(5)
深夜のホテルにはぼんやりとした薄明かりしかついておらず、数時間前までの高級感溢れる空間と同一のものとは思えないような不気味な雰囲気が漂っていた。もっとも、それは近くに幽霊がいると認識したことで生じた錯覚なのかもしれないが……。
神楽は周囲の空気に飲まれ、ゾクッと身を震わせる。ちょっとでも気を紛らわせようと、前を行く勇に声をかけた。
「あの」
「何だ」
「こういうの、恐くないんですか?」
「全然」
「どうしてですか?」
「とっくの昔に慣れたから」
「ああ……考えてみればそうですね」
「もういいか?」
「は、はい……」
無愛想な返しもあってか、会話のキャッチボールがなかなか円滑に進まない。
次はどんな話題を振るべきか悩んでいるうちに、階段に辿り着いた。
二人は足元に気をつけながら、ゆっくりと下り始めた。
「幽霊、下のフロアにいるんですか?」
「多分な。こっちの方から、霊気を感じる」
「余計なことかもしれないんですけど、エレベーターを使う気にはならなかったんですか?」
ホテルのエレベーターには、節電のために夜間は停止する物もあるが、ここのタイプは二十四時間稼働する物だったはず。迅速に幽霊を追うには、階段よりも有効な手段に思えるのだが。
そんな発想から口を挟んだ神楽だったが、事情はまもなく知ることとなった。
「……俺、実は閉所恐怖症なんだ。だから、なるべくエレベーターは使いたくない」
「え?」
閉所恐怖症? 暗闇も、幽霊をも恐れぬハートの持ち主が?
想定外の返答に、神楽の思考は一瞬フリーズした。
「『え?』って何だよ」
「いや、その、意外だなって。でも、部屋に案内される時、普通に乗ってましたよね」
「なるべく、だから。少しくらいなら我慢できる。高所恐怖症に比べれば……。まあ、こんな風に色々患うはめになったのは、全部クソ親父のせいなんだけどな」
「クソ親父って……幸徳さん?」
神楽が問うと、勇はコクッと力強くうなずく。
「知っての通り、あの人はかなりいい加減な性格だ。だが、あれでも生前は一族でも一、二を争うくらいの敏腕霊媒師だった。その分、俺に求めるスキルも半端じゃなくてな。修行にかこつけて、一体いくつトラウマを植えつけられたことか。その中で身につけたものも大きいから、あの人を一概に否定することはできない。それでも感謝よりも憎しみの方が前に出てくる」
淡々とした語り口ながら、ドロドロした何かを感じる。詳しいことはわからないが、過去に受けたスパルタ教育を相当根に持っているらしい。
「何か、これもまた意外ですね。あんなにニコニコしてるのに。ひょっとして、修行の時と普段とでは、ギャップがあったりするんですか」
「いや。いつもあんな感じだった。だから、余計に腹が立つんだよ。実の息子を、軽いノリで何度も危険な目に遭わせやがったんだから。『勇なら、行けるでしょ!』の一言で、何回命の危機にさらされたことか」
「そ、そうだったんですか。それで、あんなに嫌って……」
確かに彼なら「ライオンとかでもできるんだから、勇なら行けるでしょ! えーい」とか言いながら、崖からポーンと突き落としかねない……かもしれない。
想像しただけで肝が冷えた神楽だったが、ここで新たな疑問が脳裏をよぎる。
「でも、そんな状況でよく霊能堂を継ぐ気になりましたね。普通、そこまでやられたら反発したくなるんじゃ」
跡継ぎとして育てられる際、もし一生消えないトラウマを植えつけられたとしたら、自分だったら絶対に家業を拒む気がする。親に対し、恨みを抱いているのならなおさら。
一般的な見解を述べたつもりだった神楽だったが、勇はそれを聞くと急に立ち止まり、押し黙ったまま視線を落とした。
「す、すみません。私もしかして、いけないこと聞いたんじゃ」
「……継げないと思ったから」
「へ?」
ボソッと呟いたかと思うと、勇は神楽の方に向き直る。そして、真剣な面持ちを作りながら、たどたどしい語調でさらに続けた。
「霊能堂は、俺にしか継げないと思ったから。親父の所業を許す気はないし、死んでもあの調子だから、はらわたが煮えくり返りそうになることもある。財政難とか、危険が及ぶリスクみたいな別の問題も結構あるし、継ぐメリットはないように思われるかもしれない。だけど、こんな特殊な仕事でも、誰かが担わなきゃいけないから……必要とされている以上は。親戚にも一応、霊感がある者もいるが、生きてる中では俺の素質が一番高かったから。どうして自分は強い霊能力を宿して生まれてきてしまったんだろうって、正直悩んだ時期もあった。だけどいつしか、これには意味があるんだろうなって思えて。だから俺は、霊能堂を継いだんだ。これが俺の力に与えられた役割……俺の生きる意味なんだって」
まさか、同じようなことで悩んでいる人がいただなんて。
神楽は戸惑いを隠せないまま、何度もまばたきを繰り返していた。
彼女もまた、自分が生まれ持った能力について思い悩んだことがある。どうして自分は、人には見えないものが見えてしまうのか、と。
――私の中途半端な能力にも、何か意味があるのだろうか。まだ答えは見つからないけど、いつかわかる日がくるのだろうか。
口にこそ出さなかったが、勇に何となく親近感を覚えながら心の中で反芻した。
「……余計なことを話し過ぎた。雑談はここまでだ。幽霊の気配も、近い」
「え、あの。ちょっ」
「行くぞ」
「ええっ!」
これまでの流れを無視するようなことを口走ったかと思うと、勇は急に足元に注意を向けることを放棄して階段を一気に駆け下り出した。
神楽は少々混乱しながらも、その背中を必死に追いかける。
「どこだ、あいつは」
辿り着いた先はエントランスホール。ここは消灯しきっておらず、廊下や階段に比べるとうんと明るい。
時間が時間なだけに、いるのは事情を把握している従業員の方々だけだ。
「あ、勇さん。あそこ!」
周囲を見渡しているうちに、異変に気づいた神楽は天井にぶら下がるシャンデリアの方を指差した。
その先には、黒縁の眼鏡をかけた女が二人をじっとねめつけている姿があった。
「あんなところに逃げていやがったか」
勇は錫杖を手の中で一回転させると、その先端を幽霊に向けた。
「……。……」
お経とも念仏ともつかぬ、何も知らない人間には聞き取ることすら叶わない呪文がこだまするなり、杖に青白い光が宿る。
「……っ。はっ!」
錫杖から電流状の霊力がほとばしり、幽霊目がけて飛んでいく。しかし肉体を持たぬ女は、それをすんでのところでかわした。
「くそっ。何てすばしっこい奴なんだ」
勇は舌打ちをしながら、何度も杖から霊力を放つ。それでも、相手に命中することは一度もなかった。
[あたしはまだ、消えたくない!]
ずっと口を閉ざしたままだった幽霊が、怒鳴りつけるように大声で叫ぶ。
それはエントランスホールに響き渡ったらしく、霊感をろくに持たないはずの従業員達が何事かとどよめいた。
[あんた、さっきからしつこいのよ。いい加減にして!]
「ふざけるな。悪霊に片足を突っ込んでいるような奴に、とやかく言われる筋合はない」
[あ、あたしが悪霊ですって!]
勇に悪霊呼ばわりされるなり、ぐわっと髪を振り乱しておぞましい形相を作る女。自分が霊媒師から危険視される存在になっていることを、自覚していないのだろうか。
[嫌がるあたしをさんざん追い詰めた挙句、悪霊扱いするなんて。ゆ、許せない。そんなに言うなら、本当に悪霊になってやろうじゃないの。こうなったら、あんたの妹を……]
そう忌々しそうに口にしたかと思うと、天井をすり抜けて飛び去ってしまった。
「今、妹をって……まさか、遥ちゃんを」
「大丈夫だとは思うが、一応急ぐか」
「あ、いっ勇さん!」
勇は妙に冷静のまま言うと、その脚力を活かして階段へ駆けていった。
これも父からの受けた修行の賜物なのか。尋常ならざる俊足を追えず、神楽はあっという間に置いてけぼりをくらってしまった。
「そ、そんな……待って下さいよ」
心細さと焦りを感じながら、神楽はオロオロしながらもその場を去った。
「本当にいるのね、霊媒師って」
「それと、悪霊も……」
「天井に向かって話しかけてたよね……?」
オカルト耐性が一切ない、従業員達の好奇と恐怖の眼差しを一身に受けながら。




