04
「それでは先生、よろしくお願いします!」
「…よろしくお願いします。」
テーブルを前に美佳は折り目正しく背筋を伸ばした。面映ゆい顔をして向かいに姿勢よく椅子に座っているのはアルフォートである。
彼は懐から幾つかの硬貨を取り出してテーブルに並べていく。金、銀、銅…鈍い銀色は鉄か錫だろうか、ゲームの駒を繰るかのように音をたてて置かれていくのを美佳はじぃ、と見つめている。
今から教わろうとしているのはこの国の貨幣についてである。
事の発端は美佳がマリーガルドに放った一言にあった。マリーガルドが身に付けていた耳飾りを褒めたのである。
おそらく金で作られた、花の形をしていて、彼女の瞳と似た碧の石が添えられていた。美佳とて妙齢の女性、可愛らしい小物には心惹かれるのである。だから思ったまま、何とはなしに「可愛いね」と言った。
そうしたらその日の夕刻には王室御抱えだという商人が色とりどりの宝石の並べられた鞄を幾つも取り出し「魔女様がご所望と伺いまして当店でも選りすぐりの逸品をお持ちしました」とか何とか。それからどこぞの大富豪が身に付けるようなプチトマトみたいな紅玉の指輪やら頑丈なケースに入れられ美術館に飾られるレベルの首飾りをあてがわれ、いやもう我ながらよく気絶しなかったものだと思う。
とりあえず購入については丁重にお断りして、マリーガルドにも謝罪混じりに深い意味は無いのだと説明した。
そうして人心地ついてふとみれば、彼女の身の回りのものすべてが高級感溢れすぎ、というか実際高いのでは?と気付いてしまった。例えば何気なく置かれた花瓶。毎日取り替えられる花々。調度品の数々。衣装箪笥の取っ手一つ握るのも躊躇われ始める始末である。
普段着からしてドレスを着用するお姫様やメイド服の侍女さんなどしか周りにいなかったので余計に歪んでしまっていたのだと思う。
いや、人のせいにしてはいけない。
マリーガルドたちは気にしなくて良いというが、こちとら純粋培養小市民である。せめてもっとこの世界のことを知らねば!と美佳は至急お勉強会を開始することにしたのだった。
ぱちん、と最後の一枚を置き終えて、まずは小さな鈍色の硬貨を骨ばった指が指し示した。
「これはレムス錫貨です。この中では一番価値が低いものになります。」
「ふむふむ」
美佳は貰い受けた紙に錫貨と同じくらいの大きさの円を書き、中に刻印されている花を描く。あんまり上手いとは言えないが、こういうのは何となく分かれば良いのだ。
横に錫貨、と添えるとアルフォートが口を開いた。
「それは、何を書いたのですか?」
「え?…あれ、読めない?これはね、錫貨。ちょっとここに、えーと、錫貨って書いてみてくれる?」
アルフォートにペンを渡し、紙の空白を指す。そこにさらさらと線が書かれた。筆記体に似てないことも無いが、やはり知らない文字のようだ。
「うん、読めない。」
言葉が通じるから気付かなかったが、どうやら文字の翻訳は魔法の範囲外のようだ。
美佳はちょっと、と言うかかなりしょんぼりした。
実は美佳、本を読むのが好きなのだ。ジャンル問わず何でも読む。本をため込み過ぎて床が抜けたというニュースを見てからはアパートでは自重していたが、実家の自室は本でいっぱいである。中には弟のものも結構混ざっているが。
「…ミカ様は、文字を読まれたいのですか?」
「うん、文字というか、本を読むのが好きだから読めたらなって…あ、でも無理なものは仕方ないよね。諦めるよ。」
アルフォートが難しそうな顔で訊ねてくるので美佳は慌ててかぶりを振った。そもそもこうして勉強会を頼んだのだって美佳だというのに、あんまり我が儘ばかり言っていてはいけない。
彼は美佳が言えば何でも叶えてくれるだろう。無論それが役目だからというのだろうが、美佳はそういうのは嫌だった。そう、ペットだって、一方的に癒されていれば良いわけではない。丁寧に世話して、望まれれば遊んでやり、たくさん可愛がってこちらを好きになってもらうのだ。そうしてようやく「ご主人様大好き!」な相思相愛の関係になるはずなのだ。それが飼い主とペットの正しい姿ではないか。
アルフォートが聞いたら色々な意味でくず折れそうなことを考えつつ、美佳はにっこり極上スマイルを投げかけた。大丈夫、ワタシコワクナイヨー、である。
彼女の騎士はそれを見て驚いた顔してそっと目を剃らした。何やら心なしか震えている気もする。美佳は思わずえー、と呟く。あれ、対応間違えた?
「いえ、申し訳ありません。問題ありません。」
アルフォートはごほん、と咳をして微笑んだ。
「ミカ様がよろしければ、私が読み上げさせて頂きますが。」
「読み上げ?」
「はい」
「アルが?」
「はい」
いつかどこかでしたようなやり取りをする。
ちなみにこの人、声も(美佳はすっかり忘れていたが「も」である)イケメンにふさわしい美声をしている。略してイケボイスである。
そのイケボイスで朗読される様を思い浮かべ「却下」即座に断じて「あ」そしてアルフォートがへこんだ。撃沈再びである。
「ああああのね!アルが嫌なんじゃなくて!迷惑だろうしって思って!」
「ミカ様に何かさせて頂くことを迷惑だなどと思ったことはございません。」
「あ、ありがと…じゃないえーとえーと、そのそう、わたし図鑑とか見るのが好きで、それなら絵を見るだけだから!読まなくても平気だから!」
「…そうですか。ミカ様がそうおっしゃるのなら。」
必死で弁解すると渋々納得するワンコ騎士。その寂しそうな目を止めてください。美佳はその頭を撫で回したくなるのを必死で抑えた。わたしステイ。
とりあえず話をそらそう。そうしよう。
「どうかな。図書館とか近くにある?」
アルフォートは頷く。
「一応、城内に図書室があるのですが…王族と一部の者以外は立ち入り禁止になっています。」
「あ、そうなの。」
図書館の閉架書庫みたいなものか。きっと珍しい本が一杯あるのだろう、と美佳は思う。しかし入れないのは残念だ。うーんと唸る美佳に、アルフォートが「…そうですね」と呟いた。
「姫にお願いしてみましょうか。何冊かお借り出来るかも知れません。」
提案に美佳はおおーとなる。なるほどマリーガルドはお姫様なのだから入室出来るのだった。
では早速、といそいそと立ち上がりマリーガルドのところへ行くことにした。思い立ったが吉日、なのである。
そんなわけで美佳とアルフォート、そしてマリーガルドは揃って図書室に来ていた。
マリーガルドに頼んでみたところ、「ミカ様であれば王族と同じ、いえそれ以上です!」と貸し出しどころか入室の手配までしてくれたのである。
ちなみに国王も二つ返事で了解を出した。曰く王様は王妃様を溺愛しており、彼女を救った美佳に大層恩を感じているらしい。以前は虚弱気味ですらあったという王妃といえば臥せっていた姿はどこへやら、血色良い笑顔で王の隣に控えていた。健康なのは良いことである。
「ここが王室図書室です。蔵書量はかなりのもので、きっとミカ様のご要望に応えられると思います。」
大きな両開きの扉の前、マリーガルドは歯切れ悪く
囁く。
「それと…この図書室を管理している方が中にいらっしゃるのですが、その、なんと申し上げていいのか…厳格な方、でして…。ミカ様のお気にさわるようなことがあるやも知れませんが、ご容赦ください。」
その持って回った物言いに美佳は既視感と戦慄を覚えた。まさかあの残念な司祭長みたいなのがもう一人いるとでもいうのか。
ちらりとアルフォートを見ると、困ったような顔をする。
「申し訳ありませんが、私はお会いしたことはないので、どういった方かはあまり存じ上げません。」
聞いて、そもそも彼はここに入れないのだと思い出す。とりあえずその人物に彼女の騎士が斬りかかる心配はないわけである。
「私は大丈夫です。…もしかしたらこっちが粗相をして怒らせちゃうかも知れないですけど。」
「ミカ様なら問題ございませんよ。」
にこ、と笑ってマリーガルドは扉を叩いた。
「アレシア様。マリーガルドです。入らせて頂いてもよろしいでしょうか?」
「駄目だ。帰れ。」
うわあ。
速攻で返された低い声に美佳は思わずひきつった。大丈夫じゃないかも。
しかしマリーガルドはと言えば、ぐ、と一瞬気圧されたが、負けじと言い返す。
「魔女様がいらっしゃるのです。少しだけお願いします。」
真摯に扉の向こうに声を掛けるマリーガルド。さして長くもない付き合いでも分かる、気の強くもない彼女の負けん気は美佳のために発揮されていると気付き目頭が熱くなる。マリーさん、なんて良い子…!
感動しているとややあって声が返ってくる。
「魔女だけ入れ。」
「え」
美佳の口から声が漏れた。
この、いかにも恐そうな人がいるところに、一人で?
美佳の胸中など知るよしもなく、マリーガルドは多少口惜しそうにしつつも笑みを向けてくる。
「ミカ様、どうぞ中へ。」
「あ、ありがとうございます…。」
まるで「ご主人様、ちゃんと出来たよ!」と言わんばかりのにこにこの笑顔に美佳はあっさりと負けた。美少女の笑みに敵うものなどないのだ。
ああ、さっきはアルフォートが入れないことに安心していたが、裏を返せば助けも望めないのだということに気付いた。
…今からやっぱりやめときます、とか言ったら駄目かなと埒もないことを考えて、二人がへこむのが容易に想像できて諦めた。姫と騎士のダブルしょんぼりは精神衛生上たいへんよろしくない。覚悟を決めよう。いざとなったら叫ぼう。うん。
「失礼します…。」
マリーガルドとアルフォートに見送られながら、美佳は恐る恐る侵入を試みた。
そこは図書室、と言うには広すぎた。
一階だけでもかなりの広さがあるのに、上を見上げれば吹き抜けのようになっていて階段が続いている。その壁際すべてが本棚になっていて、カラフルな背表紙がずらりと並んでいた。
そして美佳の立つ入り口付近にも本は置かれていた。というより、床に平積みされた本の山が幾つも立っている。中には雪崩をおこしているものもあり簡単に言えば、何かもう、ぐちゃぐちゃだった。管理って何だっけ、と思わず首を傾げる美佳である。
その本の塔の奥、やはり山積みの本が置かれた重厚な机を背に置かれた長椅子に、彼はいた。
寝癖のついた茶色の髪に、眠たそうな瞳。気だるげに椅子に腰掛けたその人は、もう何年もそこから動いていないのではないかと思うくらいこの場に馴染んでいた。
管理人とマリーガルドは言っていたが、美佳は胸中で彼を主と評した。図書室の支配者、立ち並ぶ本たちの主人は、美佳が入ってきたことなど気付いていないかのように微動だにしない。ただ、その指だけが手にした本のページを捲るためにせわしなく動いていた。
…というか速い。本当に読んでいるのか疑問に思うくらい速く、紙がぱらぱらと音を立てている。
ともあれ、ぼんやり眺めていても仕方ない。非常に勇気がいるが、目的を果たすべく美佳は口を開いた。
「あの、許可をくださってありがとうございます。アレシアさん。わたしは、新名美佳と言います。」
「…テイワズ・アレシア」
「ティ、ワズ?」
ぼそ、と呟かれ一瞬固まる。彼は喋るのも速かった。硬直した美佳を目線だけ動かしてじろりと睨め付けると面倒そうに…実際面倒くさいのだろう、ものすごく…溜め息をついた。
「ティズでいい。…家名は好かん。」
「あ、はい。ティズさん。」
「敬語もいらん。」
「ティ、ティズっ。」
一気にフランクな感じになりましたよ嬉しいな!全身変な汗かいてますけどね!
まさに蛇に睨まれたカエルの気分であった。とりあえずここから逃げたい。早く逃げたい。
「…えーと、本を借りたいのです…だけど。図鑑とか。」
「好きにしろ。」
はい許可降りた!ささっと帰ろう!
美佳はさっそく本棚に目を向けた。そして気付く。
気付いてしまう。
ぎぎぎ、と振り向いて、すでにこちらにはお構い無しであったテイワズに震える声で話しかける。
「あの…ティズ。わたし、文字が、読めなくてですね…その…どれが図鑑かってごごごめんなさいぃ!」
手に持った本を勢いよく閉じ立ち上がったテイワズに美佳はついに悲鳴を上げた。残念ながら助けは来なかった。
「ただいま…。」
「ミカ様、お帰りなさいませ。無事に借りられたようですね。」
「うん、やったよわたし…頑張ったよ…。ところで何の図鑑かなこれ。」
「失礼します。…ええと、『新・大陸キノコ名鑑』」
「………。」
「………。」