(7)
地獄だった。
今やすっかり過去の出来事となった今でもそう感じる。あれはまさしく、拷問そのものであった。
「ねえ、お兄ちゃんも神楽さんもどうしてそんなに元気ないの? ねえったら」
霊能堂に戻ってきてからずっと、遥はぐったりしている二人にしつこく尋ね続けていた。
「……一つ確かなのは、お前が相当な幸せ者だってことだな」
ソファーの上で寝込んでいる勇は、ぶっきら棒を通り越して棒読みになりつつある口調で弱々しく答えた。
心なしか、依頼先に向かう前よりもやつれているように見える。
「何言ってるの。幽霊の意思疎通できる方が幸せに決まってるじゃない。ね? 神楽さん」
「遥ちゃん、今回は見えない方が幸せだったかも……」
「だから、何でそんなに元気がないんですかあっ」
原因は、あの幽霊のネタにあった。
単刀直入に表現することが許されるのであれば、それは前評判とは裏腹に、至極寒かったのだ。
詳細に分析すると、日が完全に落ちるまでに放たれた百発のショートコントのうち、大スベリが七十八個。ダダスベリが十九個。そして、ややウケが三個。あれが命をかけて生み出したネタなのだと考えると、何だか報われない。幽霊が感涙のあまり、客の顔がしっかりと見えていなかったことが幸いだった。
「でも、まあ、成仏してくれたし……」
すっかり疲れ切っている神楽の脳内に、全力を出し尽くした彼との最後の掛け合いが蘇ってくる。
[はあ……はあ……。ど、どうです? 面白かったでしょう?]
幽霊は肩で息を継ぎつつボロボロと涙を流しながら、実に露骨なやり切った感を醸し出しながら尋ねる。
神楽はそれに対し、寝息を立てて目を閉じる兄妹をよそに、どこか遠い目をしながらたった一言「ええ、とても」とだけ答えたのだった。
幽霊はそれを聞くと、目元を手の甲で拭いながら笑顔を作った。
[ありがとう……お嬢さん]
そんなこんなで彼はとても満足そうに昇天していったはずなのだが、眠気と寒気のせいで意識が飛びかけていたせいでおぼろけにしか記憶が残っていない。こちらのダメージもなかなか大きかった気もするが、とにかく未練を晴らしてあげることができてよかった。
「俺としたことが。いくらアレだったとはいえ、幽霊の話の途中で寝るなんて。ネタの五十四番目くらいまでは何とか意識があったんだが」
勇はだるそうにしながらも、猛烈な睡魔に耐えられなかったことを反省しているらしい。罪悪感をにじませるような、苦々しい表情を浮かべている。
「だから、一体何があったの。あたし、このままじゃ気になって夜も眠れないよ!」
「あれだけグースカ寝てたら、夜眠れなくなるに決まってるだろ」
「だって、あたしには何にも見えてなかったんだからしょうがないじゃない。お兄ちゃんも神楽さんも、途中から無表情になって震えてたし」
「そんな目に遭わなくて済んだだけありがたく思え」
「何それ。全然ありがたく思えなーい!」
遥は一向に納得できる回答を得られず、不満そうに頬を膨らませた。
「勇さん」
神楽が声をかけると、勇は目だけを向けた。
「何だ」
「この仕事、とても大変なんですね。思っていたより、ずっとハードでした」
「……」
勇はボサボサの頭をかきながら、小さく息をついた。
「誤解されたくないから一応断っておくが、いつもああいうことをしてるわけじゃない。まあ、これはこれでとんでもなく疲れたが……。でも、今回はあんたが一緒にいてくれてよかった」
「え?」
突然の賛辞に困惑していると、遥がまたも「愛の告白キター!」と一人で盛り上がる。
勇は「今度口を挟んだら二度と依頼先に連れていかないぞ」というお言葉だけで横槍の如き軽口を叩き落とすと、再び神楽の方に向き直った。
「俺が言いたいのは、あんたがいなかったらあの幽霊は成仏できなかっただろうってことだ」
「どういうことですか。別に、そんなことはないんじゃ」
幽霊は、最後までネタをやり切ることで満足して成仏していったはず。ならば、勇だけでも充分に彼の未練を晴らすことはできたのでは……。
神楽はそう考えたが、それを見透かしたかのように勇は話を続ける。
「いや、俺だけじゃ無理だった。あの幽霊の成仏の条件は、ネタをやり切ることだけじゃない。ネタを誰かに披露し、笑ってもらうことだったはずだ。情けないことに、俺は日頃の睡眠不足も重なって途中で寝てしまったが、あんたは最後まで奴のネタを見て、感想も言ってやった」
「あ……」
確かに幽霊は、ネタを見せるだけでなく、誰かに笑って欲しいとも言っていた。しかし、正直なところ、あの時かけた言葉には偽りがあったのだが。
「でも、私、本当は」
「わかってる。本当はちっとも笑ってなかったんだろ。だけど、あんたのあの一言が、幽霊にとっては救いになったんだ。ほとんど意識が飛びかけていたが、そこだけは何とか覚えている。あの幽霊が安らかに天に昇れたのは、間違いなくあんたのお陰だ。親父があんたをここに連れてきた理由が、今回の件で理解できたような気がする」
「そんな。私はただ」
ただ、目に映る、現世をさまよう幽霊を放っておけるほど無情になりきれないだけ。
神楽が無言のままうつむいていると、遥が兄の顔をニヤニヤしながらのぞき込み始めた。
「ねえねえ。神楽さんのこと、正式に雇ったら?」
「……変な意味で言ってるんじゃないだろうな」
緩みかけていた勇の表情が、ピクリと強張った。
「いや、違うって。だってさあ、お兄ちゃんは今までずーっと一人で仕事を消化してきたわけでしょ? でも、神楽さんがうちに来てくれたら絶対に楽になるよ。多分、睡眠時間が三時間くらい増やせるんじゃない?」
お願いなので、人の価値を睡眠時間で換算するのはやめて下さい。何だか、とても切なくなるので。
そう思いつつも口を挟めないでいると、勇がゆっくりと半身を起こした。
「だけど、まだ意向を確認していないからな」
そして、神楽の方にしっかりと視線を合わせた。
「今回の仕事を見て、どう思った? やっぱり受け入れられないだろ。こんなイレギュラーな商売なんて」
「べ、別にそこまでは……あ」
仕事を受け入れられないことを否定する言葉が真っ先に飛び出したことには、神楽自身が一番驚いた。
あれだけ幽霊さえ見えなければと思いつめていたというのに、どうして。
しばらく悩んだ末、気持ちの整理がつかないまでも現時点での思いをそのまま吐き出した。
「案外、嫌ではないです。はっきりとは思い出せないんですけど、幸せそうに天に昇っていく幽霊を見た時には……その。少し不謹慎かもしれませんけど、やりがいを感じたと言いますか」
「やりがい、か。過去に何度か霊媒師の端くれみたいな奴をうちで雇ったことがあったが、誰一人としてそんなことは言わなかったな」
勇は目を細めながら、口を手で覆いつつ大きな欠伸をした。
「そうなんですか?」
「ああ。どいつもこいつも仕事内容のつらさに耐え切れなかったり、苦労に見合わない給料に愛想を尽かしたりしてやめていった。あのさ、もしここが嫌じゃないんだったら、しばらくここで働いてくれないか」
とうとう霊能堂の現代当主から、正式なスカウトのお言葉が切り出された。
つまりそれは、神楽にとっては初の内々定獲得ということになる。
「よしっ。キタキタキターッ! これでとうとう、お兄ちゃんにも人生初の彼女を手に入れるチャンスが巡っ……」
「……」
「ごめんなさい」
兄からの無言の圧力に、遥は「やべっ。地雷踏んだっ」とでも言いたそうな顔をしながら自分の手で自分の口を塞いだ。
「そうだったんだ……」
神楽は思いがけず聞いてしまった事実が信じられず、勇につい目を向けてしまう。
これだけの容姿をもってしていまだに彼女がいたことがないとは。恋愛にうつつを抜かせないほど霊能堂は忙しいのだろうか。それとも、単に勇の内面に何らかの欠陥が……。
「何か、余計なことを考えてないか」
「い、いやっ。そんなことはっ」
神楽がブルブルと首を横に振ると、勇は話を再開した。
「まあ、それならいい。もちろん、ここで働くことを無理強いするつもりはない。だが、財政難ということもあって、仕事に見合う分の給料を支払うことはできない。せいぜい、そこらのスーパーのレジ打ちとさほど変わらないくらいの時給が限界だろうな……。何なら、正式な就職先が決まるまでのバイトとしてでもかまわない。うちで働いてくれるっていうなら、心から歓迎する」
自分のことを、必要としてくれている。
例え特殊な商売を扱うところからの誘いであったとしても、どの企業からも受け入れてもらえなかった神楽にとっては喜ばしいことだった。
もちろん。考えるまでもなく返事はただ一つ。
「私でよかったら、ぜひ。よろしくお願いします」
「やったあ! お兄ちゃん、これで人材不足の解消に一歩近づいたねっ」
勇が反応するよりも先に、遥がぴょんぴょんと跳ね回りながら大げさにはしゃいだ。
その勢いのまま神楽に近寄り、パッと手を取る。
「これからよろしく! ねえ、今度から神楽ちゃんって呼んでいい? あたしに対しても、敬語なんて使わなくていいからさあ」
「あ、う、うん」
「やったー! ねえねえ。時間ができたら、色々なお話聞かせてね! あたしも神楽ちゃんに、色々なこと教えてあげるから!」
色々というのはひょっとして、心霊関連のことだろうか。考えるだけでも……末恐ろしい。
神楽は後のことを考え、苦笑いをした。
「まさか、親父が引っかけてきた奴がうちで働いてくれることになるとはな。まあ、これで一人で全部背負い込む必要がなくなったわけだし、たまには感謝するか」
勇は独り言に等しい声量で呟き、わずかながら口元を緩めた。
それは普通ならば聞き流してもおかしくなかったのだが、前々からあることが気になっていた神楽の耳にはしっかりと届いていた。
「あの、勇さん。今、ずっと一人で背負い込んでいたと言いましたよね」
「ああ。それがどうした」
「何気にずっと気になってたんですけど、勇さんのお父さんって仕事を手伝ってくれないんですか? スカウト活動にだけは、手を貸してくれているみたいですけど」
二人の父親である山伏装束の男は、妙な若々しさもあってか仕事から退かなければならないほど力が衰えてるようには見えなかった。例え全盛期を過ぎてしまったために霊能堂を息子に譲ったと仮定しても、普通は人材不足である以上、他にも色々と協力するべきなのではないだろうか。
「は? 何言ってんだ」
だが、こちらの思いとは裏腹に、勇のリアクションはあまりにも冷ややかなものだった。
「何を言うも、何も」
「確認していいか。あんたは、直接親父に声をかけられてここまで来たんだよな」
「はい。歩いてたらいきなり話しかけられて、そのままなりゆきで」
「親父の素振りに、変なところとかはなかったか」
「山伏みたいな格好をしていてところと、冗談みたいなことばっかり言ってくるのにはびっくりしましたけど、それ以外は特に」
「となると、考えられるのは一つ。あのクソ親父、面倒なことをしてくれやがったな」
「?」
勇は忌々しそうに口元を歪め始めたが、神楽には事情がさっぱりわからない。
状況がのみ込めないまま混乱していると、遥がスーツの袖を引っ張ってきた。
「ねえねえ。今ってパパの話をしてるんだよね?」
「うん。だって、普通なら」
「パパにはお兄ちゃんの仕事は手伝えないよ。たまーに入れ知恵するくらいならまだしも」
「え、それってどういう……」
「ん? 僕のこと、呼んだかい?」
どこからともなく、しばらくぶりに聞く声が響いてくる。
「ちっ。いつの間に」
次の瞬間、勇が苦々しい表情をしながらソファーから素早く飛びのいていた。
「駄目だなあ。日比野家の長男としては、これくらいビビッと察知しないと。ま、やれって言われたところで僕にもできる自信はないんだけどね。あっはっは!」
一体いつ入り込んだのかだろうか。勇の背後にいたのは、先程までは間違いなく姿がなかったはずの山伏装束の男だった。ソファーの肘掛けに腰かけながら、底抜けに明るい笑顔を浮かべている。
「あ、あなたは……」
「そう。ある時は不審者と間違われ、またある時はストーカーと間違われた哀れな中年。しかしてその正体は……じゃじゃん。勇と遥の父、日比野幸徳と申します。堅苦しい名前ですが、以後お見知りおきを。なんちゃって」
幸徳と名乗った山伏装束の男は、初対面の時と変わらぬ軽過ぎるノリでピースサインをしながら、マイペースを無理矢理ねじ込む。
……駄目だ。この人が生み出す空気に慣れるのには時間が必要かもしれない。
「え? もしかしてパパが来てるの? どこどこ?」
ここで何を思ったのか、遥が辺りを見回し始めた。その目線は、何故だかソファーの肘掛け付近に収まらない。
「は、遥ちゃん?」
そんな姿を見るなり、神楽は身体からスウッと血が引いていくのを感じた。
い、いや、こんなことって。
そう思いつつも、満面の笑みを絶やさない幸徳を凝視する。
「もしかして、そこの山伏ルックの人のことが見えてないの?」
「そこって、どこ?」
「ソファーの肘掛けのところ。ニコニコしながら座ってるんだけど」
「あー。あそこにいるんだ。ふーん」
「ふーんって……」
うん。何となくだけど、大体わかってきた。だけど、頭の回転が追いつかない。
「そんなに見つめられたら照れちゃうなあ。どうしてそこまで僕のことを見るかなあ」
幸徳は頬に手を当てながら、完全におふざけに徹している。
勇はというと、冷徹な眼差しで父のことを睨みつけていた。
「あれは見つめているんじゃない。どっかの誰かが、パニックを起こさせたせいで呆然としてるんだよ」
「あらら。誰だい? 僕のお嫁さんの次くらいにかわいい娘にパニックなんて起こさせたのは。僕がぶん殴ってやろうかな」
「なら、自分のことを自分でぶん殴るんだな」
「僕にそんな趣味はないなあ。というか、え? これって、僕のせいなの?」
「だろうな。だってあんた、あいつと会った時に隠してただろ、自分がどういう存在なのか」
「だって、どうせ隠さなくてもわかってるだろうなーって思ってたしさあ。というか、え? 本気でわかってなかったの?」
「……区別がつかないんだよ、あいつには」
「ええっ。嘘? そうなの? めずらしいなあ」
幸徳と再び目が合うなり、神楽はビクッと身を震わせた。
ここはもう、はっきりさせてしまわないといけないだろう……。
薄々どんな状況に陥っているのかわかっていながらも、一応確認する。
「こ、こ、幸徳さん」
「はい。何でしょうか」
「あなたってもしかして……幽霊?」
「あちゃー。本当にわかってなかったんだ」
幸徳は困り顔を作りながら、指先で頬をかく。そして、少しばかり反省した様子でこう付け加えた。
[そう。お察しの通り、僕は幽霊だよ。ほら、この通り]
幸徳は拳をかまえると、ソファーの背もたれに向かって勢いよく振り下ろした。
すると、拳どころか腕ごとソファーの中へと吸い込まれるようにしてめり込んでいってしまった。
「きゃあっ!」
神楽は小さく悲鳴を上げながら、数歩後ずさりした。
その足取りは、一歩一歩がぐらつくほどに弱々しい。
[いやいやいや。そこまで驚くことはないでしょ。幽霊なんて、見慣れてるだろうにさあ]
「親父、あれは別の理由で驚いてるんだと思うけど」
のんき過ぎるにもほどがある父の霊に対し、息子がすかさずツッコむ。
[どういうこと?]
「あれはな、幽霊にスカウトを受けてここまで導かれたっていう事実と、それを指摘されるまで気づくことができなかった自分自身に対して驚いてるんだよ」
悲しいかな。勇の指摘は、痛いくらいに的を射ていた。
「私って……一体」
幽霊が見えてしまうせいで就職先が決まらず、それゆえに何度も思いつめた自分。幽霊なんて見えなければいいとまで考えたというのに、まさか幽霊のお陰で働き口が見つかることになるだなんて。
……あれ? これってもしかして、何かわからないけどすごく面白いのでは?
それが脳裏によぎった瞬間、神楽の中で何かがプツンと切れる音がした。
「は……はは……あっはっはっは!」
「え、ど、どうしたの神楽ちゃん! ちょっと!」
膝から崩れ落ちて狂ったように笑い始めた神楽のことを、遥があわてて支えた。
最初は純粋に心配そうにしていたものの、その表情は徐々に不満げなものへと変わっていく。
「いきなりゲラゲラ笑い出して、その原因があたしにはさっぱりわからないってことは……そっか! きっとパパが、何かめちゃめちゃ面白いギャグでもやったんでしょ。ずるい! あたしも聞きたかったあ!」
[違うって! どう推理したらそういう発想に行き着いちゃうの? やってないって、そんなこと。勇、僕の名誉のために弁解してよ]
「そんな悠長なことをしてる場合か」
はたから聞けば非常に馬鹿馬鹿しい会話が繰り広げられているが、神楽の耳にはそれすらもまともに届かなくなり始めていた。
「はは……は」
笑い方こそは段々とおとなしくなっていくが、胸にこみ上げてくる複雑な心境はとどまるところを知らない。しまいには、めまいまで襲ってきた。
「私って……何なんだろう」
せっかく自分を必要としてくれる場所に巡り合えたと思ったら、オチがこれですか。
神楽は今まで生きてきた人生の中で、一番深い溜め息をついた。