(4)
「勇さん、大丈夫かな」
午前十二時を少し過ぎた頃、四〇二号室のベッドに腰掛けながら神楽は呟いた。
「私についてくるなって言うなんて。今回の幽霊って、そんなに質が悪いのかしら」
夕方に発生した一悶着に終止符が打たれた後、神楽は勇からこのようなことを言われていた。
『俺は体力を温存するために深夜まで仮眠をとるが、お前達はホテルを満喫していてかまわない。今回は危険だ。俺一人で討伐を行う』
それに対し、一応自分でも役に立てることがあるかもしれないと弁論を試みたものの、全く聞き入れてはもらえなかったのだった。
「除霊する力とかを持ってないと、駄目なのかな」
幽霊と意思疎通できるだけでは、やはり力不足なのだろうか。
自身に宿る能力の中途半端さに、不満が募る。
「せっかく力を持ってるのに、これじゃ何の役にも立てない。やっぱり私、何も見えない方が幸せだったのかな……」
隣のベッドで寝息を立てている遥の方をちらりと見てから、神楽は息をついた。
どうして幽霊を見たいと望んでいる人間にはどう頑張っても見えなくて、見えない方がよかったのではと思っている人間には否応なしに見えてしまうのか。世界というものは、見事なまでに都合よくできていないものだ。
「勇さん、どうしてるのかな。私と遥ちゃんにベッドが二つある部屋を譲って、一人部屋に籠っちゃったけど。まだ寝てるのかな? もう、討伐始めて……ん?」
今、隣の四〇三室の方から物音が聞こえた気が。何かがぶつかるようなドン! という鈍い音が。
最初は空耳かと思ったが、それは次第に大きくなっていく。
何者かが暴れ狂いながら、床や壁に物を打ちつける音だろうか。以前の依頼先の、芸人の霊が憑いていた家で聞いたものとは比にならないほどの騒音だ。
「遥ちゃん! 隣からすごい音が……」
突然のことに軽くパニックを起こした神楽は、あわてて遥に声をかける。だが。
「むうー……。シュークリームにタルタルソースですかあ? 斬新ですけど、合わないんじゃないですかねー……」
返ってきたのは、死んでも想像したくない食べ合わせのレシピだった。
どうやら爆弾じみた寝言を口にするほど熟睡しており、例の物音は全く耳に届いていないらしい。
「こんなにすごいのに、聞こえてないの? つまり、幽霊の仕業?」
もしかしたら単純に爆睡しているだけなのかもしれないが、そのように考える方が幾分か現実的だろう。
「どうしよう……」
悩んでいる間にも、音の強さは増すばかり。しまいには、ガシャンと何かが砕け散る音まで響いてきた。
「きゃっ! な、何? 何が起きてるの?」
「……っ……この野郎っ……」
「?」
壁越しに、微かに勇の声が漏れてきた。はっきりとは聞き取れないが、何かと対峙しているのは間違いない。
「ひっ……!」
それに重なるようにして、再び響く激しい物音。
もしや、勇の身に何かあったのでは。
そう思った時には既に、考えるよりも先に身体が動いていた。
「勇さん!」
神楽はすぐさま部屋を飛び出し、四〇三号室の前に立つ。そしてドアノブに手をかけ、押したり引いたりを何度か繰り返した。
「開かない……? そんな、どうして……きゃっ!」
うんともすんとも動かなかったドアがいきなり開き、その拍子に神楽はペタンと尻餅をつく。それと同時に、ドアの隙間から黒い影がぶわっと飛び出していくのを目の当たりにした。
「な、何? 今の……。黒い、もやの塊みたいな……」
「誰だ!」
室内から苛立ちがにじみ出たトーンが聞こえたかと思うと、中から寝ぐせで髪が跳ねまくっている勇が出てきた。
持っている錫杖をシャン、と鳴らしてから、神楽の方に視線を移す。
「……あんただったのか。寝てろって言ったのに」
「ご、ごめんなさい。物音がすごかったので、大丈夫かなって、心配になってしまって」
「心配なんていらない。俺がずっと、一人で仕事をこなしてきたってことを忘れたのか」
「あ……」
勇は、霊能堂唯一の現役霊媒師。心配されようがされまいが、過去に幾多の危機を自力で乗り越えていることは明らかだ。
「もう少しで除霊できそうだったのに、逃げられるなんてな」
「もしかして、私のせいですか」
「いや。ドアは悪霊の霊力……呪縛で塞がっていて、人の力じゃ到底開けられないような状態だった。あいつは俺にかなわないことを察して、自ら呪縛を解いて飛び出していったんだ。あんたが来ても来なくても、どっちにしても逃げられてただろうな。隙を見せた俺のミスだ」
うつむく神楽をぶっきら棒な口調で慰めてから、勇は周囲を鋭い目つきで見回す。
軽く息をついてから、錫杖で床を一突きし……。
「あの。その音響くからやめた方が。いくらこのフロアが貸切でも、流石に他の場所にも響いてしまうんじゃ」
「あ、そうだな」
……ようとしたが、神楽にたしなめられ、きまりの悪そうに頭をかく。
「まあ、ホテルの外までは逃げていないはずだ。霊気を追えば、何とかなるか」
気を取り直すようにして言うと、暗闇に包まれた廊下の方を向き、歩いていこうとした。
「ま、待って下さい。お願いですから、置いてかないで下さい」
だが、その場にへたり込んだまま動けないでいる神楽に呼び止められ、仏頂面を作りながら渋々振り返る。
「置いてくなって言われても。立てないのか」
「すみません。さっきのアレで、腰が砕けてしまって」
「……」
勇は無言のまま数秒ほど固まったかと思うと、スッと手を差し伸べた。
神楽はその様子に戸惑いながらも、それに掴まってようやく立ち上がる。
「あ、ありがとう……ございます」
それは男性らしい、大きくごつごつとした手だった。日頃からの疲労と、寝不足で倒れそうな様子からは想像がつかないくらい、どこかたくましささえ覚える感触。少し冷たいのが気になるが、頼りがいがあるように感じられ……。
「いつまで握ってるんだ」
「え、あ、ご、ごめんなさいっ!」
神楽はパッと手を放すと、あたふたしながら尻餅をついた際に付着した汚れを手で払う。少し取り乱しているのか、床に接触していないはずの部分まで叩いてしまっていた。
「これでもう、大丈夫だろ。部屋に戻って休んでいてくれ」
勇は今後こそはと言わんばかりに、再び背を向ける。だが。
「あっ。待って下さいっ!」
「…………」
二度目の制止につんのめりそうになりながら、どうにか立ち止まって再び後方を見る。
「まだ、何かあるのか」
「ええと。やっぱり私も、同行してもいいですか?」
「は?」
彼にとって思いがけない言葉だったのだろうか。勇はピクッと眉をつり上げた。
「部屋に戻ってろって、言っただろ」
「言われましたけど、その。私、全然働いた気がしてなくて。今回の件なんて、遥ちゃんとホテルの施設を堪能していただけで、仕事らしいことはここに来る時の車の運転くらいしか……。これでお給料をもらうっていうのにも、罪悪感というものが」
バイト扱いとはいえ、一応仕事に就いている身としては気が済まない。
神楽はそう訴えたが、雇い主の表情を伺う限り、いまいち気持ちが伝わっていないらしい。
「そんなに思いつめなくてもいい。それに、あんたがついてきたところで、何ができるって言うんだ。いいか、今回の幽霊はまずい奴なんだ。普段やってもらってるような、説得でどうこうできる相手とは違う。身に危険が及ぶことだって」
「でも、勇さん、言ってくれましたよね? 私が危ない目に遭いそうになったら、守ってくれるって」
「う……」
――もし危ない目に遭いそうになったら、俺が絶対に守ってやるから。
これは神楽が、初めて霊能堂を訪れた時に勇から告げられたお言葉だ。
当の本人もそれを嫌というほど記憶に留めていたようで、非常に苦々しい顔をしている。
「もちろん。覚えてます、よね?」
「覚えてはいるが、今回のは」
「もしかして、あれは嘘だったんですか?」
「嘘じゃない。嘘じゃない、けど」
「なら、ついていっても大丈夫ですか?」
「……好きにしてくれ」
論破できそうにないと判断したのか、勇は同伴を実質許可すると一人でスタスタと歩き始めた。
「では、好きにさせていただきますね」
今のは少し、意地悪な物言いだっただろうか。
そう思いつつも、神楽はニコッと笑ってから勝手に勇の後ろについていくことにした。




