楽はあることに気がついた。大変疲れ果てている勇に、おそるおそるといった風で声をかける。
「あの、勇さん」
「何だ」
「さっきの人って、料金払ってましたっけ?」
「……」
室内に妙な沈黙が流れたが、それはほんの数秒で破られた。
「あの客……! うちは基本、料金は後払いだってのに、興奮してどっかに行っちまったじゃないか。逃がすかっ」
勇は疲労困憊なのにもかかわらず、猛ダッシュで霊能堂を出て客を追いかけて行った。
料金徴収に必死になる姿に、幽霊に関する案件を扱うのはあくまでも商売の一環であり、慈善行為とは一線を画すのだなあと思い知らされてしまう。
「大丈夫かな、勇さん。フラフラしてたけど」
「大丈夫、大丈夫。お兄ちゃん、見た目はちょっと弱々しいところがあるけど、足はパパに鍛えられたお陰でめちゃめちゃ速いから。あ、電話だ」
テーブルの上でいつのまにやら鳴っていた電話に気がつくと、遥はすかさず受話器をとった。
「はい。こちら、霊能堂です。ゴキブリ退治、ネズミの駆除。その他雑務は引き受けませんが、幽霊に関する案件でしたらどうぞ」
何やら今の一言に、余計な言葉が大量に含まれていたように聞こえたのは気のせいだろうか。
「あーはいはい。え、出たんですか? よし! ……いや、何でもないです。で、報酬の方は……ええっ! すごっ……あ、いや、取り乱してごめんなさい。はい、じゃあそれでは……はーい、確かに承りましたー」
電話を切ると、遥は満面の笑みを浮かべながら神楽の方を向いた。
「神楽ちゃん。今ね、すっごいところから依頼が来ちゃった。どこだと思う?」
「え? 全然わからないけど。どこから?」
「んふふ。きっと聞いたら驚いちゃうよ? 何とね、ホテル夢想郷から!」
「えっ!」
『ホテル夢想郷』というのは、某大手企業が経営する、国内でも有数の高級宿泊施設である。行ったことがなかったとしても、CMなどでその名を知っている人は多い。
ちなみに、夢想郷はこの地方都市にも一つだけ存在している。無論、大学生という身分もあって経済的に余裕のない神楽は一度も足を運んだことはなかったが。
「どうしてそんな、高級ホテルから依頼なんて」
「出るんだって、幽霊。しかも、恐ーい奴が」
「テレビとかから、飛び出して来そうなタイプの?」
「それはあたしにはわかんないよ。でも、とにかく」
遥はちらりと、霊能堂の出入口の方に目をやる。そして、軽く息をついてから呟いた。
「とりあえず、お兄ちゃんが帰って来ないと話にならないかな」