06
その日、美佳は目を覚ますとカーテンを開いて窓の外を見た。
様子を伺い顔を綻ばせ、寝間着のままそっと窓を開ける。足を踏み出せばさく、と音がする。
「雪だー」
である。ちなみにまだ朝早くなので小声であった。
バルコニーには結構な量の雪が積もっていた。ようやく登りつつある朝日に照らされ、煌めいている。
雪は良い、と美佳は思う。美佳の住んでいたところはまれに降りはするもののほとんど積もることがなく、方々からかき集めても泥混じりの小さな雪だるまがひとつふたつ出来るくらいだった。
それでも昔は雪が降ると聞けば全力で早起きし遊び倒したものである。もちろん幼少の頃の話である。さすがにアパートのベランダやら駐車場で大の大人がきゃっきゃしていたら生暖かい目で見られるか下手をすれば通報ものなのでちゃんと自重していたのだ。
しかし、今は誰も見ていない。この部屋とその一角は魔女のために使われており、人もいない。よって少しくらいはしゃいでも良いですよね?良いですよ!よし!と美佳は盛大に自己完結した。たまには羽目を外したくなる時もある、だって人間だもの。
鼻歌を歌いつつ欄干に積もった雪を手にすくって雪玉を作り、ころころと転がしてゆく。
やはり基本は雪だるまだろう。手早く小さいものをつくり、並べてゆく。二つ重ねて、ああでも目とかどうしよう。何か使えそうな小物とかあっただろうか。
そう思って振り返りざま、足を滑らせ転倒した。
受け身ってなんですか?というくらい見事なまでにべしゃ、と雪に顔を埋める。
痛い。そして冷たい。
おのれ雪、わたしを拒むというのか。ぐぬぬと突っ伏しているとふとくぐもった声が聞こえた。
ゆっくりと顔を上げればそこには知らない人物が腹を抱えて震えていた。
いや、知らなくはないか。美佳はその人に見覚えがあった。この世界に来たばかりのあの時、王妃の部屋で壁をへこませた人だ。
何故彼がここにいるのか、同時に何故ぷるぷるしているのかと考え、後者の疑問は自分の有り様を省みてすぐに理解した。
「……いつから見てました?」
「…少しくらい、はしゃいでも、くらいから。」
ぶは、と笑いながら彼は苦しそうに呟く。
ほぼ最初からだった、というか心の声駄々漏れであった。
美佳は慌てて立ち上がり、照れ隠しに不機嫌そうにこの闖入者を軽く睨む。
「何でここにいるんですか、というか失礼じゃないですか。」
「…これは失礼致しました、魔女様。非礼をお許し下さい。」
むすーとする美佳の言い分に彼はぴたりと笑うのを止めた。若干冷えた表情で姿勢を正すと、深々と腰を折る。
それを見てさらにむーとなる美佳。分かってない。まったく分かってない。
「魔女とかそういうのはどうでもいいんです。じゃなくて。勝手に女性の部屋に入っちゃ駄目だとか、人が転んだのを見て笑うとか、そういうのどうなんですかっ。」
言われて彼はきょとんと瞠目すると、また少し、先ほどよりは柔らかく笑って見せた。
「それは申し訳ない。それと、女性の扱いには慣れていないものでご容赦ください。…何ですか、その顔。」
「いえ別に。」
えー、と言いたいのを堪えただけである。女性の扱いに慣れてない、とは異議を唱えたくなる言葉であった。
何しろ彼、結構なイケメンさんである。終始物腰柔らかなアルフォートとはまた違った、いわゆるクール系な美形で、さぞおモテになられるだろうにと美佳は思ったのだった。
そういえばアルはどうしたのだろうか。彼が居たならばさすがにこの人の挙動を止めただろうに。
考えると、タイミング良くアルフォートの声が聞こえて
「ジャン?ミカ様、失礼します…っ、ミカ様、どうされたのですか?そのお姿は…!」
「あ」
転んだのをすっかり忘れていた。雪まみれの身体を見下ろして、美佳はついで着替えもしていないことを思い出す。
「ちょ、ちょっと待ってね、すぐ着替えるから!」
「は、はい。ジャン、何を笑ってるんだ。お前も出ろ。」
「あー、はいはい。」
アルフォートに引っ張られ、彼はまだ緩んだ顔をしていた。…そんなに可笑しいですか、と憤然としつつ、美佳はそういえばあの人の名前はジャンと言うのだと思い出した。
「実は母が体調を崩しまして、あまり具合が思わしくないらしく…。」
アルフォートの話を要約すれば、彼の不在の許可を貰いたい、というのと代わりにジャンが護衛を務めるということだった。
「もちろん良いよ。お母さんにお大事にってお伝えしてね。」
「ありがとうございます。出来る限り早く戻るように致します。」
アルフォートは頭を下げると、ジャンを見た。
「彼は腕は立ちますので、その点はご安心下さい。それと先ほどのような非礼がありましたら、容赦なく叱り飛ばして下さって結構ですので。」
「言っておくが一応ノックはしたぞ?」
「そういう問題じゃない。」
「分かった分かった。もう少しちゃんとするから。ほらもう行けよ。早く帰って来るんだろ?」
アルフォートはがるるとジャンを睨む。
友人だという彼の前では美佳の騎士は随分とくだけた感じになるようだ。
再三小言を挟みつつ、心底名残惜しそうにアルフォートが去っていくのを見送ると、ジャンは美佳に向き直る。
「…では改めまして、ジャン・S・コールマンです。身内も城におりますので名前でお呼びください。」
「新名美佳です。よろしくお願いします。ジャンさん。」
「呼び捨てで良いですよ。同じ歳のようですし、もっと気楽に話してください。」
え、と美佳は硬直する。不躾に思いつつも、まじまじと顔を見てしまう。
「えーと、30…才?」
「ええ。」
言われてショックを受ける美佳。アルフォートと友人と言うから、彼と同じくらいだと思っていたのだった。ちょっと、その見た目で同い年はないわー、である。
「その顔、よくしますね。何です?」
「えー、というか、えーと、若く見えるなと思って。」
「…貴女には言われたくないですがね。」
ジャンは苦笑する。それはまあ、いわゆる人種の違いというやつではないか。よく言う日本人は若く見られる、アレである。美佳は考えて、そうだと思い付く。
「同じ歳なら、その、敬語止めにしない?わたしも呼び捨てで良いから。」
「それは、一応体面というものがですね…。」
「じゃあ二人の時だけでも良いからっ。」
アルフォートにはやんわりと拒否されたが、この黒騎士なら深くはこだわってなさそうというか、わりと緩そうなので食い下がる。うちの子は本当に堅物なのであった。
「あー、分かった分かった。」
じーと見る美佳に、ジャンは笑って彼女の頭をやや乱暴に撫でた。
おおう、とぐしゃぐしゃにされた髪を押さえる。整えたばかりなのにと手櫛で直す。
「なんで撫でるの。」
「すまん。実家の犬を思い出した。」
犬扱いですか。人のこと言えた義理ではないが。
「犬飼ってるの?」
「猟犬だけどな。」
言われて納得した。確かにそんなイメージではある、いや違う。この人のことじゃない。美佳は胸中で頭を振る。
こちらの世界では愛玩動物に犬は含まれないようだ。もっと実用的な、それこそ猟犬とか番犬とかに使われるのだろう。チワワとか居ませんかそうですか。
「…さて、じゃあ何処に行く?お供するが。」
「何処か行くの?」
言われて美佳はきょとんとする。返されジャンも瞠目する。んー?と二人で首を傾けた。
「どこにも行かないのか?」
「用事が無ければ基本的に外には出ないかな。」
「外って…あー、いや、普段は何をしてるんだ?」
ふむ、と美佳は己の最近の行動を顧みた。
本を読み、魔女のために造られた小さな庭園で花を愛でたりもする。たまにマリーガルドにお茶に誘われれば彼女の庭に出向く。この部屋に訪れることもあり、その時はアルフォートも交えてお喋りする。月に一回は定期検診を受ける。
指折り数える美佳にジャンは眉根を寄せた。
「それ、護衛要るのか?」
友人の存在意義、全否定であった。
美佳もうーんと言いつつ反論はしない。彼女の騎士を擁護したいのは山々ながら、その材料が見つからないのだった。我ながら酷いとも思う。
思い立ったかのように、ふとジャンの声が低くなった。
「誰かに、外に出るなと言われたのか?」
「ううん。」
「…そうか。ならいい。」
首を振るとほっとした表情になるジャン。
それを見つつ、でも、と美佳は前置いた。
「そもそも外に出たいって言ったことないから、実際そう言われるかは分からないけど。」
「…前言撤回だ。全然良くないな。もっと外に出ろ。動け。肥えるぞ。」
「なんでそーゆー事言うかな!ちゃんと身体は動かしてます!」
失礼極まりない発言にがうー、と怒る美佳。
この人、女性の扱いがどうこう以前の問題ではなかろうかと思う。言うことがいちいち酷い。
そんな美佳の様子も気にせず、ジャンは顎に手を当て考えるポーズを取る。
「さすがに街には行けないだろうが、まぁ城内なら許可も降りるかな。あー、お前…美佳。」
お前、のあたりで睨んでやると、目をそらして言い直すジャン。よし、と美佳は粛々と頷く。調教はかろうじて可能のようだ。
「普段名乗るなら、名前だけにしろ。どうしてもって時はウチの家名を使え。」
「…美佳・コールマン?」
「美佳・S・コールマン、だな。」
「分かったけど、何で?」
「今魔女がいることは一部の人間しか知らない。で、その髪は目立つからな。俺の親戚ということにしておけばひとまずは納得するだろ。」
言われて髪をひと摘まみする。確かにこの国では黒髪は珍しいらしい。王族はもとより、侍女たちにも黒い髪の持ち主はいなかったように思う。
しかし、そこまでして外に出る必要があるのだろうか。秘密にしておいた方が良いのなら、魔女はこの部屋にでもこもっているべきではないのか。
現時点ではあまり困っていないわけであるし、と疑問を口にすれば、ジャンはあっさりと肯定する。
「確かに、外に出ろというのは俺の押し付けだ。どうしても嫌だっていうなら止めはしない。けどな。」
一拍置いて、息を吸うと真剣な顔をして、
「ある程度はこの世界のことを知っておくべきだと俺は思う。例え、何かあっても自分で判断出来るくらいにはな。…まぁ、ただの老婆心というやつだ。強制はしないよ。」
最後に苦みの混じった笑顔を見せて、彼は言う。
この人は、本当に酷いな。
そう美佳は思う。そんな顔をして言われたら、拒否し辛いではないか。
しかし、確かに自分はあまりにも何も知らなさすぎたようにも思える。
3年という短いようで長い間、まがりなりにもお世話になる身なのだ。多少なりとも何かお返ししたい。それにはもっとこの国のことを、世界のことを学ぶべきだ。
何だかやる気が出てきた。よし、と美佳は小さく拳を掲げた。えいえいおー、である。
「ジャン、わたしやるよ!もっと色々勉強する!」
「お、おう。頑張れ。」
煽ったわりに(美佳の主観だが)いまいち勢いの無い返事である。だがその程度で美佳のやる気は下がらないのであった。
ともあれ勉強といえば図書室だろうと考えて、ならばやらねばいけないことがある。
美佳はいそいそと机に腰掛け、向かいをぺしぺしと叩いた。
「座って。これ、読んでください。」
「…なんでキノコなんだ。」
「そこは問題じゃないの。これを読み終わらないと次を借りに行けないの。」
「あの人がそんなことこだわるとは思えないんだがな…。」
「じゃあ万が一わたしが怒られたら助けてくれるの?」
「いや、あー…もういいや。」
頑として譲らない美佳に、変なとこ頑固なのはアルの影響かね、と独りごちてジャンはしぶしぶ席についた。