(6)
天井から落ちてきたもの。それは、赤と白のストライプ柄のジャケットに蛍光色のズボンという、非常に目に悪い格好をした男だった。
歳は三十を過ぎたくらいだろうか。身体には青い電流に似た物質がからみついており、苦しそうに身悶えしている。
「神楽さん、何か見えてるんですか? ああもう、すっごくうらやましいっ。あたしにはお兄ちゃんが出した電撃バチバチしか見えないのにーっ」
例え幽霊が異様に派手な格好で床の上でうめくという目立ちまくりの状態であっても、遥の目にはとことん映し出されないらしい。冷静な兄と戸惑う神楽を交互に見ながら、一人で憤慨するばかりである。
[うう……うまいこと姿を消していたはずなのに……。どうして見つかったんだ]
幽霊は、恨めしそうに呟きながら勇のことを睨む。しかし、すぐさまそれを上回る鋭い眼光睨み返されてびくりと怖気づいた。
「確かに姿を消すのはうまかったが、霊力がそこらじゅうに溢れてたからいるのはすぐにわかった。おまけに、あんな音まで立てられたら、嫌でもどこにいるかくらい特定できる」
[音を立てれば、恐がって出ていくと思ったんだよ]
「俺がそんな、根性なしに見えるってか?」
[ひっ! そ、そういうわけでは]
軽く悪態をつこうにも、剣幕に押されて怯える幽霊。霊媒師が恐いというのはわからなくもないが、ここまで露骨にビビりまくりだと、何だか情けないようにも思えてくる。
「私にも、幽霊が見えない時もあるのね」
幽霊が己から姿を見せないように霊力を使っている時は、見えない場合もある。
自分には全ての幽霊が見えているのか。それとも限られた幽霊だけが見えているのかという、わりと肝心なことを今まで把握できていなかった神楽は、このことをしっかりと記憶にとどめておくことにした。
[やっぱり、俺を退治しに来たのか?]
身体の自由が効かない中で、幽霊は床に這いつくばったまま力のない声で尋ねる。その口振りから察するに、自分が退治の対象になりうる可能性があったことは薄々自覚しているらしい。
「別にあんたが自主的に成仏するというなら手荒な真似をする気はない。一つ聞かせてくれ。何であんたは、この家で騒音を立てまくっていたんだ。悪霊でもなさそうだし、何故生きている人間に危害を加えるんだ」
[は、話すから、このビリビリを何とかしてくれないかな。さっきから苦しくてたまらないんだよ]
「わかった」
勇がうなずくと、幽霊の身体に帯びていた電流に似た物質が一瞬にして消え失せた。その途端、苦しそうに歪んでいた幽霊の表情がみるみる和らいでいく。
[ああ、助かった。実は……あれ]
幽霊は床から半身を起こしながら、約束通り事情を説明しようとする。しかし、神楽と偶然目が合うなりピタッと話をやめてしまった。
[あの、お嬢さん。ひょっとして、俺の姿が見えてる?]
「え、あ、はい」
[いやー。若い女の子と口をきいたのなんて何年振りだろう。何か、嬉しいな。えへへ]
勇と話す時よりも、幽霊は心なしか口調が明るくなっている。所詮、男は死んでも男のままであるようだ。
「ねえ、神楽さん。何か嫌そうな顔してますけど、何が見えてるんですか? 教えて下さい」
相変わらず心霊現象との距離を詰められずにいる遥が、ぶすっとしながら問いかけた。
このままだと彼女の不機嫌メーターが振り切れてしまいそうであったため、神楽はなるべく丁寧に現状を伝えることにした。
「ええと、そこの床に派手な格好をした男の人がいるんです。全然恐い感じじゃなくて」
「へえ、恐くない系かあ。アイドル系の美形とかですか?」
「いや、アイドルというよりは……服装的に、芸人に近いような」
[そう! お嬢さん。俺、実は芸人なんだよ。よくわかってくれたねえ]
「えっ」
雰囲気だけで説明しようと思っただけなのに、職業を当ててしまうとは。そんなつもりなんて、全然なかったのだが。
神楽が自身の直感に困惑していると、幽霊は大げさな動きをつけながら、いきなり泣くような素振りを繰り出した。
[くうう……人と口がきけただけでも嬉しかったのに、俺のことを理解までしてくれただなんて。幸せ過ぎるぅ!]
いや、今のは理解したというわけではないし、何もそこまで喜ばなくても。
そう言いかけた時、勇が先に割って入った。
「幸せ過ぎるんだったら、この世に未練なんてとっくにないはずだろ。早いところ成仏したらどうだ」
[そんな冷たいこと言わないで下さいよぉ。こんなか弱い幽霊に成仏しろだなんて。鬼じゃあるまいし]
「あんたの言う通り、俺は鬼じゃない。だが、これ以上生きている人間に迷惑をかけるようであれば、俺はあんたにとって鬼よりも恐ろしい存在にならなきゃいけなくなる」
[ひいっ!]
勇は情を込めずに冷たく言い放つと、幽霊に向かって錫杖の先を突きつけた。
そこには霊力が具現化したものと思しき光が灯っており、微かに電流のような物質が放たれている。まさか、幽霊を霊能力によって強制的に成仏させようというのだろうか。
「待って下さい! 勇さん、ちゃんとこの人の話を最後まで聞きましょうよ。じゃないと、あまりにも……」
あまりにも、幽霊がかわいそう過ぎる。この世に未練を残したまま、強引に成仏させられてしまうだなんて。彼だって元々は、自分達と同じように生きていた人間だったというのに。
彼はこの家の住人に対して多大な迷惑はかけていたと思われるが、どう見ても悪霊ではない。それなのに、力ずくで祓うだけでいいのだろうか。生きている人間だけを救えれば、果たしてそれだけでいいのだろうか。
神楽は口をつぐみ、声にならない声をのどに詰まらせながらうつむいた。
「……」
勇は黙り込んだまま、恐怖におののく幽霊のことをじっと眺める。そして、今度は神楽の方に視線を移した。
「最後まで話を聞けばいいんだな」
神楽がコクッとうなずくと、勇は軽く息をついてから向き直った。
「大体、さっき事情を聞いてやるって言った時に横道にそれたあんたが悪いんだ。今度こそ、きちんと話してくれ」
[は、はい。話します。ちゃんと話します]
幽霊はオーバーリアクション気味な動作をつけながら、ガチガチの敬語を絞り出しつつ何度も首を縦に振る。その動きはぎこちなく、いかほどに正面に佇む霊媒師を恐れていたのかが見て取れる。
「よかった。勇さん、考え直してくれて」
神楽は胸をなでおろしながら、幽霊の話に耳を傾けることにした。
[俺はあなた達が来るまでずっと、この家でさんざんやかましく音を立てまくっていました。それは、誰かに俺の存在を気づいてほしかったからです。床を鳴らしてみたり、相手がいないのに何となく壁ドンをやってみたり、見よう見真似のヒップホップダンスをオールナイトで踊り狂ってみたりと、今思えば尋常ならざる迷惑行為であったと自覚しております。はい]
音を鳴らす手段として用いられていたものが、ことごとくおかしいものばかりのような。
しかし、ここで流れを遮断すれば話の腰をへし折ることになってしまう。なので、あえて何も指摘しないことにした。
[でも、俺がこんなことをしてまで人に気づいてもらいたかったのには深いわけがあるのです!]
幽霊は熱弁を振るいながら、勇の手を取ろうと手を伸ばす。だが、それは叶わず、実体のない霊体は肉体をスッとすり抜けてしまった。
[やっぱ、相手が霊媒師さんでも触るのは無理か……。俺、死ぬ前は芸人だったって言いましたよね? 俺の未練には、それが大きく関わっているんですよ]
残念そうに呟いてから、寂しそうな笑みを浮かべる。伏し目がちだった顔を上げてから、再び語り始めた。
[俺、いつの日か芸人として有名になるって夢を持ってたんです。でも、現実は厳しくて、本業だけじゃ全然稼げなくて。毎日毎日、食っていくためにいくつもバイトを掛け持ちしながらネタ作りをめっちゃ頑張ってたんです。それこそ、寝る間も惜しんで。で、ある日とうとうできたんですよ。名づけて『爆笑ショートコント百連発』っていう、これを披露したら確実に幾多の賞を総なめできるぞっていう会心のネタが。それで、やったー! って舞い上がった瞬間に目の前が真っ暗になって。多分、自分の限界を考えずに無理をし過ぎちゃったんでしょうね。そのままポックリ逝ってしまって]
それはいわゆる、過労死という奴だろうか。
残念ながら、その人生がいかほどに苦難に満ちたものであったのかを全て把握することはできないが、彼の生前の苦労が並大抵のものとは比較にはならないことだけは理解できた。
[でも、俺にとっては死んだことよりもそのネタを誰にも見てもらえなかったことがすごく悔しくて。あれさえ人前で披露できていれば、辛酸をなめ続けた苦労の時代は終わるだろうってくらい、とても自信があるネタだったのに。例え有名になれなくても、せめて誰かをこのネタで笑わせたい。それが俺のこの世に対する未練なんです。……そもそも、この家に居つくようになったきっかけも、ずっと前にここに住んでいた人がお笑い好きで、ネタ番組でゲラゲラ腹を抱えているのを見て、当時は浮遊霊としてさまよってた俺の芸人魂が揺さぶられたからですしね。……はは。死ぬまで気づかなかったけど、俺ってよっぽどお笑いが大好きだったんだろうなあ]
壁や床を鳴らしまくる幽霊に、こんな事情があったとは。志半ばで命を落とすというのは、さぞかし無念だったことだろう……。
神楽は命の全てを芸に費やした芸人が抱えた未練を知り、深く同情した。
「つまり、その会心のネタとやらを見てもらえれば成仏できるということか」
勇が尋ねると、幽霊はコクリとうなずいた。
しかしその表情は、相変わらず曇ったままである。
[でも、そんなの叶いっこない。だって、俺の姿は誰にも]
「忘れてないか。俺にはあんたのことが見えてるってことが」
[!]
幽霊は顔を上げ、何度もまばたきをしながら勇の方を見つめた。
[お、お兄さん、もしかして]
「あんたが全てをかけて作り出したネタとやらを、ここで披露してもらえないか。霊を見る力のある俺なら、あんたの姿を見ることも、声を聞きとることもできる。だから、ワンマンライブの客になることくらいならできるからな」
勇が淡白に言いながらその場に腰を下ろすと、幽霊はおどおどとしながら目を泳がせた。どうやら、思考の隅にもなかった展開にいささか驚いているようだ。
[い、いいのかい? こんなことに付き合わせちゃって]
「俺は全然かまわない。それとも、客が少な過ぎて不満なのか?」
[いやいやいやっ。そ、そんなことは]
ぶっきら棒な霊媒師をフォローするように、神楽もまた、幽霊に視線を合わせた。
「お客さんは一人でも多い方がいいですよね。私もぜひ、あなたのネタを見てみたいです」
[お、お嬢さんまで]
神楽は勇の横に座り、その場に立ち尽くす幽霊を見上げた。
「存分に披露して下さい。命をかけて作り出した、あなたの全てを」
[ううっ……うっうっ。ありがとう、ありがとう……]
まだ何も始まっていないというのに、幽霊の顔は既に涙でくしゃくしゃになりつつあった。
「あたしには何にも見えてないんだけど、一応空気を読んで……と」
遥はブツブツ言いながら床に座り、勇と神楽の視線の先に合わせるようにして頭の向きを調節した。
ただし、それでもやはり見えないものは見えないらしく、一度たりとも幽霊と目が合うことはなかったが。
[ぐすっ……ぐすっ……。俺、嬉しいです。幽霊になってから……いや、生きていた頃を含めて、今までの人生の中で一番幸せです!]
幽霊……いや、一芸人は、びしょ濡れの頬を何度か手の平で叩き、表情を真剣なものに切り替えた。いよいよ。彼の現世最後のライブが幕を開ける。
[それでは、行きます! 腹筋崩壊必至、『爆笑ショートコント百連発』ナンバーワン。じゃきーん! ……]