(3)
あれから五分も経たないうちに、神楽は寂れたビル街の一角にいた。
夢中で歩き続けていたせいか、どこをどう通ってきたのかはよく思い出せない。
「あれ?」
ここで神楽は、違和感を覚えて辺りを見回した。
あれほど懸命に追いかけていたはずの真っ白な背中が、どこにも見当たらない。
「見失っちゃったのかな」
異様に目立つ山伏ルックは、どこに行ってしまったのか。せっかく、歩きづらいヒールの靴で必死に追いかけたというのに。
「はあ……」
仕方がない。縁がなかったとあきらめて、おとなしく引き下がろう。
神楽は乱れてしまった髪を手で整えながら、来た道を引き返そうと身体の向きを変えた。
「あ」
しかし、その行動がきっかけとなって目的地が視界に映ることとなった。
「霊能堂……ここが?」
かすれた文字が書かれた看板が強引に打ちつけられた二階建てのビルが、目の前に存在している。壁の塗装がところどころ剥げ、建物の前に置かれている植木鉢が雑草の群生地になり果てているところを見ると、とても人が商売を営んでいる場所には見えないのだが。
「名前的に、多分ここよね」
それ以外に、男が言っていた『霊能堂』という名の建物はない。外観が異様にボロボロなのも、人材不足で補修に労力を費やせないと考えれば妥当だろうか。
「少し恐いけど」
せっかくここまで来たのだし、何事もチャレンジだ。
神楽は霊能堂の古びた体裁のドアまで移動し、ノックしてから中に入った。
「ごめん下さい」
ボロボロだったのは外観だけだったらしく、内装は想定していたよりもうんときれいだった。しかし、だからといってその空間がノーマルであるかと問われれば、間違いなくノーと答えるだろう。
がらんとしたスペースに、向かい合わせに置かれたソファーと、その間に長テーブルが置かれている。その上には、据え置き型の電話機のみが乗せられていた。
壁にはいくつもの環がついた銀色の錫杖がかけられていて、これでもかというくらいの存在感を放っている。何やら不思議な力が宿っているような感じがしないでもないが、詳しいことはよくわからない。
奥には給湯室への出入り口があり、その隣には上り階段がちらりと見えていた。
室内の大体の状況はわかったが、そんな中で一つどうしても気になって仕方のないものがある。それは。
「……」
ソファーの上で、時折もごもごと動く赤い物体。どうやら、誰かが毛布にくるまって横になっているらしい。
声をかけるべきだろうか。それとも、そっとしておくべきだろうか。
神楽が迷っていると、給湯室の方からひょこっと影が飛び出した。
「ちょっと、お兄ちゃん! 誰か来たんだったら、ちゃんと応対してよねっ」
影の正体は、キャラクター柄満載のエプロンを身に着けた少女だった。
肩まで伸びたふんわりとしたダークブラウンの髪に、くりっとした瞳が特徴的である。エプロンの下に着ているのは近所の高校指定のセーラー服だが、それにしてはやや幼い顔立ちに見える。
容姿こそあまり似ていないが、どことなく空気感に近しいものがあることから、彼女が山伏装束の男の娘であることは何となく察することができた。
「あ、どうも。こんにちは!」
「あ、こ、こんにちは……」
威勢のいいあいさつを不意打ちの如くかまされ、神楽はついおどおどとした口調で返してしまった。
「すみませんね。相談なら兄の方じゃないと話にならないんで、今叩き起こしますから」
少女は神楽に向かってニコッと特上のスマイルを浮かべてから、つかつかと毛布の塊に向かって猛進した。
「え、た、叩き起こすって」
「うりゃあーっ!」
そして、小さな拳をギュッと固めたかと思うと、宣言通り毛布をボコボコに殴り始めた。
霊能堂の中に、ボスンボスンという何とも鈍い嫌な音が響き渡る。
「殴るのはまずいんじゃ」
「いいんです。こうでもしないと、絶対に起きませんから。ほら、早く起きて!」
「いてっ!」
頭部と思われる個所に振り下ろした拳が命中するなり、毛布の塊がぐらっと揺らいだ。微かではあるが、うめき声がもれている。
「遥、いい加減にしてくれ。昨日は仕事が長引いたせいで、二時間しか寝てないんだ。人が来るまでは」
「だから、人が来たから叩き起こしてるんだってば」
「何だと!」
人が来たという言葉が耳に入るなり、毛布が舞い上がった。
「これが……イケメンな息子」
ようやくその中身が明らかになるなり、神楽は誰にも聞こえないような小声で呟いた。
毛布の中から現れたのは、二十代半ばくらいに見える若い男だった。目鼻立ちはなかなか整っており――まとっている雰囲気が違い過ぎて山伏装束の男と似ているのかは判断できないが――間違いなく容姿は良い部類に入るだろう。だが、不健康に見えるほど白い肌に、目の下にくっきりしたクマを浮かせているのは少し恐い。おまけに短い黒髪は寝ぐせだらけで、服装も適当に選んで着たのが丸わかりな、全然ファッションとして成り立っていない柄のトレーナーとジーンズの組み合わせという極めて残念な格好であった。
「……俺のことをじっと見てるけど、何かついてるのか」
「あ、いや。何でもないです」
「ならいいけど」
神楽は心情を悟られまいとどうにか取り繕ったが、男の目はあまりにも冷たかった。
「あんた。客には見えないが、一体何の用だ。どんな理由でここに来た」
男は姿勢を整えながら、実に愛想の欠片のない口調で言い放った。
そんな兄のことを、先程遥と呼ばれた少女が厳しくとがめる。
「お兄ちゃん、もう少しフレンドリーに接客しないと駄目じゃない。あ、兄は誰と話しても大体こんな感じなんで、気にしなくて大丈夫ですよ」
「はあ」
気にするなと言われても、それは難しい注文なのですが。
神楽は男の素振りに若干不愉快になりながらも、苦笑いで一応受け流す。
自分が客ではないと一瞬にして見抜いた勘のよさには一目置くが、この応対の悪さはいただけない。
「フレンドリーにって言われたってな。俺は、そういうことは不得意なんだよ。で、早く俺の質問に答えてくれないか。俺は職業柄年中寝不足でね。あまり無駄なことに時間を割きたくないんだ」
要するに、仮眠の続きに戻りたいからさっさと用件を話せと。
自分でもわりと温厚な方だと自負している神楽であるが、男の度重なる無礼のせいでさらに不愉快になってきたので、相手のお望み通りさっさと話を済ませることにした。
「あなたの言う通り、私は客ではありません。ここに来た経緯を簡単に説明しますと、ここの先代だっていう人に、スカウトみたいな感じで声をかけられたんです。自分の後を継いでいる、息子に会うだけ会ってみてくれって」
「ふーん。親父が、ねえ。ということは、あんたには幽霊が見えるってことか」
「まあ、一応。でも、それ以外の能力はないです。幽霊だって、人間みたいにはっきり見えてしまいますし」
「なるほどな。それはそれで変わってるように思えるが……」
男は急に真面目な顔つきになり、口元を手で覆いながら何やら考え込み始めた。
それはまだいいのだが、神楽は幽霊が見えることを話すなり、遥からキラキラとした熱い眼差しが注がれ始めたのが気になって仕方がなかった。
「本当? 本当に幽霊が見えちゃうんですか⁉ うっわ、すっごい! うらやましいっ」
「うらやましいって、そんな。あれ? あなたには幽霊が見えないんですか?」
遥が山伏装束の男の血を引いているのであれば、霊能力が遺伝していてもおかしくはないはずなのだが。
「はい。あたしには、全く霊感がないんですよ。というか、ゼロですね。ゼロ。非常に悔しいことに、霊能力とかの才能を全然受け継がなかったらしくて。だから、仕事に関する相談とかは兄じゃないと話にならないって言ったんです」
「そ、そうなんですか」
一族で家業を行っているというのに、その血脈が備えているはずの才能が子に受け継がれないということも起きるらしい。
「こいつが先祖代々から引き継がれる日比野家の体質を受け継いでくれていたら、俺もここまで苦労しなくて済んだのに。お陰で、うちの家業は人材不足だ」
男は考えごとを中断し、ちらっと妹の顔を見てから軽く息をつく。
「バイトを雇おうにも、うちの家業は幽霊を取り扱った特殊な家業だから一般人には勤まらない。もし霊感があったとしても、望んでうちの仕事をやろうっていう物好きはいくら望んでも現れなかったわけだが……。でも、そんな中であんたは親父にスカウトされたってわけか」
そして、まじましと神楽のことを見つめた。
普通は容姿端麗な男性に見つめられたりなんかしたら胸がドキドキしたりするものなのだろうが、男が眠気に押されて時々欠伸をかみ殺しているのが目について全くときめかない。
「詳しく話が聞きたい。俺の正面のソファーに腰かけてくれ」
「あ、はい……」
しかし、幽霊が見えるということを打ち明けただけでここまで食いつかれるとは。
自分の能力はそこまでめずらしいのかなあなどと思いながら、神楽は促されるままソファーに腰かけた。
「あたし、何か飲み物持ってきますね。それまでは……ムフフ、お二人でどうぞー」
遥は何故かチラチラと二人の様子を伺ってから、奥の給湯室まで走っていった。